沈黙のワイン—薬品メーカーMR・佐伯圭介 

@k-shirakawa

語らせる者が、語られる者に

佐伯圭介は、都内の薬品メーカーに勤める営業部の新人MR。今夜は、年商数億円の大手クライアントである東都総合病院の神崎院長との接待。


本来は所長が取り仕切る筈だったが、東都総合病院に入院していた身重の妻が流産の恐れがあるとの事で急遽、新人MRの佐伯だけが店に向かった。


「水谷所長の件は当病院の産婦人科の医長から聞いていますから」と神崎院長は笑顔で佐伯に行った。


「恐れ入ります。私のような新人が院長先生のご接待をさせて頂きますことを光栄に思っております。今日はどうぞ宜しくお願い致します」と下座の席の前で立って挨拶をした佐伯だった。


場所は銀座の隠れ家フレンチ。ワインリストが分厚いことで有名な店だ。


「佐伯くん、ワインはお好きですか?」


神崎院長がメニューを手にしながら、ふと問いかけた。


佐伯は、にこやかに笑顔で応えた。


「実は、詳しくなくて……院長にぜひ選んでいただきたいです。お好きな銘柄はございますか?」


その一言で、神崎の目が輝いた。


彼はワイン通で知られていたが、これまでの接待では誰もその知識に触れようとしなかった。佐伯は、新人でありながらも、あえて『語らせる』ことを選んだのだ。


彼の父も会社こそ違うが同じ薬品メーカーのMRで社内でもトップクラスの営業成績だったが、この頃には既に他界していた。その父と釣りに行った時に「営業とは」の話をよく聞いていたし、父は単身赴任が多く、その度に元気な笑顔のハガキを貰っていた。


「じゃあ、メゾン・ジョゼフ・ドルーアンMaison Joseph Drouhin)ブルゴーニュ ピノ・ノワールをいきましょう。これはね……」


神崎は庶民の出だったことで、薬品メーカーの接待でも高級なワインを注文する事はよほどの記念日以外なかった。


そこから始まったのは、神崎の『うんちく劇場』だった。ワインの土壌、収穫年の気候、醸造家の哲学まで、佐伯は一つひとつに「へえ! そうなんですか……」「なるほどですね!」と驚きと敬意と感謝の気持ちを込めて相槌を彼は多少大げさに打っていた。


