守宮の会談絵草紙 第二十四話「樹海の誘い」

ふふふ、皆様、ようこそおいでくださいました。


このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた物語をお届けするストーリーテラーでございます。


今回は24話目の物語、青木ヶ原樹海の奥深くに潜む誘いの話でございます。


暗闇に響く囁き、甘い微笑みの裏に隠された罠が、皆様の心をそっと絡め取るかもしれません。


さあ、残り76話、成仏への道はまだ遠くございますが、どうぞお付き合いくださいませ。






【樹海の誘い】




第一章:邂逅


青木ヶ原樹海の奥深く、陽光も届かぬ暗がりで、志崎卓也は足を止めた。


鬱蒼とした木々の間を抜ける風が、まるで誰かの囁きのように彼の耳を撫でた。


卓也は三十五歳、都内の小さな広告代理店で働く平凡な男だった。


だが、最近の彼は仕事のプレッシャーと、恋人との別れが重なり、心のどこかで「逃げたい」と願っていた。


そんな折、ふとした衝動で樹海を訪れたのだ。


死にたいわけではない。


ただ、何かを見つけたい。


そんな曖昧な思いが彼をここへ導いた。


足元で枯れ葉がカサリと音を立てた瞬間、遠くでかすかな泣き声が聞こえた。


卓也は眉をひそめ、耳を澄ませた。


確かに、女の嗚咽だ。


好奇心と、どこかで感じる義務感に突き動かされ、彼は音のする方へ歩を進めた。


木々の隙間から、薄い光が差し込む一角に、彼女はいた。


白いワンピースを着た若い女が、膝を抱えて蹲っていた。


長い黒髪が顔を覆い、肩は小さく小刻みに震えている。


卓也は一瞬、幽霊かとさえ思ったが、彼女のすすり泣きはあまりにも生々しかった。


「大丈夫ですか?」


彼は慎重に声をかけ、近づいた。


女が顔を上げた。


その瞬間、卓也の心臓が一拍、強く打った。


透き通るような白い肌、大きな瞳、涙に濡れた頬。


彼女はまるで絵画から抜け出したような美しさだった。


「私…もうダメなんです…」


彼女の声は震え、言葉の端々が途切れた。


「生きていても、意味がない…」


卓也は咄嗟に彼女の手を握った。冷たく、細い指だった。


「そんなこと言うな。生きてるだけで、十分だよ。ほら、立てる?」


彼女は抵抗せず、ゆっくりと立ち上がった。


彼女の名はマリと名乗った。


二十代半ば、家族も友人もいないと彼女は呟いた。


その儚げな姿に、卓也の胸は締め付けられるような感覚に襲われた。


彼はマリを連れて樹海の出口へ向かった。


彼女を救うことが、自分の存在意義を再確認する手がかりになるような気がしたのだ。




第二章:惹かれる心


数日後、卓也はマリを自分のアパートに招いていた。


彼女は行く当てがないと言い、卓也もまた、彼女を放っておけなかった。


マリは静かで、どこかミステリアスな雰囲気を漂わせていた。


彼女の笑顔は控えめだが、時折見せる無垢な表情に、卓也は心を奪われていった。


「卓也さんって、優しいんですね」


マリはそう言って、卓也の淹れたコーヒーを手に微笑んだ。


その笑顔は、まるで樹海の暗闇で見た彼女とは別人のようだった。


卓也は彼女の過去を尋ねようとしたが、彼女はいつも曖昧に話を逸らした。


「過去なんて、つまらないですよ。忘れたいことばかりだから」


彼女はそう言って、目を伏せた。


その仕草に、卓也はかえって彼女を守りたいという思いを強くした。


夜、ソファで眠るマリの寝顔を見ながら、卓也は自分が彼女に惹かれていることを自覚した。


彼女の存在は、彼の単調な日常に色を添えていた。


仕事のストレスも、過去の失恋の傷も、マリのそばにいると薄れていくようだった。


だが、時折、マリの言動に奇妙な影が差す瞬間があった。


ある夜、彼女が寝言で呟いた言葉。


「ごめんね…でも、仕方なかったの…」


その声は、どこか冷たく、計算高い響きを帯びていた。


卓也はそれを気まぐれな夢の断片だと流したが、心のどこかに小さな引っかかりが残った。




第三章:断片


マリとの生活が一ヶ月を過ぎた頃、卓也の周囲に異変が起こり始めた。


銀行口座の残高が減っていることに気づいたのだ。


