線の記憶

木工槍鉋

寸法の詩

秋雨の匂いが、開け放った窓から事務所に忍び込んでいる。それは湿った土と枯れ葉の香り、そして何処からともなく漂ってくる金木犀の甘い残り香だった。竹内は液晶モニターの青白い光から目を離し、深く息を吸い込んだ。その一呼吸の中に、過ぎ去った季節への郷愁が溶けている。

モニターから立ち上る微かな熱と、プラスチックの無機質な匂い。それは現代という時代の匂いだった。画面には先ほどまで作業していた集合住宅の図面が表示されている。規則正しく配列された住戸。効率を追求した、味気ない平面構成。

竹内の記憶の奥で、古い匂いが目を覚ました。それは鉛筆を削った時の木屑の香り、インクの酸っぱい匂い、そして何より、手で触れた紙の温かな質感だった。あの頃の設計には、確かに魂が宿っていた。

「先生、新しい住宅の図面ができました」

佐藤の声が静寂を破った。振り返ると、彼女がタブレットを手にして立っている。画面には完成したばかりの住宅の平面図が表示されていた。

「施主のご要望で、なるべくコストを抑えたいということで、910モジュールで設計しました」

竹内はタブレットの画面を覗き込んだ。きれいに整理された平面図。玄関、リビング、廊下、個室。すべてが910のグリッドに沿って配置されている。CADソフトが作り出す、機械的なものがあった。

「廊下を見てみよう」

竹内は画面上の廊下を指差した。910モジュールで設計された、真っ直ぐな廊下。数値を確認すると、通り芯910ミリ。

「この通り芯910から、柱が105ミリ、胴縁が両側で30ミリ、仕上げが両側で24ミリを引くと、内法は751ミリになる」

「751ミリ」

佐藤が数字を繰り返した。画面上では美しく見えた廊下が、急に窮屈に感じられる。

「実際に歩いてみよう」

竹内は立ち上がった。椅子のレザーが軋み、その音が事務所の静寂に小さく響く。事務所の床に、足で751ミリの幅を測る。

「ここに立ってみて」

佐藤が示された空間に身を置く。見えない壁に挟まれたような感覚。両腕を少し広げただけで、壁に触れそうになる。

「どう感じる?」

「狭いです。圧迫感があります」

佐藤の率直な感想。画面で見ていた時には気づかなかった現実。

「この幅で、洗濯物を抱えて歩けるか?子どもと手をつないで歩けるか?」

竹内の問いかけに、佐藤は首を振った。数字では表せない生活の実感が、体験によって明らかになる。

「910モジュールは確かにコストが安い。材料の無駄が少なく、施工も効率的だ。でも、場所によっては人の暮らしを窮屈にする」

竹内は事務所の奥で静かに佇む古いドラフターに目を向けた。そこからは時間の匂いが立ち上っていた——古い木材の匂い、錆びた金属の匂い、そして何十年もの間に染み付いた人の営みの匂い。

「メーターモジュールで計算してみよう」

竹内はドラフターに歩み寄り、引き出しから木製の折り尺を取り出した。手に取った瞬間、桐の香りが鼻先をくすぐった。それは故郷の匂いだった。祖父の工房の匂い。職人の手の匂い。

「通り芯1000ミリから、同じように構造材と仕上げを引くと、内法は841ミリになる」

今度は841ミリの幅を床に示す。先ほどの751ミリと比べると、わずか9センチの差だが、体感的な違いは大きかった。

「歩いてみて」

佐藤が新しい空間に身を置く。今度は呼吸が楽になった。両腕を自然に振って歩くことができる。

「全然違いますね」

「たった9センチ。でも、その差が住む人の心の余裕を決める」

竹内は折り尺を手に、佐藤に向かって説明を続けた。

「昔の大工は、この一本で家を建てた。畳一枚の長さが1820ミリ。その半分が910ミリ。これは人間の体を基準にした、長い歴史の中で生まれた寸法だ」

折り尺の表面は滑らかに磨かれ、何千回という使用の痕跡が刻まれている。寸・分の目盛りを指でなぞると、微かな凹凸が指紋に引っかかる。

「でも、現代の生活様式では、必ずしも910が最適とは限らない。洋服を着て、靴を履いて、荷物を持って歩く。昔とは身長も変わっている」

竹内は目を閉じ、記憶を辿った。い草の青い香り、太陽に干された藁の匂い。畳の上で過ごす生活の記憶。そして何より、家族の生活が染み付いた、温かい匂い。

「人が畳の上で寝転び、座り、立ち上がる。その動作を基準にした910ミリと、廊下を歩く動作を基準にした寸法は、必ずしも同じではない」

佐藤の息遣いが変わった。深く、静かな呼吸。新しい世界の扉が開かれる時の呼吸だった。

「でも、すべてをメーターモジュールにすると、コストが上がってしまいます」

佐藤の現実的な指摘。竹内は頷いた。

「その通りだ。だからこそ、場所によって使い分ける必要がある。主寝室や子ども部屋は910モジュールでも構わない。でも、家族が頻繁に通る廊下、みんなが使う洗面所やトイレの前は、メーターモジュールにする。メリハリをつけるんだ」

