第2話
新学期1日目を終え、花梨は急いでクラスを出た。
描くものは決まっていないが描きたい気持ちは膨らむばかりで破裂しそうだ。美術部の活動場所は放課後の美術室。今日は花梨が一番乗りだ。黒板の周りを舞う粉に反射した光が、机の上のスケッチブックやイーゼルに立て掛けられたキャンバスのの表面を微かに揺らす。
花梨は机の前に座り、スケッチブックを開いた。部活用の筆箱から6Bの鉛筆を取り出し、軽く線を引いてみるがすぐに止まってしまう。まだ描きたい方向性が定まらない。夏休みの間に沢山のスケッチを試みたものの、どれもこれも心の奥の何かを捕らえきれなかった。
部室の扉が開き、仲の良い二年の先輩が入ってきた。長身で眼鏡の奥の瞳は冷静だが、いつもどこか温かみがある。
「花梨、文化祭の絵はどうするの?」
花梨は目を伏せ、スケッチブックの白紙を見つめた。
「まだ決めていません……」
「うーん……去年は猫だったよね。あれも良かったから今年も猫とか動物系はどう?」
去年、中三の時に描いたのは、家で飼っている三毛猫だった。小さな生き物の一瞬一瞬を描くのは楽しく、誰が見ても好感が持てる万人受けする題材だった。しかし今。その白紙を前にして思うのは、あの「無難さ」に甘えてしまった自分への苛立ちだった。猫を題材にするのは簡単だ。見る人も「可愛い」と言ってくれるだろう。けれども心のどこかで、自分の殻を破らずに終えてしまうような気がするのだ。
隣の机では、同級生の美緒が青い空を背景にした風景画を描きながら、楽しげに話しかけてきた。
「花梨は何描くの?」
「まだ決められない……今の私にしか描けないものを、描きたい気はするのだけど」
美緒は筆を止め、花梨の白紙をちらりと覗き込んだ。
「ふーん、でも猫もいいじゃん。去年、みんな褒めてたよ」
「そうなんだけど……」花梨は唇をかんだ。新たなものに挑戦したい気持ちと、安心できる題材の間で揺れている。
部室の中は、油絵の香りで満ちていた。扇風機の羽根がゆっくり回り、風にあおられた紙が微かに揺れる。光は西窓から差し込み、机の上の絵具や筆の影を長く引いた。誰も急かさない。けれども、空気の静けさの奥で、自分の内面が騒ぐのが分かる。
花梨はふと、窓の外に目をやった。銀杏の葉はまだ青いが、光に透けて薄く黄味を帯びている。蝉の声も遠くなり、秋の虫達の合唱が聞こえてくる。夕方の光が空のグラデーションを眺めていると自分も空の一部になって染まっていくような感覚を覚える。木々の葉を揺らす穏やかな風。暑さが収まりようやく校庭で活動できるようになった運動部の掛け声。どれも一瞬しかない、儚い光景。
花梨は鉛筆を握り、白紙に目を落とす。去年の猫の絵の線をなぞることもできる。しかし今は、目の前の一瞬の情景を掬い取りたい、という衝動のほうが勝っていた。猫は無難で安心だけれど、安心だけでは心が動かない。描くことは、自分の中から湧き出るものを外に表すこと。そのためには、安心の外に出て挑む気持ちが必要だ。
「……私が描きたいもの」
つぶやくと、猫のことを思い出す。丸まった毛並みや丸い目の愛らしさ。それも大事だけれど、今年は、それ以上の何かを求めている自分がいるのだ。
部室の扇風機の音、床に落ちる光、遠くの校庭の声。花梨はそれらを一つひとつ心に取り込み、ページの白さを見つめたまま、まだ線は引かない。描く前の緊張感と、まだ形にならない未来の予感が、胸の奥に静かに膨らんでいた。
放課後の光がゆっくり傾き、西窓から差し込む筋が更に長く伸びる。花梨は深く息をつき、手のひらで鉛筆を転がしながら、心の中で次の瞬間を待った。白紙の前で、まだ描き始めていない――けれど、その白さの中に、描きたい世界の片鱗が確かに見えていた。
少女は夏を描きたい あまぐりたれ @tare0404
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