死花病

三角海域

死花病

 ベッドに横たわる死体を食い破るかのように花が咲いていた。


「実際に見ると、なかなか衝撃だろう?」


 男の声が、静寂を破る。ちょっとした面白いものを紹介しているかのような軽い口調だった。


「想像していたよりも数倍は不気味だな」


「吐く者も多いよ。医者ですら、気分が悪くなることもある。君はあまり変化がないな」


「これでもだいぶ動揺してる」


 男は軽く笑った。


「冷静な方さ。医者のように生かす職につく者より、君のように殺める側の人間の方がこういうのに耐性があるのかもしれないな」


「こういうの?」


「生命を冒涜したようなものさ。医者は生命を尊重する」


「俺は冒涜している側だからな」


「その通り」


 花は体を突き破り、白い花弁を咲かせている。根はグロテスクに体を這い、肉に食い込んでいる。体を突き破ってからも、なおも根を伸ばし続け、そのうち体のすべてを吸いつくすのだという。


「この花の色は、命の色だと言われている」と男は言った。


「命は白いのか?」


「さてね。だが、どんな人間でも、咲く花の色は同じだ。人間に共通しているものは命。だから、これは命を吸った色なんだとさ」


「詩的だな、こんな見た目なのに」


「花そのものは美しいからな」


 死花病と呼ばれるこの謎の病。それは、現在に至るまでその性質を解明できてはいない。ある時、体のどこかに小さなしこりができる。ニキビのようだとも言われる。それはしばらくすると消えるが、〈種〉と呼ばれるそれは体内に入り込んでおり、しばらくすると体を突き破り花を咲かせる。治療法はない。発症すれば、花に体を食い尽くされ死に至る。


 死体から伸びる花に男は手を伸ばし、花弁を一枚ちぎった。すると、その花弁は瞬く間にしおれてしまう。花や死体を介しては感染しないことはわかっているが、詳細のわからいものを躊躇なく掴むこの男の異常さがおそろしい。


「出資している研究所で死花病の研究が進められていてね。そこに在籍している人間が、病に効く薬を開発したらしい」


「そいつはすごい。またあんたの地位が上がるんじゃないか? 表のな」


「人間は誰でも裏表があるものだよ。だが、少しばかり問題がある」


「邪魔をする人間がいるのか」


 俺の仕事は、そういう連中を消すことだ。この男にも、何度か依頼を受けていた。


「いや、違う」


「では、なんのために俺を呼んだ」


「その薬の開発者。牧君というのだが、彼女はまあ変わり者でね。なぜか理由はわからないが、その薬の製造方法を話そうとしないんだ。どれだけ金をちらつかせてもね。ただ、願いがひとつあって、それを叶えてくれたら考えるという」


「願い?」


 男はにやりと笑う。自分の思い通りにいかない時ほど、この男はよく笑う。逆境が自分をより高みに連れていってくれると信じているかのように。


「それが君の仕事さ」



 指定された場所は、男が出資している研究所だった。のっぺりとした白い建物で、研究所に抱いていたイメージとの違いに少し驚かされた。


「お菓子作りと同じです」


 案内係の女性はそう言った。


「まずしっかりとした工程があって、そこからアレンジを加えていく。新薬を作り出すのも、それと同じなんです。仕組み、成分。それらを理解したうえで、ようやく独自の研究に進むことができる」


 研究所の中で、牧は群を抜いているという。いくつもの薬を開発し、開発が終わると興味を無くし、また違う新薬研究へと進む。権利などには興味がなく、開発した薬についてのすべては研究所に任せているのだという。


「研究所の中に居住スペースを作ってるんです。ほんとはダメなんですけど、彼女は天才ですから」


 地下へ降り、長い通路を歩く。途中、入り口よりも厳重なセキュリティを抜け、ようやく牧がいるという部屋の前に着いた。


「あの……私はここまででいいでしょうか」


「構わないが、なぜ?」


「牧さんの部屋、独特でして。その……」


 苦手ということなんだろう。案内役の女性は、小走りに元来た道を戻っていく。少しでもこの部屋から遠くへ行きたいという風に見えた。

 扉をノックする。反応がないので、もう一度ノックすると、かすかに部屋の中から「はーい」という声が聞こえた。


「入っていいよ」


 そう返ってきたので、扉を開けた。


 部屋に入ると、なるほど、案内役の女性が気味悪がるのも理解できた。

 部屋一面に、絵が描かれている。その絵には、裸の男女が醜悪な怪物に手や足を引きちぎられ、腹を割かれている姿が描かれていた。天井を見上げると、そこは壁に描かれた絵とは真逆の、天上の楽園が描かれている。絵の中では神が座し、天使に囲まれている。


「どうもどうも。わざわざ出向いてもらって申し訳ないね」


 あたり一面を地獄に囲まれ、天井からは神が見守るこの異質な部屋の奥に、白衣を着た女がいた。若いとは聞いていたが、想像以上に若い。まだ少女と言える年齢のように見えた。


「驚いた?」


「ああ。ずいぶんと尖った趣味してるんだな」


「ふふん。ヒエロニムス・ボスの最後の審判を模写したんだよ。すごいでしょ?」


「誰それの絵だとかそういうのはわからないが、凄いのは認める」


 壁面の血と死の世界を見ながら、少女は笑った。


「私の名前は聞いてるよね?」


「牧司」


「そそ。んじゃ、おじさんの名前は?」


「別に名乗る必要はない」


「えー。フェアじゃなくない? 私の名前は知ってるのに。それに、呼ぶときにおじさんっていうのも味気ないよ」


「俺は気にしない」


「私は気にするの。もう。じゃあいいよ、ドクで」


「おい。どうして知ってる」


「社長に聞いた。仲間からはふざけてドクって呼ばれてるって。なんで? ポイズンの毒ってこと?」


「別になんでもいいだろう」


「聞かせてよ。それくらいはいいでしょ?」


 しゃべりながら、牧は動き回っている。落ち着きがないやつだ。

 諦めそうもない。話すしかないだろう。


「一度、仕事で傷を負った。それなりに大きな傷だ。俺は自分で応急処置をして、世話になってる医者のところへ行った。医者は俺の処置が素晴らしいとほめた。茶化しもあったんだろうが、その時から医者は俺のことをドクターと呼ぶようになった。それが界隈に広まって、いつしかドクなんていう風に呼ばれるようになった。それだけの話だ。満足か?」


