第14話 執事と踊る余生
ジルに手を引かれて、部屋の中央まで歩かされる。
ちょうど良い広さの場所で、私たちは向かい合って立ち止まった。
広すぎる大広間にいるのは、私とジルだけ。
だからこそ、いつもの練習よりもずっと広く、静かに感じてしまう。
隅に置かれたグランドピアノは弾き手を失ったまま、ぽつんと沈黙していた。
……伴奏も無いのに、どうやって踊るつもりなのよ。
そう思った瞬間、ジルの手が私の腰に添えられた。
ただ支えているだけの仕草なのに、その掌が妙に熱い。
ぐっと近づいた距離に、息が詰まって――心臓まで跳ね上がった。
「マチルダ夫人から、形はもう身についていると伺いました」
「ま……まあ、一応ね……」
「それなら、あとはオフィーリア様のお気持ち次第でしょう」
顔を見るのが怖くて、私はそっとジルの肩に手を置いた。
……高い。エディの肩よりもずっと。それに分厚い。
おまけに、服の布地までやけに滑らかで、指先が勝手に撫でそうになる。
普通なら、こんな長身の男性を前にすれば圧迫感しかないはずなのに――ジルだと、不思議と嫌じゃない。むしろ安心してしまうのが腹立たしい。
何よりも、触れ合った右手が――熱い。
まるで心臓の鼓動がそのまま伝わってしまいそうで、内心焦りっぱなしだ。
「最初は私のリズムに合わせてください。ゆっくり数えますので、声にだけに耳を傾けて」
「わ……分かったわ」
ジルの声が、静かな広間に響いた。
「いち……に……さん……」
その柔らかな響きは、まるで子守歌。
基本ステップぐらいなら散々やらされたし、ゆっくりなら余裕すぎる。
……これぐらい、目をつぶってても出来るわよ。
思わず口元に笑みが浮かぶ。得意げになって顔を上げたその時――目が合ってしまった。
こちらを見ながら柔らかく目を細めるジル。
いつもの鉄面皮からは想像できないような優しい笑み。
……何よ、その顔。ずるいじゃない。
ジルの声が止まり、私の足も自然に止まっていた。
構えたまま、互いに向かい合う。
「ここまでのステップ。お見事です、オフィーリア様」
「馬鹿にしないで。これぐらい余裕よ」
強がりじゃなくて本心だった。
なのに、ジルは妙に口角を上げて息を漏らすように笑う。
何か、腹立つんだけど。
「……失礼しました。では次は――もう少し、本気で参りましょう」
「……え?」
何が起きるのか考える間もなく、ジルの手が腰から少し高い位置へ移った。
その瞬間、私の背筋がびくりと反応して、勝手にぴんと伸びてしまう。
ジルの喉から、先ほどよりも軽やかなリズムが零れる。
「一、二、三……」
その声に合わせるように、私の足は自然と前へと出ていた。
右手も、背中に添えられた手も――驚くほど滑らかに私を導いていく。
まるで、私の体がジルに操られているみたい。
「……あれ?」
一歩、二歩と進むたびに、まるで床が私を押し上げてくれる。
普段は足を踏み外してばかりなのに、ジルに合わせていると体が勝手に動いてしまう。
視線がつい足元に落ちそうになると、ジルの手がふっと誘導してきて、それどころじゃなくなる。
「視線は上へ……そう、窓の向こうを」
低い声に思わず顔が上がり、背筋がすっと伸びる。
……すごい、こんなに長い間、一度も足を踏んでないなんて初めて。
「お上手ですよ、オフィーリア様」
「なっ……! 私じゃなくて、あんたが勝手に操ってるだけでしょ!」
反論しながらも、胸の奥が弾んでいるのが自分でも分かる。
ジルに身を預けて、その手に引かれるまま動くのは――なんだろう、ちょっと楽しい。
彼の掌は熱く、指先はしっかりと私を支えていて。
まるで「絶対に離さない」と言われているようで、心強い。
「次で回ります。一、二、三……」
合図に合わせて回転すると、裾がふわりと広がり、夕暮れの光がドレスの刺繍を照らした。
視界はぐるりと揺らいだのに、ジルの手が強く支えてくれるから、不思議と怖くない。
むしろ……心地いい。
まともにターンが出来たのは、きっと初めてだ。
嬉しさに思わず笑みが零れる。
