第12話「準備のざわめき」
朝の光は白くて、教室の色を一段薄く見せる。二年三組はもう“作業場”に変わっていて、机は二台ずつ並べられ、ビニールシートの上に刷毛やペンキ缶がきちんと並んでいた。黒板の隅には昨日より線が増えた配置図。赤い矢印は出口へ向かって太く、そして太くなっていく。
匂いは木材と接着剤。手のひらに紙の毛羽が残る。こういう朝は、まだ眠っている脳の代わりに手が勝手に動く。
「阿礼、看板の仕上げいける?」
クラス委員が声を飛ばす。
「うん。今日は“呪符”に見えないようにがんばる」
「頼む、ほんとに」
缶のふちで刷毛をしごいて、黒の中に少しだけ白を混ぜる。縁をやわらかくするための薄め。筆先を整え、文字の足を引き締める。四つで吸って、八で吐く。もう数える必要はない。呼吸が先にあって、手の震えだけを置いていってくれる。
「今日の字は……まともそうだね」
右から覗き込んだのは力だ。眼鏡がずれていて、指で軽く押し上げる。
「“そうだね”って言う時は信じてない顔だな」
「事実の指摘だよ。昨日のは暗号だった」
「暗号が読めるなら天才だろ」
「天才なら膝は守られてる」
「それは自助努力の範囲だと思う」
力は肩をすくめ、俺は笑った。笑いは、手の迷いを消す。
前から澄んだ声。
「“Ice tea”じゃなくて、“Iced tea”。過去形が必要です」
振り向くと、プラチナブロンドが窓の光を受けて淡くきらめいた。シャーロット・アシュクロフト。瞳は、透き通った瑠璃をそのまま溶かし込んだような青だった。
「入口の列は床にテープを。印は短く、角度は一定で」
彼女はマスキングテープを受け取ると、迷いなく床に目印を置いていく。角が狂わない。必要なことだけ言って、余計な音を残さない。厚い硝子の向こうにいるみたいなのに、仕事の中心にはいる。不思議な距離感だ。
「シャーロット、それここから何センチ間隔?」
「三十。……二十九から三十一までは許容」
「許容?」
「完璧は崩れる。歩幅が違うから」
さらりと言って、次の紙に付箋を貼る。周りの数人が「ほー」とか「細か」とか小声を落とすが、動線は目に見えてよくなり、文句は消えた。
給仕台の前では、九重櫻子が衣装の紐を結び直していた。
「黒瓜くん、袖がほつれてます。縫いますね」
「あ、ありがとう」
「指、出して。……はい、そこ抑えて」
糸が一度だけきゅっと鳴って、端がきれいに収まる。
「飲み物を注ぐ時は、縁に沿わせてください。倒れにくいので」
声は落ち着いていて、でも冷たくない。俺が礼を言うと、櫻子は小さく会釈した。目が一瞬だけ鋭く、すぐにもとの色に戻る。その揺らぎは、わざわざ言葉にするほどのものじゃないけど、妙に記憶に引っかかる。
看板の最後の払いに息を合わせる。四つで吸って、八で吐く。刃物じゃなく、布で撫でるみたいに筆を落とす。マスキングをそっと剥がすと、輪郭は思った以上に落ち着いて出てきた。
「よし」
「今日は勝った?」
力が横で言う。
「うん、小勝ち」
「小勝ちの積み重ねは大勝ちに連なる。……と、数学の先生が」
「その先生、たぶん数学以外には当てはめないでって言うと思う」
「正しい」
窓から風。といっても、窓は閉めている。ふっと紙花が一つだけ揺れて、すぐに止まった。誰も気にしない。俺も、気にしないふりをする。耳の奥がざらっとしたが、呼吸を一拍長くして流す。
スピーカーが薄く“チ”と鳴り、何も起きない。こういう小さな音は、最近ときどき混じる。みんなの会話の粒と一緒に、すぐ空気に溶ける。
「接客練習いくぞー!」
クラス委員が声を張ると、教室の空気がいっせいに入口へ寄った。
