挨拶おじさん
福小紋
(越後高校 女子A)
私がこの学校に入学したとき、最初に出会ったのは、「挨拶おじさん」だった。
まだ七時前、校門の前に人影があった。ワイシャツにジャージの上着姿で、ニコニコしながらじっと立っている。一瞬、近所の人が道に迷って立っているのかと思った。だが近づくにつれ、その人物は口を開いた。
「おはようございます」
やけに響きのいい声だった。私は思わず会釈だけして、返事をせずに通り過ぎた。
その翌日も、また翌日も、同じ場所で「おはようございます」と声がかかる。やがて、その人が校長先生だと知った。入学式でも全校集会でも校長先生は見ていたけれど、パリッとしたスーツで壇上に立つ姿と朝のジャージ姿が結び付かなかったのだ。だいたい、先輩たちも「挨拶おじさん」と普通に呼んでいたし。
入学したてのころは、一人だけ立って挨拶してるなんて、もしかしてイジメられてる先生なのかと思っていた。
なぜ一人で挨拶運動なんてするのか。
噂では、この高校に転勤してきたとき、生徒の挨拶があまりにも少ないのを気にしたかららしい。それで自ら校門に立つようになったのだとか。
笑う生徒も結構いた。「うわ、またいるよ」「好きだねぇ、挨拶おじさん」。無視する者も多かった。だが校長はまったく動じない。声をかけ続ける。
任侠映画のワンシーンみたいだった。校長の姿が、殴られようが蹴られようが仁義を通す親分の姿と重なる。その眼差しに、私は何かを感じていた。
放課後、さらに奇妙な光景を目にした。
校舎が閉められた後、地域に開放している特別棟で、ひと部屋だけ進学講習が開かれていたのだ。覗いてみると、そこにいたのはまたしても校長だった。黒板に数式を書き、3年生たちが必死にノートを取っている。
「放課後塾」と呼ばれるその場は、校長が自分の教科である数学をボランティアで教えている場だった。しかも、ただの補習じゃない。生徒に問いかける。
「なんで勉強するのか。大学に入るためだけじゃない。頭を鍛えるってのは、生きる武器を磨くっということです」
その口調は説教じゃなく、説法? 私の心に言葉が心に刺さった。
実際、効果は目に見えて現れた。高校全体の模試成績が急上昇し、地元の国立大や首都圏の難関大に過去最高の合格者を出した。部活動も勢いづき、インターハイ出場を決めた部がいくつもあった。
学校全体が、火がついたように動き出していたのだ。
2年の秋、私は生徒会長選挙に立候補した。理由は単純だった。校長の挨拶運動こそ、この学校の力の源だと思ったからだ。
「この学校をもっと元気にしたい。まずは挨拶から始めよう」
そう演説して、私は当選した。そして校長と並んで校門に立つようになった。だが、そんな時間も長くは続かなかった。
3年に進級する春、校長は転勤になった。
離任式の日、体育館は涙で濡れていた。私は生徒代表として花束を渡した。
「あ、ありがとう……ござい……ました」
声が詰まって、ほんの一言がうまく言えなかった。私は、ボロボロと泣いていた。校長も泣いた。不器用な別れだった。
校長は最後にこう言った。
「君たちの学校は、君たちが作るんだ」
校長が去った後も、私は朝の校門に立った。だが、ある日、担任に呼び止められた。
「もう挨拶運動はやめろ」
「なんでですか?」
語気を強めて聞き返す私に、担任は「勤務時間外は生徒管理ができないから」と言った。
さらに、困った顔をして説明を続けた。
「校長は、俺たちが一緒にやりたいと言っても断っていたんだ。もし他の先生がやり始めたら、やりたくない先生まで同調圧力でやらざるを得なくなるって。そうなれば職場がブラックになる。だから、校長は一人で……」
私は拳を握りしめた。なんだ、それは。校長は生徒を思い、先生たちを守り、全部一人で背負っていたのか。
私の胸に熱いものが込み上げた。
今、この学校の三分の一は「挨拶おじさん」を知らない1年生になった。2年生、3年生が卒業すれば、記憶から消えてしまうだろう。そうなれば、また元の沈んだ学校に戻るかもしれない。
それでも、私の中には、まだ校長先生の熱が残っている。
私は決めた。教員になる。
あの背中を継ぐ者になる。
仁義を守る侠客のように、学校に立つ。
いつの日か、私は言われるだろう。「挨拶おばさん」と。たった一人でと笑われるかもしれない。それでいい。いや、それがいい。
校長の魂を、私が引き継ぐのだから。
(終)
挨拶おじさん 福小紋 @Fukukomon
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