……これ、結構楽しいかもしれない。
視線を上げると、リズムを刻むジルの口元がわずかに上がっている。
私よりも、ずっと楽しそうに見える。
その顔が、何だか恥ずかしくて……つい視線を落としそうになった瞬間。
「そのまま、私を見ていてください」
囁かれた声に、心臓が大きく跳ねた。
胸の奥で暴れる鼓動が、今にも彼に聞こえてしまいそうで怖い。
視線が、ジルの目から逸らせない。
深い色を湛えた瞳が真っ直ぐに私を射抜いてきて――その奥で揺れる熱に、息が止まりそうになる。
触れもしないのに、吸い寄せられるように足が止まり、全身がその視線に縫いとめられる。
ふいに足がもつれて、視界がぐらりと揺れた。
あ、倒れる――そう覚悟した瞬間。
「……っ!」
鋭くも優しい力が腰に回り込み、私は強く抱き留められていた。
「大丈夫ですか」
「っ……あ、危なかった……」
胸元に閉じ込められた安心感に、思わず息が漏れる。
「まったく……ジルが変なこと言うから……」
顔を上げると、至近距離にジルの顔。
こんな近くで見たの、あの夜以来じゃない?
「もう大丈夫だから」って言いたいのに、声にならない。
支える腕の中で、灰色の瞳がすぐそこにあって――視線を絡めたまま、どうしても逸らせなかった。
喉の奥からかすかな息が漏れる。
それに応えるみたいに、彼の呼吸が頬に触れる。
近い。近すぎる。
ほんの少し顔を動かせば避けられるのに、体が言うことを聞かない。
離れる理由も、拒む理由も見つからなくて――ただ時間だけが伸びていく。
その沈黙が、私たちをゆっくりと押し出していった。
気づいた時には、もう唇が重なっていた。
目を閉じると、ジルの薄い唇の感触が頭いっぱいに広がった。
ただ触れるだけの口付けなのに、頭がふわふわして考えがまとまらない。
ゆっくりと離れても、まだ余韻がまとわりついて思考が霞んでいく。
……溺れそうになったその余韻を、視界にジルの顔が映った途端――現実が冷たく引き戻した。
「あ、あ……違う! そ、そんなつもりじゃ――!」
慌てて身を離そうとしたのに、ジルの腕は揺るがなかった。
逃れようとしても、確かな力で支えられたまま。
けれどその抱擁は決して強すぎず、むしろ守るように優しくて……力が抜けてしまうのが悔しい。
「はっ……放しなさいよ!」
「……失礼を。ですが……今は離れるべきではないと存じます。
オフィーリア様が落ち着かれるまで――どうか、このままで」
いつもの余裕ぶった声じゃない。願うみたいな、切実な声音。
ずるい。そんな言い方されたら、抵抗なんか出来ないじゃない。
……まったく、いつもの観察魔の余裕は、どこに行ったのよ。
観念した私は、あきらめたようにジルの胸へ身を預けた。
耳に響く心音がやけに大きくて、私とジル、どちらの鼓動なのか分からない。
でも、こんな音してたら――好きだってバレバレじゃない。
胸元に頬を寄せると布越しにジルの体温が感じられて心地いい。
それが何だか悔しくて、つい拗ねた声が出てしまう。
「……言っとくけど、あんたと付き合う気なんてないからね」
「……承知しております」
「結婚だって、する気ないし……あんたは私にとって、一生“ただの執事”よ」
「……それは光栄なこと。一生“ただの執事”として、オフィーリア様の傍を離れません」
何を言っても、ジルの声色は変わらない。
穏やかで、柔らかくて、妙に自信があって――あの鉄面皮からこんな声音が出るなんて、信じられない。
……全部分かった上で、こうして答えてるんだろうな。
思わず、長い溜息が出た。
「ほんとに……馬鹿な執事」
そう呟いて、私は諦めたみたいに笑い、ジルの背中へ腕を回して抱きしめ返した。
私の余生は退屈になるはずだったのに……おかげで、退屈なんて二度と訪れそうにない。
破滅を避けた悪役令嬢、余生は未亡人になりまして 徒々野 雫 @totono0103
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