生きていたなら俺は

鹽夜亮

生きていたなら俺は

「死んでしまった方がいいって思うんだ」

 電話口で君の声が凍っている。感情のないその瞳が浮かぶ。窓の外には赤い月がゆらりと空を照らしている。告げられた言葉に、俺は少しの沈黙を置いた。意味はなかった。ただ、そうしたかったから。

「…そっか」

 短く言葉を紡いだ。肯定も否定もない、相槌だった。残暑はまだ夏の夜を引きずり回して、夜は随分過ごしにくかった。湿気を帯びた熱が肌に張り付いていた。不快感を吹き飛ばそうと扇風機が生温い風を運んでいた。窓は閉めたままだった。エアコンは壊れて、ランプを点滅させていた。

「貴方らしいね。止めもしない。勧めもしない。だけど、ただ聞いてる」

「そうだね。俺らしいよ」

「…貴方は死にたいって思うこと、ないの?」

 その問いに脳が動いた。思い返すというほどの行為でもなかった。あまりにもすぐに、それは思い当たる答えだった。

「当たり前にあるよ」

 ゴソゴソと、布団の擦れる音がした。ふぅ、と君の吐息が電話口から聞こえた。時間はゆっくりすぎていった。赤い月は微動だにしなかった。それは窓の外の、大して高くも特別でもない山の上に光っていた。木々の作る影が首を吊った人々の面影のようにゆっくり揺れていた。それが不気味だとは思わなかった。

「知ってる。知ってることを聞くなんて馬鹿だって思う?」

「思わない」

 夕方、手首につけた香水がふと香った。いくらか甘くなったそれが凍りついた声と釣り合わない温い熱を湛えていた。裏山のあたりで鹿が鳴いていた。その声は女の叫び声に似ていた。暗闇の中で跳ねるように歩く鹿の姿を思った。それは優雅に違いなかった。だがその影は、ぼうっと山蛭の蠢きをうちに孕んでいた。

「君はなんで死んでしまった方がいいと思う?」

 沈黙が降りた。どれくらいかは知らなかった。短いそれは、それでも確かな沈黙だった。

「…もう、意味がないから」

「そっか」

 ゴソゴソと、また布団の擦れる音がした。君が寝返りでも打ったのか、イヤホンにはノイズが走った。何もかもに意味がないことは、百も承知だった。だからこの問答にも意味なんてなかった。あるとすれば、それは確認だったのかもしれない、と思った。

 梟の声がした。森の賢者はどこかで鼠でも捕まえたらしかった。美しいその爪も、あの瞳も、血に汚れているに変わりなかった。

「貴方は生きる意味があるの?」

「ない」

「…一緒じゃない」

「そうだね」

 俺は目を瞑った。気だるさを感じた。夜はもう、二時を回っていた。すぐ、思い出したかのように目を開いた。窓を開けて、煙草に火をつけた。カチカチと安っぽい音を立てるライターが、夜空に一瞬火花を散らした。残り数本のハイライトのソフトパックは、いつも通りひしゃげていた。

「煙草?」

「…あぁ」

 途切れた会話の隙間を埋めるように、俺の吐く煙の音が電波に乗っていた。肺を殺す毒は、同時に呼吸の証明に他ならなかった。そこに皮肉を覚えるほど、俺は健康ではなかった。

「俺は、何もかもどうでもいいけど、明日も煙草が吸いたいかな」

「………貴方らしいな」

 ふふっ、と微笑む声が聞こえた。だから、それでよかったと思った。凍った声に火を灯すことは俺にはできなかった。しようとも思わなかった。だから俺は、その近くで煙草でも吸っていようと、思った。何の意味がなくとも、そうしていたかった。

「私も煙草吸おうかなぁ」

「やめとけ。ただの毒だ」

「でも、明日が楽しみになるんでしょう?」

「…そうすることもできる、ってだけだよ」

 八月も終わった夜は、静かだった。自然はゆっくり息をしていた。少し前まで騒いでいた蝉たちはもう、土に還ったらしかった。

「ねぇ。私が死んだら、悲しい?」

 凍った声が、告げた。だから俺は、それに言葉を返した。

「当たり前に悲しい」

 ハイライトが一本燃え尽きた。また一本に火をつけた。

「…理由は?」

「感情に理由なんていらないだろう」

「ねぇ、やっぱり、ずるいね」

「そうかもねぇ」

 また鹿が鳴いた。静かな夜の空気を切り裂くように、甲高い声が響いた。赤い月は少しだけ山の端に沈み始めた。

「じゃあ、私が明日も生きてたら?」

 少しだけ声が震えていた。君にとって、きっとそれは残酷な問いだった。君の体を引き裂くような問いだった。君の心を引き裂くような問いだった。俺はハイライトの煙を肺に吸い込んで、吐いた。

「当たり前に嬉しい」

 ゴソゴソ、と布団の擦れる音がした。生きている音だった。唾を飲む音が聞こえた。生きている音だった。

 それが、君の生きている音だった。

「その、理由は?」

「…感情に理由なんていらないだろう」

 少しだけ俺は嘘をついた。それでいいと思った。一人で吸う煙草は、少しだけ味気ないと、言うのは馬鹿らしかったから。

「やっぱりずるいなぁ」

「よく知ってるだろ、君が」

 カラッと笑う声が聞こえた。乾いた声は、悲しかった。でも、俺はそれでいいんだと、思った。

「知ってる」

 赤い月はゆっくり、山の端に沈み始めた。しばらくすれば太陽が顔を出すだろう、そう思った。


『忌々しくも続く、新しい明日がまた始まる。それも悪くないだろう』


 そう伝えようとして、俺は言葉を飲み込んだ。…

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生きていたなら俺は 鹽夜亮 @yuu1201

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