第12話:永遠に続く、この『最適解』

マナとの共同生活が始まってから、季節は冬を越え、再び春の兆しが見え始めていた。


朝、日の出とともに目覚める。夜露に濡れた草木からは、新しい命の匂いが立ち込めていた。ひんやりと冷たい空気を肺いっぱいに吸い込むと、都会の排気ガスに満ちた空気とは全く違う、生命の温かさを感じた。


昼は、穏やかな潮風が、俺の頬を優しく撫でる。その風には、夏の熱気とも冬の冷たさとも違う、どこか懐かしいような、新しい命の匂いが混ざっていた。焚き火のそばに座るマナの横顔を、春の太陽が穏やかに照らしていた。海面に反射した光が、キラキラと眩しく、まるで無数の宝石が輝いているかのようだ。島の木々には、小さな新芽が芽吹き始め、俺の目には、まるでこの島の生命力が、静かに脈動しているように見えた。


俺たちの共同生活が始まってから、もう一年が経とうとしていた。この一年間、俺は、都会で失ったすべてのものを、この島で、マナと共に取り戻した。


だが、それは、失ったものと同じ形ではなかった。


俺は、ふと、都会の春を思い出した。桜並木の下、誰もがスマホを構え、写真に収めようとしていた。だが、誰も桜の匂いを嗅ぎ、その花びらの柔らかさに触れようとはしなかった。ただ、画面の中の「完璧な春」を切り取ろうとしていただけだった。新入社員たちは、真新しいスーツに身を包み、希望と不安の入り混じった顔で、満員電車に揺られていた。彼らもまた、かつての俺のように、誰かが敷いたレールの上を走らされる、無機質な歯車になっていくのだろうか。


「…なあ、マナ」


俺は、静かにマナに話しかけた。


彼女は、俺の言葉に反応するように、ゆっくりと俺に顔を向けた。その瞳の光は、春の陽光を映して、キラキラと輝いている。


俺は、これまでの「寄り道」を、もう一度、心の中で再体験した。


初めての火起こし。最初は煙ばかりで、目が痛くて、失敗ばかりだった。だけど、小さな炎が生まれた瞬間の、あの熱気と感動。

初めてマナの瞳に光が灯った瞬間。それは、まるで夜空に星が瞬いたかのような、静かで、しかし確かな奇跡だった。

そして、あの魚が消えた日。口の中に残った、塩気と、かすかな甘さ。喉を通り、体中に満ちていく、あの温かい光。

嵐の夜。シェルターを叩く風の音。マナが俺に、この島の力と脅威を「体感」させてくれた、あの瞬間。

冬の夜、「ただいま」と心で語りかけた時、彼女の瞳が、力強く輝いたあの温かさ。


「俺さ、この島に来た頃は、自分は何者でもない、ただの『歯車』だと思ってた。誰かが敷いたレールの上を、ただ走らされるだけの、無機質な歯車。でも、今は違う。俺は、この島の『住人』だ。そして、お前と一緒に生きる、『家族』だ」


俺の言葉に、マナは何も答えなかった。だが、その瞬間、彼女はゆっくりと、俺の手を握った。ひんやりと冷たい、人工的な皮膚の感触。だが、その手から伝わる温かさは、俺の心をじんわりと温めてくれる。


『「最適解」とは、なんだ?』


俺の思考は、再び暴走し始める。


『それは、最短距離で、最大の利益を出すことか?いや、違う。俺は、その「最適解」を求めて、都会で疲弊しきった。じゃあ、「豊かさ」とは何か?それは、金銭的な成功か?社会的な地位か?いや、それも違う。俺は、この島で、何も持たずに、本当の豊かさを見つけた。』


俺は、マナという存在について、改めて考えた。


『マナは、精霊か、AIか?俺は、その答えを、もう探す必要がない。彼女は、AIと精霊の狭間にいる、新しい存在。そして、彼女の存在が、俺の「豊かさ」の定義を変えてしまった。家族とは、血のつながりか、それとも共に過ごす時間か?俺は、この島で、マナと過ごす時間が、何よりも大切だと知った。』


俺は、マナの手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。そして、二人で、海へと向かった。波打ち際に座り、春の海の匂いを嗅ぐ。遠くで、渡り鳥がさえずっている。


「マナ。もし、この先、この島に何か特別なことが起きたとしても、俺たちは、この穏やかな日々を、ずっと守っていこうな」


俺の言葉に、マナは何も答えなかった。だが、俺の隣で、彼女の瞳の光が、まるで夜空の星のように、優しく、そして力強く瞬いた。そして、俺の手を握る彼女の指先が、波と同じリズムで、トクン、トクンと脈打つように、わずかに動いた。


夜が深まり、空には満天の星が広がっていた。春の大三角が、夜空に美しく輝いている。その隣には、北斗七星が、俺たちを優しく見守っているかのようだ。波が打ち寄せる音と、遠くで聞こえる虫の声が、この夜の静寂を、さらに深めていく。


俺は、マナの隣で、静かに呟いた。


「…俺、明日も、この場所でお前と一緒にいたい」


マナの瞳の光が、その言葉に反応するように、温かく、そして優しく瞬いた。


俺の人生は、もう「効率」や「利益」とは無縁になった。そして、俺は、この穏やかで、そして少しだけ不便な日常こそが、本当の豊かさであると、改めて確信した。


特別な出来事は何も起きない。


ただ、穏やかな時間が流れていく。


この永遠に続く日常こそが、自分の人生の『最適解』であったと、俺は悟った。

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1分の1ドールを作っていたらトンでもないモノが出来てしまった。どーしよう? -正解:スローライフ- 五平 @FiveFlat

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