「“いらっしゃいませ”は笑顔で。外国の人が来たら英語担当に頼んで」
半歩前へ出たシャーロットが、短く見本を示す。
「“Welcome to Class 2-3 Café.” ゆっくり。語尾を飲み込まないで」
真似して言ってみると、確かに全体がまとまって聞こえた。誰かが小さく感嘆して、笑いがうっすら広がる。彼女は一人ずつの発音を直すでもなく、要点だけ整えて、また紙に視線を戻した。
「阿礼」
「なに」
「その笑顔は怖い」
「店がホラーだとバズるかもしれない」
「短期的効果しかないやつ」
「じゃあ通常運用にします」
頬の筋肉を緩め直して、もう一度「いらっしゃいませ」。少しだけましになったらしく、力が無言で親指を立てた。こういう時だけ、やさしい。
黒板の下、プリントの束の端に新しい紙が差し込まれていた。『巡回日程(臨時)』。小さな文字で補足がある。ノクシラ対処機構:Noxira Response Agency(NRA)地域班、校区確認。
掃除当番表と並んでいるのに、違和感がないのがいちばん不思議だ。日常の棚に、非日常の調味料が普通の顔で置かれている。手を伸ばせば届く棚に。
「シャーロット、列の印ここで終わり?」
「まだ。角で一回折る。ここ、人が詰まりやすい」
言われた通りにテープを延ばす。しゃがんだ俺の横で、力がコードを解いていた。
「阿礼、踏むなよ」
「踏まない」
「阿礼の“踏まない”は信用に足らない」
「言いがかりだな」
そう言った瞬間、テープの端が自分から少し浮いた。ほんの指一本ぶん。俺は足を止めて、何事もなかったように別の位置に印を置いた。
偶然。もちろん偶然。
呼吸を一つ、長くする。
給仕台で紙コップを並べる櫻子がこちらを見た。
「黒瓜くん、水分、取ってます?」
「取ってる。……たぶん」
「“たぶん”は信用できない。これ、スポドリ。薄めに作りました」
差し出された紙コップは、うっすら柑橘の香りがした。喉が軽く開いて、体の奥にしみていく。
「ありがとう。あとで返す」
「いえ。返すのは、ちゃんと座って休む時間です」
静かな圧。俺が頷くと、櫻子は目を伏せ、すぐに別の子の袖を直しに行ってしまった。
練習は一時間ほどで形になった。声がそろい、列が流れ、看板が“店の顔”らしく見えてくる。
拍手がいくつか、自然に起きた。
「二年三組、見えてきたなー!」
クラス委員が黒板に丸を描いて、その中に小さく“OK”。誰かが写真を撮り、誰かが「映りたくない」と顔を隠す。笑いに混じって、スピーカーがまた短く鳴った。今度は二回。
力が顔を上げる。
「今の、鳴った?」
「気のせいであってほしい音」
「だよね」
軽口で流して、俺は看板の端を指でなぞった。指先に黒がつかない。乾いた。勝ちだ。
片付けに入る。刷毛を洗い、缶のふたを閉め、窓の鍵を確かめる。テープの芯をまとめて箱に落とし、机の脚を正す。動くたび、教室の匂いが形を変える。
窓の外、防災柵が昼の光を拾って、海みたいに細かく瞬いた。七年前ほど眩しくはない。でも、忘れるほど暗くもない。俺たちはその光の下で昼を食い、午後をやり過ごす。たぶん今日も、たぶん明日も。
最後のゴミ袋を縛った時、耳の奥で紙が裂けるみたいな音がほんの一瞬だけ走った。誰も気づかない。俺も、気づかないふりをする。
四つで吸って、八で吐く。息は静かに落ち着き、影は壁に貼り付いたまま動かない。
日常は強い。けれど、完全じゃない。
そんなことを思いながら、俺は看板を抱えて廊下へ出た。
ノクシラ・クロニクル なくさ @Nakusa11235
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