第11話「朝の不運」

 拝田力は、目覚まし時計が鳴る前に目を開けた。

 体が勝手に覚えているだけだ。枕元の数字が点滅する前に、布団を押しのけて上体を起こす。


 古いアパートの六畳間は、すでに白く光っていた。壁紙は端から剥がれ、釘穴の痕が黒く残る。外を走るトラックの音が壁を震わせ、窓枠の隙間からは細い風がひゅうと入り込む。夏でも冷たさが混ざるのが、この部屋の嫌なところだった。


 冷蔵庫を開ける。安売りの食パンとマーガリン、牛乳パックが一本。食費は切り詰めている。トースターに食パンを放り込み、牛乳をコップに注ぐ。焼き上がったパンにマーガリンを塗り広げると、独特の匂いが部屋に立った。

 噛むと少し塩辛い。だが、味わうために食べているわけではない。栄養を取るために食べる。ただそれだけだ。


 窓の外に視線をやる。小学生がランドセルを背負って走っていく。靴紐がほどけ、角で盛大につまずいた。思わず「危ない」と声が漏れたが、子供は不自然に体を持ち直し、倒れずにそのまま走り去っていった。

 力はパンを噛みながら首を傾げた。ああいうのは普通、派手に転ぶものだ。


 食器を流しに置き、制服に着替える。鏡代わりの窓ガラスに前髪を整える。寝癖が少し残ったままだったが、直すのは諦めた。鞄を肩に掛けて外に出ると、外気が湿っぽく肌にまとわりついてきた。


 通学路はもう混み始めていた。自転車で駆け抜ける中学生、犬を散歩する老人、制服の女子たち。力は足元を見て歩く。


 角を曲がった瞬間、自転車のタイヤが水たまりに突っ込んだ。泥水が派手に跳ね上がる。避ける間もなく胸元にかかる――はずだった。

 だが泥水は力のすぐ横を外れ、弧を描いて道の端へ散った。女子の靴に数滴が落ち、「きゃっ」と小さな声が上がる。


 力は咄嗟に自分の服を確かめた。泥一つついていない。次の瞬間、足のつま先が石に当たり、体が大きく揺れた。膝を擦り、痛みに顔を歪める。


「……今日はついてないな」


 息を吐きながら立ち上がる。女子たちはもう遠ざかり、笑い混じりの声だけが残っていた。


 歩き出すと、次の不運が待っていた。対向してきたサラリーマンの鞄が、不自然な角度で力の肩にぶつかった。ほんの少し軌道を変えてきたように見えた。だが相手は謝りもせず、携帯を耳に当てたまま通り過ぎていった。

 肩に残る鈍い痛みを撫で、力は小さく舌打ちを飲み込む。


 前を歩く女子生徒のスカートが、風に煽られてふわりと舞い上がった。力の目は反射的に逸れた。だが遅かった。視界に飛び込んできたものを、頭は勝手に記録してしまう。


 頬が熱くなる。鞄の紐を強く握り直す。

「……今日はやけに多いな」

 誰に聞かせるでもなく呟き、早足になる。


 不運が連続している。だが振り返ってみれば、決定的な被害は免れている。泥水は逸れ、子供は転ばず、自分は小さな怪我で済んでいる。偶然のはずだ。だが重なり方がどこか不自然だった。


 力は深く考えなかった。

 不運な一日。そう呼べば片付く。


 そう思い込みながら、彼は校門へ向かって歩き続けた。

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