少女は夏を描きたい
あまぐりたれ
第1話
九月に入っても、まだ夏の名残りは濃い。
湿り気を含んで張りついた水色のカーテンを窓から剥がす。庭の植物は強い光を浴びて色濃く輝いている。けれども蝉の声は、昨日までの鋭さが抜けて、数と音量が少なくなっているのが明確に分かる。晩夏というのはこういうものかと、花梨はぼんやり思う。
足もとで三毛猫が小さく鳴いた。三年前、玄関脇の植え込みの影で鳴いていた小さな命だった。両手で容易に掬い上げられるほどの大きさで、夜の冷えに震えていたそのときの姿を、花梨は今でも思い出せる。あのとき拾わなければ、今こうして足にすり寄ることもなかったと思うと、不思議な縁のように感じられる。家で飼うようになってからはすっかり家の一員。朝は花梨の寝起きを待つのが猫の習慣になっている。つぶらな目でじっと花梨を見つめている様子は、まるで年下のきょうだいのようだった。
一階のリビングから母の声。
「花梨、朝ご飯できてるわよ」
返事をしようとして、喉の奥で小さく声が溶けた。猫が「ミャ」とひと声出してから、先に階段を駆け降りた。花梨も追うように下へ向かう。
ダイニングでは、母がトーストにバターを塗り、妹がその隣で牛乳を注いでいた。小学校高学年になったばかりの妹は、最近自分の背丈が伸びたことを誇らしげに話すことが多い。今朝も「あと少しでお姉ちゃんに追いつく」と言って来たので睨み返す。そのやりとりを見て母が笑う。
弟は既に制服に着替えて食卓に着いている。制服で朝食を食べることは花梨には抵抗がある。弟は中学生になってから、少しずつ口数が減ってきたように思うが会話には応えてくれるし喧嘩もしない。
その奥には朝食を終えた父。スマホで仕事のスケジュールを確認しながら寡黙にコーヒーを飲んでいる。
食卓の時間が花梨には心地よい。とりわけ夏休みの間は花梨と弟妹達は登校時間に追われることがなく穏やかだった。だが今日から学校が始まる。慌ただしい毎日の始まりだ。
そして花梨にとって新学期は文化祭の準備が始まり忙しくなる。美術部の展示は部員それぞれが描いた油絵や水彩、陶芸などの作品を並べるのが恒例だ。
制服の白いブラウスに袖を通すと、うっすら日に焼けた肌の色が強調される気がした。
夏休みは部活で登下校する以外は殆ど日光を浴びることはなかったのだが、それでも夏の日差しは容赦なく注いでいたのだと実感した。
中高一貫の女子校に入って四年目。中等部一年から美術部に入り、絵を描くことは花梨の日常の一部だった。昨年、中三の文化祭では、三毛猫を描いて出した。毛並みの白と黒と茶の境を油絵具で追いながら、ただ身近な存在を描けることが嬉しかったのを思い出す。けれど今年は、もっと違うものを描かねばならないと追い立てられるように感じている。
花梨はまだ構想が定まらない。スケッチブックには夏の間に描き散らした海辺や空や風景が並んでいるが、それを文化祭に出すとなると、どこか物足りない気がしてならない。
スケッチブックの表紙の隅に色鉛筆の粉が黒ずんでついている。ページをめくると、お盆が明けた頃に描いた庭の向日葵の絵があった。強い陽射しに晒され、花弁の黄色はむしろ疲れを帯びている。あのとき、盛りを過ぎた花に惹かれて、鉛筆を走らせたのだった。
けれども、その絵を今、改めて見ると、夏を惜しむ気配と、先に来る季節への入り口のようなものが、かすかに含まれている気もした。
「お姉ちゃん、早くしないと遅れるよ」
階下から妹の声が飛んだ。小学五年生の妹は声に張りがあって、気が強く、何事にも他者へも物怖じしないところが花梨には昔から羨ましかった。
「いま行く」
返事をしながら、花梨はカバンを肩に掛け、机の上のスケッチブックを手に取り階段を折りた。三毛猫も花梨の後を追って、滑らかに階段を降りた。
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