第15話 赤の記憶、白の街。
夜の始まり、宵のうち。変わらぬ潮風は静かに吹いている。
座り込み、腕に抱いたオルトの体温を確かめながら、アウグスタは呼吸を整えた。
焦げた布が風にはためき、微かな鈴の音が瓦礫の隙間で鳴る。音だけが生きている世界——いや、「生き残った音」だった。
体は重く、意識はまだ赤い残光の中にある。
だが目は、現実を追っていた。——まだ終わってはいない。
同時に胸の奥に、静かに消えてしまいたいという弱さもあった。
義姉と婆やは立ち上がり、篝火の中で指示を出してゆく。生きるため、今を。そして、その先を見据えて。
取り残されているのは、アウグスタだけだった。
胸に抱える息子の暖かさとは反対に、足元だけが冷たい。寄る辺なく視線が彷徨う。
そんなとき、次々と人がやってきた。従者、伝令、騎士。泣きながら、震える声で報せを伝える。
——伯父、従兄、弟、兄……すべて討たれた。逃げ延びた者も裏切った者も。
喪失の冷たさが、這い上がってくる。
首を垂れる人々へ、アウグスタは頷いた。理解はしている。だが、受け入れられない。心のどこかで、これは現実ではないのだと縋っていた。
そこへ、義姉の声。
「辛き役目、大儀であった。こんな荒れ果てた家だけど、一時だけでもお休みなさい」
その言葉に、屋敷に辿り着いた者たちも安心したのだろう。荒ら屋と変わり果てた屋敷の側で、僅かに身体と心を休ませる。「はっ」と力強く頷いた人々が眩ゆくて、つい視線を逸らしてしまう。
傍に立つ義姉は、現実を受け止めている。
唇を震わせ、短く祈るように名前を口にした。
手が震え、肩はかすかに揺れている。アウグスタの視界の端で、祈る姿が静かに灯った。
四つの棺へ人々が集う。そこにあるのは哀切だけではない。怒りや失望もあった。
父、母、義父、義母。失ったのは夫だけではない。すべての親たち。そしてそれは己だけでなく。
胸の奥で、かすかな震えが生じる。だが言葉は出ない。沈黙のまま、抱きしめるオルトに力を籠めた。
遺された温もりを逃したくなくて。
毅然として立っていた義姉だが、急な翳りが訪れる。
震える肩、荒い呼吸、やがて床に一滴の血が零れ落ち、ふらりと身体が揺らいだ。
義姉は足元を強く踏み締める。
倒れない。その姿は、生命が散る前の激しさにも似ていて。
アウグスタは、反射的に支えようとする。
義姉の体は長年の病に蝕まれ、限界を迎えつつあった。それを思い起こしたからだ。だが、腕には息子がいる。動けない。
そこへ婆やが駆け寄り、義姉を抱え上げて奥へ運んだ。短く息をつき、立ち止まる間もなく、アウグスタの視線は自然に背後へ巡った。
——息子も、義姉も、婆やも、すべて自分の背後にいる。これからは、自分が前に立たねばならない。
夜の灯が遠くでともりはじめる。焦げた空の下、静かに立ち上がるアウグスタ。
腕の中のオルトが、「生き残った重み」を刻みつける。
疲れきった体に、ただ強い意志だけが宿っていた。
——立たねばならぬ。
跪いたまま剣を握る騎士アントニオの姿を確認し、短く頷く。
かつての「女」としてではなく、これからの「当主」、その「代行」として。
深い静寂の中、キエッリーニ家の再起が、ゆっくりと幕を開けた。
穏やかに過ぎる夜の下、アウグスタは一人、屋敷の窓辺に立っていた。遠く港街では、微かに人々の動きが見える。
立ち並ぶ整備された街並みは、十四年もの歳月を掛け取り戻したもの。
揺れる灯火は、確かに日常の姿を見せていた。
「順調とは、言い切れないけど……」
呟きは、窓硝子に触れて消えた。
報告の中に、ひとつ気になる案件があった。
現場は観測外の小規模異界。
行商人を装った一団が観光客を「珍品市」と称して呼び込み、入った者から金品を奪う手口だ。
法の威光が届かぬ境界域。
物理法則すら曖昧な場所で、彼らは人の欲を利用していた。
