短夜に生きる
十余一(とよいち)
短夜に生きる
彼女がクモの死骸を見つめている。その様子を、私は畑から採ってきたばかりの
足を広げればこぶし大にもなるアシダカグモは、害虫を食べてくれる益虫だ。隙間だらけの古い日本家屋に住んでいる身としては正直ありがたく、共存していた。
今、台所の床にひっくり返り、足を畳んでぴくりとも動かないこのクモは、つい昨日まで家の中を元気に徘徊していた個体だろうか。
「クモが障子を歩くときの足音、この家に来てから初めて聞いたんだよね」
彼女――シキミちゃんがたった数日前のことを思い出話のように語る。なんだか感慨深さすら篭っているような気がした。
田舎の生まれではない彼女は虫が苦手だ。それでも、名前も言いたくないあの害虫を食べてくれるクモに対しては、何か特別に思うところがあるのだろうか。
「
私が茄子を乱切りにしながら提案すると、息を飲む音が聞こえた。
「捨てちゃった……」と言う彼女は、ゴミ箱の前に立ち尽くしている。
“それはそれとして”なんだろうな。短いつき合いの中でまたひとつ、彼女への理解が深まった。
「……まあ、可燃ゴミって火葬みたいなものだから」
二人でゴミ箱に向けて手を合わせてみた。こうして私たちは、まあまあ適当に生きている。
そのとき丁度、うなりだした炊飯器からお米の炊ける良い香りがしてきた。先月収穫を終えた新米だ。食欲をそそる香りに気を引かれながら、みそ汁の具は何にしようかなんて考える。
残暑厳しい九月初旬。廃村もそう遠くはないだろう山あいの農村で、女二人ののどかな暮らし。普遍的で、平凡な、取るに足らない日常だ。
◇
私がシキミちゃんと出会ったのは、つい数週間前。お盆の準備をするために墓場へ行ったときのことだ。
先祖代々の墓をきれいに掃除し、仏壇に供えるために
年は二十歳前後くらいだろうか。乱れた黒髪は汗で
片田舎では見かけない装いをしているが、そのどれもが土で汚れ、枝にでも引っかけたのか破れほつれすらある。大きな銀のトランクケースに添えられた両手など、きっと爪の間にまで土が入ってしまっているだろう。
傍らにあるのは大きな、本当に大きな、トランクケースだ。足を折りたためば成人男性すら入ってしまいそうなほどに。小柄な彼女に不釣り合いなそれは、長距離に渡ってなにか重いものでも運んだのだろうか。特にキャスターのあたりがぼろぼろだ。
蝉しぐれと竹林が風に揺られる音が響くなかで、彼女は心底驚いたような表情のまま動けずにいる。ありありと見てとれる疲労と
私は彼女を憐れんだのだろうか。それとも罪滅ぼしの意識でもあったのだろうか。誘う言葉が自然と口をついて出ていた。
「迷子にでもなった? よかったら
彼女は困惑と不安を警戒の薄皮で包みこんだ様子で、私の後ろをついてくる。彼女の引く銀のトランクケースは、田舎の荒いアスファルトの上をからからと軽い音をたてて走る。きっともう、中には何も入っていない。
自宅までの短い道中は、私が一方的に喋っていた。「今日も暑いね」だとか、「麦茶とほうじ茶があるけどどっちがいいかな」だとか、どうでも良いことばかり。彼女がどこから来て何をしていたかということには目を
どうしたら彼女が安心して過ごせるだろうかと、そればかりを考えていた。
その日は結局、私の家に泊めることになった。駅は山を超えた先だし、バスの本数は片手で足りるほどしかない。
汗と土を流した彼女は、私の用意した服を着ている。半袖のTシャツに薄手の長袖を羽織っているところを見るに、素肌を晒したくないという私の予想はたぶん当たりだ。
硬い表情のまま、風呂上りの彼女が私に尋ねる。
「……聞きたいこととかないの?」
「何を? 夕飯はなにがいいかとか?」