話はワインから、神崎の国立医科大学時代に本命はドイツ留学だったがフランス留学へも。そこから医療業界の国際事情へと広がっていく。


佐伯は、知っている話題でも決して口を挟まない。むしろ、知らないふりをして「それは初耳です」と言い、神崎の語りを促した。


そして、神崎がふと口をつぐんだ瞬間、佐伯は静かにグラスを傾けながら言った。


「院長のお話を聞いていると、まるでワインの香りが歴史を物語っているようですね」


神崎は笑った。「佐伯くん、いいこと言うね。話してて気持ちがいいよ」


その夜、佐伯は一度も自分の知識を披露しなかったし結論も出さなかった。ただ、神崎の話に耳を傾け、場を整え、語らせていた。


翌週、東都総合病院から大型契約の連絡が入った。


「佐伯くんの接待は、うちの院長が絶賛してましたよ。『あんなに気持ちよく話せたのは初めてだ。若いのに大したもんだ』」と副院長。


佐伯は、社内の誰にも自慢しなかった。ただ、デスクの引き出しにしまってあったフランク・ベドガーの著書を、そっと開いた。


「ホームランを狙うな、まず塁に出よう」


彼はその一節に静かに頷いた。


その後は生前の父のハガキに目を通した。笑顔の父親の写真の下に「営業の基本は話すより、語らせる。結論より、共感。沈黙こそ、最高の話術」と記されていた。


佐伯が大学を卒業して父親と同じ道を進むと決めた時に生前の父親に相談した。父親は飛び上がるほどの喜びの姿だった。


そして転勤先で一週間ごとにその地の有名観光地や接待の時の料理の写真、そして元気な父親の顔がコピーされた絵葉書を受け取っていた。


佐伯も自身の思いや決意を書いたハガキを父親に送っていた。それは父親の教えで感謝や敬意の気持ちを表すのは手書きと言うことも合わせて教わっていた。


【『沈黙のヴィンテージ』—MR・佐伯圭介の接待術—】


佐伯は、製薬会社の若手MR。今夜は、都内の名門・東都総合病院の院長、神崎雅彦が紹介する西東京総合病院の院長、三島幸成を交えた接待だった。


場所は赤坂の高級フレンチ「ル・ヴァン・ドール」。地下に広がるワインセラーを持ち、医療業界の一部では『隠れた聖地』として知られている。


神崎も三島もワイン検定シルバー保持者。医療現場では厳格な性格で知られる二人だが、ワインの話になると途端に饒舌になるという噂があった。


前回の接待で佐伯の立ち回りが評価され、神崎は彼だけを指名した。そして今夜、国立医科大学時代の同級生である三島を紹介する場を設けたのだ。


佐伯は、事前に二人の好みを徹底的に調べ上げていた。だが、父の教えを胸に、うんちくを披露するのは自分ではない。語らせることが目的だった。


席に着くと、佐伯はワインリストを開きながら、さりげなく言った。


「神崎院長、もしよろしければ、今夜の一本を選んでいただけませんか? 僕はまだまだ勉強中でして……」


神崎の眉がピクリと動いた。次の瞬間、彼は料理のメニューを見ながらワインリストを手に取り、目を細めた。


「では、今日は奮発しても良いかな?」


「はい」と佐伯は笑顔でこたえた。


「シャトー・ムートン・ロートシルトの2005年を」


佐伯は驚いたふりをして尋ねた。


「それは……どんな特徴があるんでしょうか?」


神崎はグラスを手に取り、語り始めた。


「2005年はボルドーにとって奇跡の年だ。春は穏やかで、夏は乾燥していたが、ぶどうには理想的な気候だった。ムートンはこの年、カベルネ・ソーヴィニヨンの比率を高めていて、タンニンが非常に滑らか。ブラックベリーの香りに加えて、杉やスパイスのニュアンスがある。熟成によって、今がまさに飲み頃だよ」


佐伯は、まるで初めて聞いたかのように目を輝かせた。


「へえ……まるで芸術品ですね」


神崎は満足げに笑った。


「ワインは医療と似ているからね。時間と手間をかけて、ようやく人を癒す力を持つんだ」


佐伯は静かに頷いた。


「先生のお言葉、心に沁みます。僕たちの薬も、そんな存在でありたいです」


神崎はグラスを傾けながら、ふと口にした。


「ところで、先日紹介してくれた新薬。あれ、うちの循環器内科が興味を持っているようだ」


佐伯は、あえて話を広げなかった。ただ、院長の話に耳を傾け、ワインの香りとともに場を整えた。


接待の終盤、神崎はこう言った。


「佐伯くん、君は話しすぎない。だが、聞き方がうまい。医者は話したがりが多いからね。君のようなMRは貴重だよ」


数日後、東都総合病院から正式な薬品納入の連絡が入った。


佐伯は、社内での評価が高まる中でも、決して自慢しなかった。ただ、デスクの片隅に置かれたワイン雑誌をめくりながら、次の接待に備えていた。


「語らせること。それが、信頼の始まり、尊敬する父の教えだ」


彼はそう呟き、雑誌を閉じた。


【院長・神崎雅彦の視点 —語らせてくれる若者—】


赤坂の夜は静かだった。グラスの中で深紅の液体が揺れる。シャトー・ムートン・ロートシルト2005年。神崎は、香りを嗅ぎながら、心の中でつぶやいた。


「この年のムートンは、やはり別格だ……」


向かいに座る佐伯という若いMRは、終始控えめだった。だが、ただ黙っているわけではない。話の節々に、絶妙な『問い』を投げてくる。語りたくなるような、心地よい沈黙だ。


「この銘柄を選ばれた理由は何ですか?」という一言で、神崎はスイッチが入った。ワインの話になると、つい熱が入る。だが、佐伯は一度も話を遮らなかった。知っているはずの話題にも、初めて聞いたような顔で「へえ~、そうなんですね」「なるほど……」と頷いた。


その態度に、神崎はふと昔の自分を思い出した。若い頃、教授にワインを語る機会をもらった時の高揚感。あのときの『聞き手』がいたからこそ、今の自分がある。


「この若者は、ただ薬を売り込みに来たわけじゃない。薬の話は一切しない。人を見て、空気を読んで、語らせてくれる。これは……営業じゃなく、信頼の構築だ」


帰り際、神崎は佐伯にこう言った。


「君のようなMRは、うちの医師たちにも好かれるだろう。薬の話は、また改めて聞かせてくれ」


その言葉は、すでに『納入』を意味していた。


【西東京総合病院長・三島幸成の視点 —沈黙の中の余韻—】


三島は、接待の席でほとんど語らなかった。神崎がワインを語る姿を見ながら、静かにグラスを傾けていた。


だが、佐伯の立ち振る舞いには、密かに感心していた。


「若いのに、よく空気を読んでいる……」


佐伯は、神崎の話に耳を傾けながら、時折三島にも視線を送った。無理に話しかけることはなかったが、ワインの香りや料理のタイミングに合わせて、自然に会話の間を作っていた。