最初は少額だったが、次第に大きな引き落としが続いた。


クレジットカードの明細には、身に覚えのない高額な買い物の記録。


卓也はマリに尋ねたが、彼女は驚いた顔で「そんなわけないよ、卓也さん、疑うなんてひどい」と涙を浮かべた。


その純粋な瞳に、卓也は自分の疑いを恥じた。


しかし、違和感は消えなかった。


マリが夜中に電話で誰かと話しているのを聞いたことがあった。


彼女の声は普段の柔らかさとは異なり、低く、冷酷だった。


「次はもっとうまくやるから…」


そんな言葉が耳に残った。


ある日、卓也が仕事から帰ると、マリが古い写真を手に眺めていた。


そこには見知らぬ男が写っていた。


背が高く、どこか疲れた表情の男だった。


「これは誰?」と尋ねると、マリは慌てて写真を隠した。


「ただの…昔の知り合い。もう関係ない人」


彼女の声は震えていたが、目には一瞬、鋭い光が宿った。


その夜、卓也はマリが眠った後、彼女のバッグをそっと開けた。


そこには、複数の男の写真と、彼らの名刺やメモが詰まっていた。


メモには、住所、職業、口座番号まで書かれているものもあった。


卓也の背筋に冷たいものが走った。




第四章:罠の深み


卓也はマリの過去を調べ始めた。


彼女が話した断片的な情報をもとに、ネットや知人に問い合わせてみた。


すると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。


マリと名乗る女が、数年前から各地で男たちを騙し、金を巻き上げた後、姿を消す事件が多発していたのだ。


被害者の男たちはみな、彼女に心を奪われ、気づいた時には全てを失っていた。


卓也は自分の愚かさに歯噛みした。


だが、同時にマリへの想いが彼を縛っていた。


彼女の笑顔、彼女の涙、彼女の温もり。


全てが偽りだったとしても、彼は彼女を憎めなかった。


ある夜、マリがまた樹海へ行きたいと言い出した。


「あそこに行くと、落ち着くの。卓也さんも一緒に来てくれる?」


彼女の声は甘く、誘うようだった。


卓也は迷ったが、彼女の目を見つめると、断ることができなかった。




第五章:終わりなき狩り


樹海の暗闇の中、卓也はマリの手を握りながら歩いていた。


彼女は静かに微笑み、時折、過去のことをぽつぽつと語り始めた。


「昔、誰かに助けられたことがあったの。でも、その人は…私のせいで不幸になったかもしれない」


彼女の声はどこか遠く、まるで別の誰かを語るようだった。


卓也の胸に、恐怖と愛情が交錯した。


彼女の言葉は、彼が調べた事実と符合していた。


彼女は獲物を探すために樹海にいたのだ。


そして今、卓也は彼女の罠に完全に絡め取られていた。


突然、マリが立ち止まり、卓也の手を離した。


「ねえ、卓也さん。あなたは本当にいい人だった。ごめんね」


彼女の声は冷たく、まるで別人のようだった。


その瞬間、遠くから別の男の声が聞こえた。


「誰かいるのか? 大丈夫か?」


マリが振り返り、暗闇の中でその男に向かって歩き始めた。


彼女の唇に、初めて見るような妖しい笑みが浮かんだ。


卓也は動けなかった。


彼女の背中が木々の間に消えていくのを見ながら、彼は自分が何を失ったのかをようやく理解した。


金、仕事、プライド――そして、心。


マリは新たな獲物を求めて、樹海の闇に溶け込んでいった。


彼女の足音が遠ざかる中、卓也の耳に、彼女の最後の言葉がこだました。


「ごめんね…でも、仕方なかったの…」


樹海は静寂に包まれ、まるで何事もなかったかのように、次の犠牲者を待ち続けていた。




ふふふ、皆様、いかがでございましたでしょうか。


樹海の闇に消えた彼女の足音は、今もどこかで新たな獲物を求め彷徨っているのかもしれません。


このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた物語の幕を、そっと閉じさせていただきます。


24話目の物語が終わり、残りは76話。どうぞ、次なる物語もお楽しみに。

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