偶々その現場に居合わせたのが、ルカとリナの「お出掛け」に付き合っていたオルトだ。
最初は富裕な子供と思われ、ルカが声を掛けられたらしい。
二人は怪しいと断った。しかし、成人したオルトはホイホイ着いていった……らしかった。
あれでも一人前の冒険者、すぐさま状況を見抜き、周囲を避難させた後に強盗団全員を拘束している。
「実に手際が良かった。どちらが追い剥ぎだか、判らん程に」と、組合支部長の報告書にはあった。
色々と思う事はあるにせよ、小さな正義感が、確かに街の秩序を支えていた。
——だが、正義感だけでは守れぬものもある。
それを知っているからこそ、アウグスタは窓辺から目を離せない。
街には今日も灯りがともる。
けれど、その灯を永く保つには、理と利だけでは足りなかった。
いざという時に「剣を抜ける者」がいなければ、理も利も潰される。
理解していたこと。そして、甘え続けていたこと。
静かに思考が巡る。
——アントニオ。
彼は今も、大異界『海』からの侵蝕を抑えている。
かつては家族を顧みず、忠義を優先した男。
それでも、十四年の長きに渡り、港を護り続けたのは彼だった。
その名を思い浮かべていると、背中から声をかけられる。
「そげんとこおっと、風邪ばひくばい」
婆やだった。手には幾通かの封書をを持っている。
「……婆や、それは?」
「奥方様への恋文たい。ばってん、あん色男のもんではなか」
婆やの顔に人の悪い笑みが浮かぶ。だが、アウグスタとて小娘などではない。その意味をすぐに察した。
密書を恋文と偽装するのは古くからの習慣である。
「
怖い家、シシリア辺境伯と、その盟友であるネーピ侯爵家からのものだった。
アウグスタは静かにそれを受け取る。
指先で封を切ると、封蝋からは微かにオリーブの花が薫った。
「——大儀でありました」
「はっ」
古式ゆかしき淑女の礼。小娘の頃からお付きであった婆やは、手本の様な姿を見せる。
淑やかな強靭さに、朴訥なシシリア弁。ご両家当主もさぞ、お喜びだった事だろう。
夜の静けさの中に、潮騒が戻ってきていた。
視線を落とした手紙の中には流麗な筆致で、「王家」の不干渉と十二年前の誓いが綴られている。
「……あの夜の続き、ね」
「ええ。十二年前、キエッリーニがまだ『怒り』を選んでいた頃たい」
婆やの声は、まるで過去を呼び戻す風のように柔らかかった。
アウグスタは手紙を閉じ、柔らかな封蝋の香りを吸い込んだ。
その瞬間、紙の向こうから、焔と鉄の匂いが蘇る。
——そして記憶は、十二年前の過去へと沈んでいった。
あの夜から、二度の春を超えた。
港には笑い声が戻っている。
風に乗る魚の匂いも、かつてと変わらない。
——けれど、同じではない。
人々は笑っていても、笑い方を忘れている。
あの夜を越えてもなお、心は焼け跡の上に立っていた。
石畳の継ぎ目には、炎で黒く焦げた線が今も残っている。
新しい建物の白壁が、まるでその記憶を覆い隠そうとするかのように眩しい。
アウグスタは歩きながら、二年前の赤を胸の奥に見ている。
夫を失い、街が燃え、すべてを失って。
それでも朝は来た。
その痛みを、立ち上がった彼女はいまだ手放せずにいる。
何も、彼女だけのことではない。
焦げ跡の残る広場に、男たちが集っていた。
篝火が並び、夜風が熱を運ぶ。
その熱の源は、煮えたぎる「怒り」。
その中心に立つのは、九十四という高齢を迎えた祖父だった。
——キエッリーニ・トラーパニ子爵家、開祖。
老いてなお、声は鋼のように響く。
その声に導かれるように、生き残った家臣たちは再び剣を掲げる。
「我らは決して逃げぬ。世の春を謳う邪智暴虐なる輩への、正義の刃を!」
異様なまでの覇気が、天をも焦がす。
かつてはトラーパニ領主に仕えた一介の騎士でありながら、一代で子爵位にまで成り上がった男。