三島は、医療の現場では常に『判断』を求められる立場にある。だがこの夜、佐伯の沈黙が心地よかった。語らせようとするのではなく、「語りたくなる空気」を作る若者。そんなMRは、滅多にいない。


帰り際、三島は佐伯に一言だけ残した。


「君のような人間が、医療を支える薬を扱っているのは、心強いね」


それは、最大級の賛辞だった。


数日後、三島は神崎に電話を入れた。


「例の新薬、うちでも検討してみるよ。あの若者、なかなかのものだ」


電話の向こうで、神崎が豪快に笑った。


「だろう? 沈黙の中に、語らせる力があるんだよ」


三島は、ふとワインの余韻を思い出した。


「ムートンのようだな。時間をかけて、じわりと効いてくる」


その言葉に、神崎は静かに頷いた。


【佐伯の社内での評価 —静かな勝者—】


数日後、製薬会社の営業部では、東都総合病院と西東京総合病院からの薬品採用通知が話題になっていた。


「佐伯、お前あの二人の院長と接待したんだろ? どうやって口説いたんだ?」


先輩たちが興味津々で聞いてくる。佐伯は、笑って首を振った。


「口説いてなんかいませんよ。ただ、話を聞いただけです」


支店長が資料を見ながら言った。


「神崎院長と三島院長は、うちの薬に慎重だった。過去に何度も断られてる。今回の採用は異例だ。佐伯、お前何かしただろ?」


佐伯は、少しだけ考えてから答えた。


「ワインの話をしていただきました。僕はただ、聞き役に徹しただけです」


支店長はしばらく黙っていたが、やがて笑った。


「それができる奴が、営業の本質を掴んでるんだよ。よくやった。次の大型案件も任せるから頼むぞ!」


社内では、佐伯の評価が一気に高まった。だが、彼は浮かれることなく、次の病院の資料を黙々と読み込んでいた。


「語らせること。それが、信頼の始まりだ」


その父の教えを胸に、佐伯は次の接待に向けて準備を始めていた。


【『沈黙のヴィンテージ』—語らせる者と、語られた者—神崎院長の記憶】


神崎雅彦がワインに魅了されたのは、まだ医学生だった頃。父は町の小さな町工場の工場長で、母はワインショップでパートをしていた。


母がワインショップの店員が各店から空き瓶を回収してきた時にラベルをはがしてノートに貼ってそのワインの特徴を書きこんでいた。


母の隣で綺麗に印刷されたワインのラベルが彼の幼少期に目にしたものだった。


「ワインは人を癒すのよ。お父さんが飲む薬も同じよね」


母の言葉は、今でも神崎の胸に残っている。


大学時代、フランス留学でボルドーを訪れた。シャトー・ムートン・ロートシルトの畑を歩いたとき、彼は医療とワインの共通点に気づいた。


「手間を惜しまないこと。待つこと。そして、患者様に合わせること」


その哲学は、医師としての彼の信条となった。


だが、妻を若くして病で亡くし、息子・翔太との関係はぎこちなくなった。翔太は医師ではなく、IT企業に勤めている。神崎は、息子に自分の価値観を押しつけることを恐れ、距離を取っていた。


