古燈書房でそっと息を吹き返す
天乃 紡木
忘れてた胸の鐘
古燈書房の扉を押し開けた朝、胸の奥で小さな鐘が鳴った。
古い紙の匂い、背表紙に落ちる淡い光。客として何度も訪れたこの場所で、今日から自分は“店員”になる――その事実だけで、景色が昨日より鮮やかに見えた。
それから二年が経った。
かつて憧れに満ちて見えた古燈書房も、いまや朝比奈にとっては日常の風景である。
古い刷毛で背表紙をなぞると、細かな埃がふわりと舞う。光に透けてきらめく粒を目で追いながらも、もう胸は高鳴らない。
常連客に頼まれた一冊を棚の奥から抜き出し、値札を貼り直す。その一連の手つきはすでに染みつき、目を閉じても体が覚えているほどだった。
初めは胸を高鳴らせて嗅いでいた古本の匂いも、今では息をするように当たり前になっていた。
陽に透ける埃の粒は見慣れすぎて、輝きよりも掃除の厄介さを先に思う。あのとき確かに感じていた高揚は、遠い記憶に沈み、ただ静かに仕事をこなす日々が重ねられていった。
それでも、ふと作業の手を止めると、心がわずかにざわつく。
――この店のどこかに、自分が初めて立ち止まったときのまばゆさがまだ潜んでいるのではないか。
けれど探すほどに掴めず、指の隙間から砂のように零れていく。手の中に残るのは、言葉にできない空白と、名のない寂しさだけだった。
雨上がりの午後、店の扉がちりんと鳴った。
小学生ほどの兄妹が濡れた傘をたたみ、そっと棚の間に入り込む。足音は軽く、背表紙を撫でる仕草は、まるで宝物を選ぶようだった。
やがて、兄の方が立ち止まり、声をひそめる。
「ここってさ……いろんな本がいるのに、ケンカしないで並んでるんだね」
妹が首をかしげ、兄の方を見上げた。
「ほんとだ。みんな、そのままでいていいよって言ってるみたい」と笑った。
その言葉が、朝比奈の胸にやさしく突き刺さる。思想も形も時代も異なる本たちが肩を並べ、ただ存在を許し合っている。
かつて自分は、その光景に魅せられていたのだ。忘れていた原点が、子どもの何気ない声で鮮やかに蘇る。
朝比奈は声をかけず、ただ静かに見守った。
守るべきものは、派手な営みではない。どんな人も、どんな本も、そのまま受け入れてくれる静けさこそが、この店の価値なのだと。
胸の奥でひそやかに火が灯り、閉じかけていた扉がそっと開かれていった。
子どもたちを見送ると、窓から雨上がりの光が差し込んだ。
埃の粒がきらめき、当たり前になりすぎていた紙の匂いが胸いっぱいに広がっていることに気づく。
その香りに包まれながら、ありふれた日常の中に、あの日憧れた輝きがそっと息を吹き返すのを感じた。
朝比奈は静かに目を閉じ、その余韻を胸の奥深くに仕舞った。
古燈書房でそっと息を吹き返す 天乃 紡木 @Amano-tsumugi
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