蛍の灯りに
をはち
蛍の灯りに
牧村文矢、三十四歳。
売れない小説家志望の男は、鏡に映る自分の顔にため息を吐いた。
疲れ果てた目、伸び放題の髭、冴えない人生そのものが刻まれたその顔は、彼自身を嘲笑うかのようだった。
東京の片隅、薄暗いアパートの一室。
机の上には締め切りが迫る原稿が白紙のまま埃をかぶり、時だけが無情に過ぎていく。
そんな文矢の人生に、ただ一つの光があった。
水城澪、三十歳。幼なじみであり、彼の全てだった。
彼女は姉貴のような口調で文矢を叱り、励まし、時に突き放した。
「文矢、いい加減、まともな小説書けよ。そしたら私がいい女を紹介してやるからさ」
軽やかな言葉とは裏腹に、彼女の瞳にはどこか遠くを見つめる影があった。
文矢はそれを、彼女の心が自分から離れつつある証だと感じていた。
それでも、彼の愛は揺るがなかった。
愛という言葉すら生ぬるい。
澪は彼の存在そのものだった。
二人はよく、澪の両親が所有する山間の別荘を訪れた。
金のない文矢にとって、そこは現実からの逃避行の聖域だった。
夏の夜、別荘の裏手に広がる湿地には蛍が舞う。
闇に漂う淡い光は、まるで星屑が地上に降りたかのように揺らめき、文矢の心を掴んで離さなかった。
だが、真に美しいのは蛍ではなかった。
蛍の灯りに照らされた澪の顔だった。
白い肌は光を受けて透けるように輝き、黒髪は夜の闇と溶け合っていた。
その瞳は、星のない夜空を映す湖のように深く静かだった。
文矢は蛍を口実に、彼女の横顔をじっと見つめた。
その瞬間、彼女はこの世のものとは思えないほど美しかった。
だが、その夏、澪は死んだ。
山道を走る車が崖から転落した。
運転していたのは澪だった。
知らせを受けたとき、文矢の心は凍りついた。
信じたくなかった。
彼女の笑顔、姉貴ぶった口調、蛍の光に浮かぶ横顔――全てが夢のように消え去った。
それから一ヶ月。
文矢は別荘に足を運んだ。
原稿は一文字も進まず、心は澪の不在で空洞だった。
彼女の両親に断りを入れ、一人で湿地のほとりに立った。
蛍の季節はとうに終わっていた。
闇はただ黒く、冷たく、彼を包み込んだ。
「澪…」と呟いた声は、夜に吸い込まれ、虚しく響いた。
そのとき、どこからか微かな光が揺れた。
季節外れの、一匹の蛍。
文矢の胸が締め付けられた。その光は、澪の笑顔のように儚く、優しかった。
光は湿地を漂い、まるで彼を導くように動いた。
文矢は吸い寄せられるようにその後を追った。
足元はぬかるみ、冷たい水が靴を濡らしたが、彼は構わず進んだ。
光は遠ざかり、近づき、まるで戯れるように彼を誘った。
すると、別の光が闇の中で揺れた。
もう一匹の蛍だ。
その光は、見知らぬ女性を伴っていた。
二匹の蛍は互いに絡み合い、まるで踊るように美しい光を放ち、やがて消えた。
そこには、澪によく似た女性が立っていた。
彼女は蛍を追いかけて道に迷ったのだと言う。
文矢は一瞬、言葉を失った。
彼女の顔には、澪の面影が確かに宿っていた。
文矢は彼女を伴い、懐中電灯を手に別荘へと戻った。
ぬかるんだ山道を進む中、一匹の蛍が再び現れ、彼らを先導するように飛んだ。
その光は、まるで澪の意志が宿っているかのようだった。
文矢はそっと呟いた。
「なぁ、澪…お前だろ?」
夜の闇に、蛍の光だけが静かに揺れた――
それは、彼の胸に灯る、澪という名の記憶だった。
蛍の灯りに をはち @kaginoo8
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます