記憶買いの少女

@Nisitsukiamane

その記憶買います



 雨の音が教室の窓を叩いている。放課後の静寂の中、私は一人机に突っ伏していた。


 七海――それが私の名前。高校二年生になってもう半年が経つのに、クラスに馴染めずにいる。別に嫌われているわけじゃない。ただ、どうしても人との距離感が掴めない。

 「あの、桐島さん」

 声をかけられて顔を上げると、クラスメイトの田中美咲が立っていた。彼女の目は赤く腫れていて、泣いていたことがすぐに分かった。


 「どうしたの?」

 美咲は周りを見回してから、私の隣の席に座った。

 「実は、相談があるんです。桐島さんって、なんか不思議な雰囲気があるから」


 不思議な雰囲気。それは幼い頃からよく言われる言葉だった。でも、その理由を誰にも話したことはない。

 「何の相談?」


 「忘れたいことがあるんです。どうしても、頭から離れなくて」

 美咲の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に映像が流れ込んできた。それは美咲の記憶だった。


 中学時代の体育館。バスケ部の練習中、美咲がシュートを外し続けている。先輩たちの冷たい視線。「あんたのせいで負けたじゃない」という罵声。部活をやめざるを得なくなった日の悔しさと屈辱。


 私は慌てて美咲から視線を逸らした。この能力のことを、誰かに話すべきなのだろうか。

 「美咲ちゃん、もしも本当に忘れられるとしたら、どうする?」

 「え?」

 「仮定の話よ。その嫌な記憶を、完全に消すことができるとしたら」

 

 美咲は目を見開いた。

 「本当に消せるんですか?」

 私は深く息を吸った。これまで誰にも言えなかった秘密を、初めて誰かに話そうとしている。

 「私には、ちょっと変わった能力があるの」


 美咲の記憶を取り出す作業は、思っていたより簡単だった。


 手を握り、目を閉じて集中する。すると、美咲の脳内にある「バスケ部での屈辱」という記憶の塊が、まるで物体のように見えてくる。それを慎重に切り取って、私の中に移す。


 「あれ? なんだか、すっきりした」

 美咲は首をかしげながら言った。彼女の表情は、さっきまでとは別人のように明るくなっている。

「中学時代のこと、思い出そうとしても思い出せません。でも、それで正解な気がします」


 美咲が帰った後、私は一人教室に残された。彼女から受け取った記憶が、私の頭の中で再生される。他人の記憶なのに、まるで自分の体験のように鮮明だった。


 先輩の怒鳴り声が耳に響く。情けない自分への怒り。なぜもっと上手くできないのかという自己嫌悪。

気分が悪くなって、机に頭を伏せた。他人の辛い記憶を背負うというのは、想像以上に重いものだった。

でも同時に、美咲が救われた顔を思い出すと、少し誇らしい気持ちにもなる。


 家に帰る道すがら、携帯電話が鳴った。美咲からのメッセージだった。

 

 『桐島さん、本当にありがとう。久しぶりに心から笑えました。もしよろしければ、友達にもこのこと教えてもいいですか?』


 私は画面を見つめながら立ち止まった。一人の人を救うことはできた。でも、これを続けていくべきなのだろうか。


 美咲の口コミは予想以上に広がった。

最初は同じクラスの女子生徒が一人、次は他のクラスの男子生徒、そして他学年の生徒まで。

 みんな人には言えない辛い記憶を抱えて、私のところにやってきた。

 「失恋の記憶を消してください」

 「いじめられた記憶を取ってください」

 「両親の離婚のことを忘れたいです」


 私は放課後の図書館や屋上で、密かに「取引」を続けた。みんなの辛い記憶を受け取り、代わりに彼らに笑顔を返す。


 いつしか私は「記憶屋」と呼ばれるようになっていた。


 でも、問題もあった。

 他人の記憶を受け取り続けるうちに、私の頭の中はごちゃごちゃになってきた。どれが自分の記憶で、どれが他人の記憶なのか、時々分からなくなる。


 また、記憶を失った生徒たちの中には、妙に空虚な表情をする者もいた。悲しい記憶と一緒に、大切な何かも失っているような。


 そんなある日のこと。

 「桐島七海さんですね」

放課後の廊下で、見知らぬ男性に声をかけられた。三十代くらいで、スーツを着ている。

 「私、県立高校のスクールカウンセラーをしている山田と申します。あなたと一度お話ししたいことがあります」


 スクールカウンセラーの山田さんは、私の能力について驚くほど詳しく知っていた。

 「実は、似たような能力を持つ人を何人か見てきました」と山田さんは言った。

 「そして、みなさん同じような問題に直面します」

 「問題?」

 「記憶というのは、その人のアイデンティティの一部なんです。辛い記憶も含めて、その人を作り上げている。それを安易に取り除くことの危険性を、あなたは考えたことがありますか?」


 私は何も答えられなかった。


 「最近、記憶を失った生徒たちの中に、学習能力の低下や判断力の欠如を示す者が増えています。美咲さんも、バスケに関する記憶を失ったことで、体育の授業での運動能力が著しく低下しました」


 そんなことになっていたなんて、知らなかった。

 「でも、みんな苦しんでいたんです。その記憶のせいで」

 「苦しみも、その人の成長には必要なものです。失敗から学ぶこと、挫折を乗り越えること。それらすべてが人間を強くします」


 山田さんの言葉は重く、私の心に響いた。

 「それに、七海さん自身はどうですか? 他人の辛い記憶をため込んで、本当に大丈夫ですか?」


 その質問をされて、ハッとした。最近の私は、確かに調子がおかしい。他人の記憶に支配されて、自分というものが曖昧になっている。昨日の夕食が何だったかも思い出せないのに、二年前の他人の失恋の痛みははっきりと覚えている。


 「私、どうすればいいんでしょうか」

 「それは……」

 

 私は山田さんのアドバイスに従って、私は記憶を返すことにした。

 でも、どうやって?


 「記憶を取り出すことができるなら、戻すこともできるはずです」

 と山田さんは言った。

 「ただし、本人が望む場合に限って」


 まず美咲に話した。彼女は最初、戸惑った。

 「せっかく忘れられたのに、また思い出すんですか?」

 「でも美咲ちゃん、最近体育の授業で転んだりすること増えてない? バランス感覚が悪くなったって言ってたでしょう?」


 美咲は考え込んだ。確かに、記憶を失ってから妙に運動神経が悪くなった気がすると言った。

「バスケの記憶には、辛いことだけじゃなくて、体の使い方や仲間との連携も含まれてる。それも一緒に失っちゃったの」

最終的に、美咲は記憶を取り戻すことを選んだ。


 手を握って、今度は逆の作業をする。私の中にある美咲の記憶を、彼女の元に戻す。

「あ……思い出しました」

美咲の目に、再び辛い記憶が蘇った。でも同時に、バスケへの愛情や仲間との絆も戻ってきた。

「確かに嫌な思い出だけど、これも私の一部なんですね」

 彼女は涙を流しながらも、前より強い目をしていた。


 すべての記憶を返し終えるのに、一週間かかった。


 生徒たちの中には、記憶を返されることを拒否する者もいた。でも、大部分は美咲と同じように、自分の記憶と向き合うことを選んだ。


 「辛い記憶も、私を作っている大切な一部だから」


 「逃げ続けるより、受け入れて成長した い」


 「記憶を失って、自分が自分じゃないような気がしてた」

 みんなそれぞれの理由で、自分の過去を取り戻した。


 そして、最後に残ったのは私自身の問題だった。


 他人の記憶を自分の中にため込みすぎて、私は自分が何者なのか分からなくなっていた。中学時代の記憶も曖昧で、家族との思い出も薄れている。


 山田さんは言った。

 「七海さんの記憶は、他人の記憶に押し潰されているだけです。時間をかけて整理すれば、きっと戻ってきます」


 でも、一つだけ問題があった。まだ一つ、返していない記憶があったのだ。



 それは一年前、転校生の健太から受け取った記憶だった。


 健太は重い病気を患い、長期入院することになった。彼が私に託した記憶は、病気の苦しみや将来への不安だった。でも、もう健太は別の県に転校してしまい、連絡が取れない。


 この記憶だけは、返すことができずにいた。

そんなある日、健太から手紙が届いた。


 『七海さん、お元気ですか。僕は今、新しい学校で元気にやっています。病気も良くなって、普通の生活ができるようになりました。

 でも最近、不思議なことがあります。病院にいた時のことを、あまり思い出せないんです。きっと辛すぎて忘れてしまったんだと思いますが、でもその時期に出会った大切な人たちの顔も思い出せません。

 もしかして、あの時七海さんにお願いしたことと関係があるでしょうか。

できれば一度、会って話せませんか』


 私は健太の手紙を何度も読み返した。彼もまた、記憶を失ったことで大切な何かを失っていたのだ。



 健太との再会は、駅前のカフェで行われた。

 一年ぶりに会う健太は、以前より少し痩せて見えたが、表情は明るかった。でも、どこか空虚な感じもあった。


 「七海さん、僕の記憶を持っていてくれてるんですよね?」

 「うん。でも、返すのは辛いよ。病気のことや、将来への不安とか……」

 「それでも返してください」

 健太は真剣な目で言った。

 「最近気づいたんです。僕、病院で看護師さんにすごくお世話になったのに、その人の顔を思い出せない。同室の患者さんと励まし合ったのに、その記憶もない」


 健太は続けた。


 「辛い記憶を消すと、一緒にあった温かい記憶も消えちゃうんですね。僕は病気で苦しんだけど、その時に出会った人たちの優しさも知った。それを忘れるなんて、その人たちに申し訳ないです」


 私は健太の手を握った。そして、ゆっくりと記憶を返し始めた。


 病室での苦しい夜。でも、看護師さんが優しく声をかけてくれた記憶。同室の患者さんと交わした励ましの言葉。家族が心配してくれる気持ち。病気は辛いけれど、人の温かさを知った日々。


 健太の目に涙が浮かんだ。

「ありがとうございます。思い出しました。佐藤さんという看護師さん、田中おじいさんという患者さん……みんな、僕を支えてくれた人たちです」


 彼は辛い記憶も受け入れながら、同時に大切な人たちとの絆も取り戻していた。



 健太に記憶を返した後、私は長い時間をかけて自分自身と向き合った。

 他人の記憶を整理し、自分の記憶を掘り起こす作業は簡単ではなかった。でも、山田さんのカウンセリングを受けながら、少しずつ本当の自分を取り戻していった。


 中学時代の友達との楽しい思い出。家族との何気ない日常。読書が好きだったこと。小さな頃から人の感情に敏感だったこと。

そして、この特殊な能力を持った意味についても考えるようになった。


 ある日、美咲が図書館で声をかけてきた。

 「桐島さん、最近どう?」

 「うん、だいぶ良くなった。自分が誰なのか、思い出せるようになったよ」

 「それはよかった」

 美咲は微笑んだ。

 「実は、バスケ部に復帰することにしました」

 「えっ、本当に?」

 「記憶を取り戻してから考えたんです。確かに辛い思いもしたけど、バスケが好きな気持ちは本物だったって」


 美咲の表情は、以前より断然輝いて見えた。記憶を取り戻したことで、彼女は本当の意味で強くなったのだ。


 それから数ヶ月が経った。


 私はもう「記憶屋」をやめた。でも、能力がなくなったわけではない。時々、人の感情や記憶が見えてしまうことがある。

 

 でも今は、その能力を別の形で活かそうと思っている。

 山田さんのアドバイスで、ピアカウンセリングの勉強を始めた。記憶を取り除くのではなく、辛い記憶と向き合う手助けをする方法を学んでいる。


 「記憶は、その人の宝物なんです」とある本に書いてあった。

 「辛い記憶も含めて、すべてがその人を作り上げている。大切なのは、記憶を消すことではなく、記憶と上手に付き合うことです」


 教室で一人読書をしていると、一年生の女子生徒が近づいてきた。

「先輩、ちょっと相談があるんです」


 彼女の目は泣いた跡があり、とても辛そうだった。以前の私なら、すぐに記憶を取り除いてあげようと思っただろう。


でも今は違う。


 「どんな相談? よかったら聞かせて」

私は本を閉じて、彼女の隣に座った。記憶を奪うのではなく、一緒に向き合うために。


 彼女は中学時代のいじめの話をしてくれた。私は黙って聞き、時々共感の言葉をかけた。話し終わった時、彼女の表情は少し明るくなっていた。


 「先輩、話を聞いてもらえてよかったです。一人で抱え込んでたから」

「辛い思いをしたね。でも、その経験があるから、今度は同じように苦しんでいる人の気持ちが分かるんじゃないかな」


 彼女は考え込んでから、小さくうなずいた。


 「そうですね。私も誰かの役に立てるかもしれません」


夕日が教室を照らしている。私は窓の外を見ながら思った。


 記憶を売る少女だった私は、もういない。でも、記憶の大切さを知った少女として、新しい歩みを始めている。

 辛い記憶も、楽しい記憶も、すべて私を作っている大切な宝物。それを胸に、これからも人と人との心の架け橋になっていきたい。

放課後の教室に、穏やかな時間が流れていく。

 今度は逃げることなく、すべての記憶と共に歩んでいこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶買いの少女 @Nisitsukiamane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