とぼけてみせるが、彼女は気まずいような思いつめたような顔で沈黙している。
どこから来たかも、何をしていたのかも、私は聞くつもりはない。
「でもまあ、名前がないと不便かな。私はあなたのことをなんて呼べばいい?」
彼女は迷った様子で口を開きかけたが、またすぐに引き結んでしまった。
「じゃあ、シキミちゃんって呼ぼうかな。この木とおそろい」
そう言って、今日採ってきたばかりの
詳しくは語ろうとしないが行く当てもなさそうな彼女に、「好きなだけ居たらいいよ」と言い、私たちの共同生活は始まった。
翌日、シキミちゃんは太陽がてっぺんに達するころに目を覚ました。疲れ果てていたのだろう。「おはよう」と挨拶した私に、申し訳なさと気まずさがない交ぜになった返事をした。
昼食を済ませてから手持無沙汰にしていた彼女は、盆入りの準備をする私の作業を興味深そうに眺めはじめた。私は仏壇に樒を活け、
夕方には庭先で一緒に迎え火をして、
きっと彼女にとっては、すべてが目新しく新鮮なんだ。
お盆の最中、私は習わしのひとつひとつを説明し、彼女はそれに耳を傾けた。私の後ろをついてまわる彼女とともに毎朝お茶と食事を精霊棚に奉げ、日差しが和らぐ夕方には一緒に畑へ出た。
彼女がトマトを収穫するために手を伸ばす。そのときちらりと見えた腕に治りかけの
初めて出会った日、竹やぶから出てきたシキミちゃんに、私は母の面影を見てしまった。顔立ちは似ても似つかないというのに、母を重ねてしまった。理不尽な暴力に晒され、憔悴しきった顔だ。だから、助けなければと心がつき動かされたし、今の私にはそれができると思った。
実際、シキミちゃんの身に起きたこともおおむね私の想像通りなのだと思う。
けれども、彼女と私の母は行く末が違ったようだ。
密かに見た銀のトランクケースの内側には、乾いた血がこびりついていた。おそらく中身は山中に捨てたのだろう。
意図的か偶発的かまではわからないが、たぶん彼女は人殺しだ。でも、それは私も同じだ。
母が私を残して病死し、父がしぶとく生きながらえているのを見て私は絶望した。そのころにはもう、幼い私と父ではなく、成人した私と初老の父として力関係も逆転していた。あとには、どうしてもっと早く行動に移せなかったのかという後悔だけが残った。
人は命を奪わずには生きられない。食べるために動物を殺すし、野菜を育てるために害虫を殺す。稲作だって、一度水を抜き干上がらせる必要があるからオタマジャクシやヤゴが死ぬ。食べるためだけではなく、自己の安全や快適さのためにも手を下す。スズメバチが軒下に巣を作れば壊して駆除するし、蚊の飛ぶ音が聞こえれば叩いて殺す。
どこまでが必要で、どこからが不必要か。無益と有益の線引きは誰がするのか。
わからない。わからないけど、奪わずにいられなかった私たちはきっとみんな地獄行きだ。地獄に行くまでの短い人生を生きている。
◇
クモを捨ててしまったゴミ箱に手を合わせ終えた私は、朝食の準備を再開した。
隣でシキミちゃんも手伝ってくれる。彼女もすっかりこの生活に馴染んで、笑顔も見せてくれるようになった。
紫蘇の実ができたら醤油漬けにしようとか、庭のキダチダリアがどんどん伸びてきたとか、大きなバッタがいてびっくりしたとか。そんなことを話していたらあっという間に準備が終わる。
今日の朝食は、紫蘇と茄子の煮びたし、オクラのみそ汁、はやと瓜の漬物、それから炊きたての白いご飯。
二人で食卓に向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」
短夜に生きる 十余一(とよいち) @0hm1t0y01
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