「剣を持て。我等の誇りを取り戻せ!」
血と謀略の果てに領主の座へと登り、梟雄と呼ばれた祖父の声。
アウグスタには老いた獣の悲鳴としか聴こえぬその雄叫びが、男たちの魂を燃やしていた。
言葉の意味への理解を拒んだ。咆哮にも似た音響が耳を抜けていく。
復興を祝う筈の式典は、あの炎にも似た熱狂に支配されている。
その姿は怖かった。
共に海を渡り、夫を裏切り刃を突き立てた、かつての仲間たち。
屋敷を焼き、殺戮を試みた傭兵たち。
そのどちらとも似ていて。
やがて、キエッリーニ・トラーパニ子爵家の「当主代行」として、式典を結ぶ挨拶を終える。
彼女の背後には祖父がいた。背筋は曲がらず、矍鑠としていて、目つきは今も鋭い。
「……お祖父様」
「……ご苦労。帰るぞ、アウグスタ」
その癖、声は優しい。枯れ果ててしまった大きな手も、また優しかった。
屋敷への帰路についている。供はない。夕陽に照らされて長く伸びた影が二つ、並んでいる。
アウグスタは祖父が進めていることに、薄々は勘付いていた。士気を高め、辺境伯の力まで借りて、霊核を溜め込んでいる。
それで、察せぬ筈もない。だが、物申すことも、確かめることも出来ないでいる。
彼女には、そんな事よりも大切な仕事があった。
食糧、衣料、住居。医薬品などの消耗品に、資源に資金。それら全てを領内へ不足なく巡らせる事こそが肝要だった。
今や人々は逞しく、前を向いて生きている。
生活の安定こそが、人心への安定を齎すもの。それこそが、この顔を上げた二年で得た教訓であった。
だからこそ、問い質せもせずにいる。
商人たちからの報告によれば、王都では官僚派貴族の行方不明事件が相次いでいた。その数が最も多いのは赤い獅子。王国行政府財務省の構成員たちだった。
「頑張っておるのう」
「まだまだ、至らぬことばかりです」
夕陽に照らされた石畳を歩きながら、アウグスタは視界の端に揺れる焦げ跡を追った。二年前の炎の赤は、今も胸の奥で鈍く疼く。
祖父の影は頼もしく、歩幅は揃っている。
遠征に赴くアントニオのことも、戦の道筋も、彼女には全てが見えない。
だが、町の噂や家臣の言葉から、確かに何かが進行していることは薄々とは感じていた。
「オルトの手習いはどうじゃ?」
「ええ。騎士たち——冒険者の方々の指導もあり、元気に日々を過ごしておりますよ」
アウグスタは答えながら、七つとなった息子へ思いを馳せた。まだ愛し子。外で遊ぶ時も、学ぶ時も、逞しく、明るく育ってほしいと願う。
「アヤツの方も、安定しておるようだな」
「はい。もうすぐ、家族が増えるかと存じます」
結婚した義姉の話題に、アウグスタは穏やかに頷いた。相手はあの、不器用なアントニオだ。義姉にならば背負い過ぎる彼でも、任せられる。
家族の繋がりは、復興と同じくらいに大事なことであった。
夕風が港町の匂いを運ぶ。魚や焚火の香り、活気ある人々の笑い声。表面上は日常が戻っている。
だが心の奥には、まだ焦げ跡の記憶が残った。
民の生活を守ること、安定させることこそ、今のアウグスタに課せられた使命だった。
「……街も、民も、少しずつ元に戻りつつあります」
きっと、お祖父様も望んでくれている。
アウグスタの声は小さく、だが確かだった。祖父の沈黙の背後にあるものは見えない。
辺境伯からは何もない。つまり、治世を認めてくれているという事だ。王都からも何もなかった。
それぞれに立場があり、それぞれがより良き明日を望んでいてくれる。そうアウグスタは想っていた。
アントニオは遠征と帰還を繰り返し、落ち着かない日々を送っている。それでも我が子の誕生に、どれだけの喜びを溢れさせるのだろうか、あの子は。
そう考えるだけで、心が弾んだ。
「のう、アウグスタ。お前は、それで良い。決して、間違えるなよ」
綺麗事だけでは済まない。
