幻想の欠片

目良木五月

第1話 rainy room

雨の日は、彼がこの部屋から出ていくことがない。

普段はアウトドアという言葉を人の形にしたようにずっと外に出ている彼だけど、偏頭痛には勝てないらしい。雨の日は普段の活発さが嘘のように、部屋のベッドの中で頭を抱えて小さくなる。

いつも彼を見送るだけのインドア派の私は、彼が部屋に留まってくれる雨の日が好きだ。カラりと冬の晴れ空のように笑う彼が、むっと眉間に皺を寄せて酷い人相で苦しんでいる様子を見るのも、実は好き。本人に言ったら怒られそうだから言わないけど。

趣味も性格も違う私たちがなんで付き合って、同棲にまで漕ぎ着けたのかは正直自分でもよくわからない。もしかしたら彼の胃袋を掴んだ功績一つで成り立っているのかもしれない。だとしたら料理の腕はまだまだこれからも磨かなければ。

ベッドで布団にくるまって、ミノムシのような彼の背中であろう箇所を撫でる。

ぐぬぬ、と変な唸り声。

「頭大丈夫?」

「……その聞き方は悪意があるだろ」

「……そういう意味じゃないよ」

くすくすと笑いながら、おそらく頭であろう箇所をぽんぽんと叩く。彼がまた唸った。

「大丈夫じゃない」

「薬は?」

「飲んだ」

飲んでも効かないらしいけど、彼は面倒がって別の薬を試そうとはしない。もっと効く薬だってあるだろうに。

「寝てれば治る?」

「ん」

ぶっきらぼうな返事に、また少し笑う。自由気ままに飛び出していってしまうことの多い彼が、こうして私の手の届く範囲で動かずじっとしている姿が好きだ。

彼の隣にごろんと寝転がり、布団ごとミノムシを抱きしめる。布団越しにも伝わる高い体温に、ほんの少し汗ばんだ。

「暑い」

「暑いね」

「うざい」

悪態をつきながらも私をひっぺがすだけの力が出ないらしい。大人しくされるがままに丸まる彼に、私はなおのこと強く抱きついた。

暑い。湿気もあるから、じっとりとしている。

でも、全身で感じる彼の体温が愛おしい。

せめて雨の日は、ずっと、私の腕の中にいてね。

窓の外からはサラサラと雨の音が聞こえてくる。パラパラと時折強く窓に叩きつけるような雨音も、濡れたアスファルトを擦るタイヤの音も、背中伝いに低く鳴る彼の鼓動も、睡魔となって私の瞼にのしかかってきた。

降りしきる雨音と彼の鼓動に囲われて、微睡みの檻に囚われる。

この閉ざされた空間が、私は何より大好きだ。


***


ぐわーっと頭を締め付けるような痛みに襲われて、今日はどうにも起き上がれそうにない。休日なのが不幸中の幸い、なんて言うかコノヤロウ。今日は昨日公開されたばかりの映画を観に行く約束だったのに。

ああでも無理だ。あまりの痛さに吐き気までしてきた。

頭から布団を被って逃げ場のない痛みから逃げるように体を折り曲げる。外から聞こえてくる雨の音にますます頭痛が増していく。もうなんか、目の奥まで痛くなってきた。

「頭大丈夫?」

そっと降ってきた柔らかい声。小さな雨音すら煩わしく感じるほどの絶望的な体調不良の中にあっても、この声だけは心地よく脳へと浸透していく。

「……その聞き方は悪意があるだろ」

「……そういう意味じゃないよ」

「大丈夫じゃない」

くすくすと、赤ん坊のような笑い声が聞こえてきた。小さな手がぽんぽんと頭を撫でる感触に、少しだけ痛みが和らいだ。

「薬は?」

「飲んだ」

「寝てれば治る?」

「ん」

少しぶっきらぼうになってしまった返事を気にしたふうもなく、彼女はまた小さく笑った。鈴を転がしたような涼やかな声に集中していると、背後で僅かにマットが沈んだ。布団越しに彼女の体温が重なって、小さな手がコアラのように俺の肩にしがみついた。布団の中の熱気と彼女の体温に、じっとりと肌が汗ばみ始めた。

「暑い」

「暑いね」

「うざい」

言葉では悪態をつきながら、俺は彼女を無理に引き剥がすことはしない。頭が痛くてそれどころではない。

本当は、もう少し彼女の体温を感じていたい。

いつからこんなに女々しくなったんだか。いや、体が弱っているせいに違いない。こんな時でもなければ、こうして二人きりで寄り添って過ごすこともないのだから、むしろ恋人としては正常なのかもしれない。

さっきよりも強く彼女が俺にしがみつく。

汗が額からこめかみへと伝い落ちる。布団の中はまるでサウナのように暑い。

布団の向こうではさあさあと雨の音が鳴っている。時折ぱらぱらと窓を打ち付ける雨音よりも近くに、彼女の息遣いが聞こえた。それは次第にゆっくりとしたものに変化し、俺にしがみつく力も徐々に緩んでいった。

彼女が完全に寝行った頃合いを探り、俺は布団から静かに顔を出した。ひんやりとした空気が頬を撫で、汗ばんだ額が涼を感じる。もぞもぞと体を後ろに向ければ、ぽかりと口を開けて子供のような顔で眠る彼女がいた。

「……間抜け顔」

そっと頬に触れれば、柔い皮膚は少しぺたぺたとしていた。

映画の約束を守れなかった分は、今度何かで返そう。だから今日は、このまま彼女の温もりを抱いて眠りについてしまおう。

雨音に閉じ込められた部屋に、彼女の寝息だけが響く。雨の日は嫌いだけど、この時間は好きだ。料理上手なところも、面倒見が良いところも、少し抜けてるところも、心地いい声と温もりも、好きだ。

彼女の体に布団を掛けて、雨音から守るように抱きしめる。

雨が降りしきる檻の中、彼女と二人きりなら閉じ込められるのも悪くない。

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幻想の欠片 目良木五月 @satuki59

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