竹内の記憶に、一軒の家が蘇った。それは彼が独立して最初に手がけた住宅。敷地30坪の小さな土地に建てる、若い夫婦と幼い子どものための住まいだった。

「昔、設計した家でのことだ。限られた予算の中で、どうすれば豊かな空間を作れるか悩んだ」

あの時、竹内は現場に足を運ぶ度に、土を手に取った。その土の感触、匂い、重さ。すべてが設計に影響を与えた。

「施主と一緒に敷地を歩き回った。奥さんが洗濯物を持って歩く動線、ご主人が帰宅して玄関からリビングまでの動線。子どもが将来走り回る場所。すべて実際に体を動かして確認した」

その住宅で、竹内は部分的にメーターモジュールを採用した。玄関から主寝室までの廊下だけは通り芯1000ミリ。内法841ミリを確保した。他の部分は910モジュールでコストを抑えた。

「竣工の日、奥さんが廊下を歩きながら言ったんだ。『この廊下だけ、なんだかゆったりして心地いい』って」

新しい家の匂いが竹内の記憶に蘇る。杉の香り、漆喰の匂い、畳の青い香り。そして何より、これから始まる家族の生活の予感が、空気に溶けていた。

「数字の背後に、人の暮らしがある。それを忘れてはいけない」

竹内は古いスケッチブックを取り出した。ページをめくる音が、乾いた空気を震わせる。黄ばんだ紙からは、時間の匂いが立ち上った。インクの匂い、鉛筆の匂い、そして何より、情熱を込めて描いた時の記憶の匂い。

「この図面を見てごらん」

手描きの平面図。線の太さも不揃いで、寸法の文字も手書きだ。デジタル図面の美しさとは対照的だった。

「なぜこの廊下は841ミリなのか。ご主人の肩幅が48センチ。奥さんが42センチ。荷物を持って歩くことも考慮して、二人がすれ違う時に圧迫感を覚えない距離として決めた」

一つ一つに理由があった。数字の背後に、人の息遣いがあった。

「CADソフトは確かに便利だ。でも、危険でもある」

竹内はタブレットの画面を見つめた。

「910と入力すれば、瞬時に線が現れる。でも、その時に実際の内法寸法を確認する設計者がどれだけいるだろうか。構造材の大きさ、仕上げ材の厚みを考慮して、本当の使い勝手を想像しているだろうか」

佐藤が真剣な表情で聞いている。

「完成した時に、施主が『なんだか狭く感じる』と言う。でも、図面上では問題ない。通り芯の寸法は標準的だから。そんなことが多くなった」

外では夜が更けていた。街灯の明かりが窓ガラスに反射し、事務所の空気に微かな温もりを与えている。雨上がりの湿った空気が、開いた窓から静かに流れ込んでくる。

「もう一度、手で描いてみないか。実際の寸法を意識しながら」

竹内の提案に、佐藤の呼吸が深くなった。

二人は並んでドラフターに向かった。竹内は新しい紙を置き、鉛筆を手に取る。木と黒鉛の懐かしい匂いが立ち上った。それは創造の匂いだった。

最初に引いた線——鉛筆の芯が紙を擦る音が、静寂に小さな音楽を奏でる。その音には魂がある。機械が作る音とは違う、人の心が込められた音。

「ここは910モジュール。でも、この廊下の部分だけは1000にしてみよう」

竹内が線を引きながら説明する。通り芯910ミリと1000ミリが混在する平面図。一見複雑に見えるが、そこには住む人への細やかな配慮がある。

佐藤もタブレットを操作し始めた。新しい図面を作成しながら、実際の内法寸法を計算していく。画面上の数字が、体験によって実感に変わる瞬間だった。

「コストと快適性のバランスですね」

佐藤の言葉に、竹内は頷いた。

「そうだ。すべてをメーターモジュールにする必要はない。でも、人が頻繁に使う場所、特に圧迫感を感じやすい場所は、少しゆとりを持たせる。それが住まいの豊かさを決める」

鉛筆が紙を擦る音と、タブレットのタッチペンが画面を滑る音が、事務所に響いていた。二つの音は対照的だったが、その異なる音が重なり合う時、何か新しい可能性が生まれるような気がした。

空気が変わった。数字に支配された冷たい空気から、人の心が通った温かい空気へ。竹内は深く息を吸い込んだ。その空気には、希望の匂いがあった。

「910モジュールは日本の知恵だ。でも、それに囚われすぎてはいけない。時には、メーターモジュールも必要だ」

液晶モニターとタブレットは青い光を放ち続けていたが、古いドラフターの上で動く鉛筆もまた、確かな存在感を示していた。この瞬間、過去と現在が、伝統と革新が、静かに共存していた。

「住宅設計の醍醐味は、ここにある」

竹内は鉛筆を置き、描きかけの図面を見つめた。

「一組の家族のために、世界でただ一つの空間を作る。その家族の生活パターン、体格、好み、そして予算。すべてを考慮して、最適な寸法を見つけていく」

佐藤の図面にも、温もりが宿っていた。910ミリと1000ミリが混在する平面図。そこには確かに人の営みが感じられる。

線の記憶——それは数字の向こうにある、人の暮らしへの深い愛情だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

線の記憶 木工槍鉋 @itanoma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