そんな事は、アウグスタとて知っている。済むのなら、二年前のような悲劇は起こらない。
それぞれに事情があって、守りたいものを守るだけ。そう思えばこそ、「怒り」よりも、「迷い」が強かった。
「……生活の安定が約束されるなら、人はそう残酷にはなれぬものです」
それはこの二年、考え続けて出された結論だった。
何故、夫は、両親は、親族たちは理不尽に殺されねばならなかったのか。
「……人の暮らしを繋ぐには、法と税だけでは足りません。「赦し」と「理」が必要です。それらがなければ、また炎に灼かれる——そう思うのです」
その背景には経済成長の鈍化と、地方間での貧富の差などという現実があった。
国家は責任として、一定の生活水準を保障しなければならない。そのために法を敷き、税をとる。
負担の不均衡などが出ていた。
その歪みが政争という形で噴出したのが、二年前の「同時多発暗殺事変」だと飲み込んでいる。
「のう、アウグスタ。お前は、それで良い。決して、間違えるなよ」
目を細めた祖父と、視線が結ばれる。
だがそれはほんの一瞬のことで、彼は天を仰いだ。
「お前はお前のやり方で、自他共栄の道を探れよ。悪いが、儂等は別の道を往く」
それが、祖父が進めていることなのだろう。
その詳細は知らない。
知らなくても、今は問題ない。守るべきものを守る——それだけを考える日々だった。
二人は影を揃え、屋敷へと歩み続ける。眩しさに目を背けた夕陽は赤く、確かに燃えていた。
——その夜。
遠く離れた丘陵のとある街に、王国行政府直轄領を示す赤い獅子の旗が翻っていた。
夜風を裂くのは短い悲鳴。現界と異界の境界が入り混じる。
此岸では剣は振るわれず、音も立たぬ。
ただ、一瞬。
灯の消えるように、人々が、そして世界が一つだけ絶えた。
翌朝に開かれた門の向こうは、静かだった。
執務に励む衛兵の姿も、実務に勤しむ官吏の声もなかった。何も。
棚や椅子が倒れた部屋の中に、僅かに荒れた痕跡が残るだけだ。
日々変わりなく、政務や業務に励んでいた筈の人々が、「誰も残っていなかった」。
あるのは、吹き込む風と、倒れた椅子の微かな軋みだけ。
街全体が沈黙に包まれている。
王都から派遣された役人たちが、布告文に「異界の獣の仕業」と記す。
けれども、一部の人々は知っていた。
——あの港の名を、あの老人の名を。
それを誰もが口にせずに。
幾つかの家では、未亡人たちが黒いヴェールを被っていた。
幼い子が、母の裾を掴んで泣いている。
鐘の音が、まるで波のように彼らの胸を打つ。
その波が、遠く離れた海辺の町へも届いてゆく。
港に置かれた聖堂に、女たちがいた。
皆顔を薄布で覆い、祈りの言葉を重ねている。
アウグスタは偶然その姿を目にした。
誰の名も知らぬ。けれど、彼女たちの夫や息子の名を知っている。
——王都から派遣されてきた、官僚たち。
冷たい潮風が頬を撫でる。
アウグスタはただ黙って、彼女たちの背を見つめていた。
誰もが祈りながら、一つの言葉を繰り返していた。
祈りの声が、波に溶けてゆく。
アウグスタは目を閉じた。その時——。
誰かが、涙混じりに呟いた。
「なぜ、帰らなかったのですか」
その声が、胸に残る。
変わりなく響く潮騒の音と共に、別離を告げる聖堂の鐘が鳴った。
誰もが復興を祈るその影で、誰かの復讐が、誰かの悲嘆として実っていた。
祈りの声が、波に溶けてゆく。
アウグスタは再び目を閉じた。
焼けた街に残る焦げ跡は、今も石畳の継ぎ目に刻まれたまま。
あれは怒りの色でなく、選ばなかった道の轍。
けれど、人はそれでも生きる。
そのために、理を掲げねばならない。
彼女は、そう信じた。
信じるしかなかった。
そして変わらず、朝は来る。
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