「語ることは、時に重荷になる。だから、語らせてくれる相手が必要なんだ」


そんな思いを抱えながら、彼は接待の席に向かった。


<佐伯の成長>


佐伯は、入社当初は『話すこと』こそ営業だと思っていた。製品の知識を詰め込み、プレゼン資料を完璧に整え、医師に対して論理的に語りかけた。


だが、成果は出なかった。


ある日、同じ道の大先輩だった父に相談した。


暫く父は佐伯の話を聞いた後にこう言った。


「お前は、話し過ぎだな。医者は話したがりだ。じっくり聞いてやれ」


その言葉に衝撃を受けた佐伯は、話し方の本を読み漁った。


「語らせることが、信頼の始まり」


ある作者のその一節も、父が言うことと一緒だった。それで彼の営業スタイルを変えた。


接待の場では、知識をひけらかさず、相手の『語りたい欲』に寄り添う。


神崎院長や三島院長との席でも、佐伯は一度も自分の知識を語らなかった。ただ、ワインの話に耳を傾け、驚き、感心し、敬意と感謝を込めて笑顔で聞いた。


その姿勢が、院長たちの心を動かした。


<再会と継承>


薬品納入が決まり、佐伯は再び神崎院長を訪ねた。院長は、ふと息子の翔太の話をした。


「彼は医者にはならなかった。だが、最近ワインに興味を持ち始めてね。僕の話を聞いてくれるようになった」


佐伯は微笑んだ。


「それは素敵ですね。語ることができる相手がいるのは、幸せなことですものね」


神崎は、静かに頷いた。


「佐伯くん、君は営業マンではなく、聞き手のプロだ。医療の世界では、そういう人間が必要なんだよ」


その言葉は、佐伯にとって何よりの褒め言葉だった。


三年が経った今では社内では、佐伯の接待術が話題になり、若手育成の担当にも任命された。彼は後輩にこう語った。


「話すな。聞け。そして、語らせろ。それが信頼を生む」


<語られた者の沈黙>


赤坂のフレンチ「ル・ヴァン・ドール」。再び神崎院長と佐伯が席を共にした夜、翔太も同席していた。


「父が選んだワインを、僕が語る日が来るとは思いませんでした」


翔太が語るムートン2005年のうんちくに、神崎は静かに耳を傾けた。


佐伯は、その光景を見ながら、グラスを傾けた。


語られた者が、語る者になる。


その瞬間こそ、人と人がつながる本当の接点なのだと、彼は確信していた。



【『沈黙のヴィンテージ 完結編』—信頼を醸す男、佐伯圭介—】


<第一話:支店長の村井の眼差し>


製薬会社・関東支店の支店長、村井隆一は、十年前の春を思い出していた。


「佐伯、主任として水戸支店に赴任します」


人事発表のとき、正直そこまで期待していなかった。物腰は柔らかいが、営業経験は浅く、特別な武器もないように見えた。


だが、佐伯は違った。


「話すより、聞くことが大事だと思います」


そう言って、彼は病院の医師だけでなく、看護師、薬剤師、受付スタッフ、さらには接待接待をする店の従業員にまで、同じ敬意と感謝の気持ちをもって接した。


誰に対しても態度を変えない。村井はその姿勢に、次第に目を見張るようになった。


<第二話:誠意の接待>


ある年の冬、水戸総合病院の外科医十名との接待が予定されていた。場所は銀座の老舗料亭。佐伯は、店の女将と何度も打ち合わせを重ね、料理の内容や座席配置まで細かく調整していた。


しかし当日、病院から連絡が入る。


「緊急手術が立て込み、全員キャンセルになりました」


佐伯はすぐに店へ向かい、深々と頭を下げた。


「本当に申し訳ありません。こちらの都合でご迷惑をおかけしました。料金は全額、お支払いさせていただきます」


女将は驚いた。業界では、キャンセル料すら払わずに済ませるメーカーが多かった。それはバブルが弾けて経済が低迷していた時期だったからだ。薬品メーカーのMRの接待費も削られていて余計だった。しかし佐伯の対応は異例だった。


その話は、偶然来店していた水戸総合病院の八島院長の耳に入った。


「水戸支店の佐伯くんが……全額支払ったのか?」


オーナーが頷くと、八島は静かに言った。


「彼は、人としての礼節を知っている。薬の話より、こういう姿勢が信頼を生むんだ」


その一件で、佐伯の評価は院長の中で一気に高まった。


<第三話:育てる者へ>


佐伯は主任から係長、課長へと昇進し、やがて水戸支店の所長に抜擢された。十年の歳月が流れ、彼は今や若手MRの育成担当でもある。


ある日、後輩の高橋が悩んでいた。


「先生に話しかけても、なかなか聞いてもらえなくて……」


佐伯は笑って言った。


「話しかけるんじゃなくて、話してもらうんだよ。まずは、先生が語りたくなるような『問い』を投げてみて下さい」


高橋はそのアドバイスを実践し、少しずつ医師との距離を縮めていった。


佐伯は、後輩たちにこう語る。


「営業は、信頼の醸造です。すぐに成果は出ません。でも、誠意は必ず誰かが見ていますから」



<最終話:語られた者の継承>


ある夜、神崎院長と佐伯は再び「ル・ヴァン・ドール」で再会した。


「佐伯くん、君が支店長を飛び越えて日本支社の取締役人事部長になったと八島院長から聞いたよ。おめでとう」


「ありがとうございます。神崎院長のおかげです」


神崎はグラスを傾けながら言った。


「いや、君自身の誠意が、君をここまで連れてきたんだ。僕はそれを見ていただけだよ」


その夜、佐伯は語らなかった。ただ、院長の話に耳を傾け、ワインの香りとともに、静かに微笑んでいた。


語らせる者が、語られる者になる。


そして、信頼は次の世代へと受け継がれていく。


―了―



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