「大満足。いい通り名だと思うけどな」


 牧は部屋に設けられている研究スペースに俺を案内した。そこには、生々しく蠢く肉塊のようなものから生えた白い花が並べられていた。


「本物か?」


「全部そう」


「体からはがすと一瞬で枯れると聞いたが」


「枯れるよ。だから、枯れずにいられる方法を見つけたの」


 さらりと言うが、それはとんでもないことだろう。


「始まりはここからだった」


「なんのことだ」


「この花を生かすために、いろいろ実験したんだよ。そして、生かす方法を見つけた。その過程で、たまたま見つけただけなんだよ、この子たちを殺す方法は」


 牧は髪をいじりながら笑う。


「もういくぞ。時間があるわけじゃない」


「了解」


「準備は?」


「なんの?」


 白衣にぼさぼさ髪。右目の周りと右手には包帯を巻いている。寝不足気味なのか、目の下に隈も見えた。


「まあいい。行こう」



 車に乗り込み、駐車場を出る。


「どれくらいかかるの?」


「四時間くらいだ」


「じゃあ、ちょっとだけ寝ててもいい?」


「かまわない。着いたら教える」


「それじゃあ面白くないよ。サービスエリアとか寄りたいじゃん」


「旅行気分だな」


「そうだよ。これはね、私の人生初めての旅なんだ」


 後部座席に寝転がりながら、牧はそう言った。


「海外に何度も出かけてるんだろう?」


「あれは仕事だよ。旅っていうのは、出かけることそのものを目的としたことを言うんだよ」


「違いが判らん」


「私もなんとなくそう思うだけだから大丈夫」


 まどろみに落ちかけているのか、牧の声は途切れ途切れになっていく。


「自分の思いとか気持ちって難解だから不思議だよね。難しいって言われてる何もかもより、それが一番難解だよ」


 言い終えると、牧は黙った。しばらくすると、かすかに寝息が聞こえてきた。


 スルーしてもいいと思ったが、寝る前に牧が言っていたこともあり、俺は途中のサービスエリアに寄った。車を降り、ボンネットに腰掛けて、電話を掛ける。


『どうだい、そっちは』


「ぐっすり眠ってるよ」


『ほう。珍しいな。寝てる姿を人に見せることはないんだが。信用されてるようだ』


「会ってからまだ数時間だぞ」


『信用は時間がかかるが、信頼は心によって変わる』


「隠居したら詩人になるんだな」


『本当の事さ。彼女のような人間なら、なおのことね。時間通りに着きそうかい?』


「今のところ問題はない。あんたの読み通りに進めば、この後は派手になるが」


『心配しなくていい。君が生き残れば、問題は何もない』


「責任が重いな」


『期待してるよ』


 電話を切り、後部座席のドアを開け、牧に声をかける。


「おい。ご希望通りサービスエリアに寄ったぞ」


 もそもそと体を動かし、牧は身を起こす。


「……麺類」


「は?」


「……麺類……食べたい」



「質素!」


 うどんをひとすすりすると、牧は嬉々としてそう言った。


「そんな喜び方があるんだな」


「素晴らしいよ。この無駄に濃い味! あんまり歯ごたえのない麺! まさに夢見た味!」


「安上がりな夢だな」


「夢に大小は関係ないよ。大切なのは心の持ちよう」


「まともなことを言う」


「大きいことを成し遂げるには小さいことから刺激を受けることが大切なんだよ」


「ほんとにまともなこと言うな」


「まともまともって、どんな風に思ってたのさ」


「変な部屋で変な花育ててる変な奴」


「間違ってはいないけど、あれは好きな画家の好きな絵を壁に描くことで癒しをもらってるだけだし、花は研究のためってのもあるから。一番の理由はきれいだからだけど」


「人の体食い破って出てくる花を愛でてる段階でだいぶやばいだろ」


「人のこと言えるの?」


「言えないな。ま、まともじゃない奴同士のんびり行くか」


 

「お前、なんであの研究所に入った」


 サービスエリア内のショップでコーヒーを買い、ベンチに座りながら俺は訊いた。牧は飴細工の屋台で購入した花を嬉しそうに見つめている。


「スカウト。社長が私がネットにあげた論文を見て、声をかけてくれたんだ」


 頭の中で、理論はあった。だが、それを形にする環境がなく、牧はもやもやしていた。それを嘆くよりも、何かしら行動に移した方がいい。そう思い、ネットに自分の頭の中にある考えをアップしたらしい。年齢もそえて。


「ふざけてると思われた。けど、社長は違った。だから、感謝してるんだ。私に、自分の能力を発揮できる場所をくれた」


 牧は遠い目をして、空を見上げた。曇天。少し肌寒さを感じる。


「人には、それぞれ能力がある。それはその人に与えられた神様からのギフト。そして、神様がいるんだとしたら、頭の中だと私は思う」


「頭の中?」


「そう。頭の中で、その神様がくれるんだよ、能力を発揮する機会を。そのチャンスを探すために、私たちは日々を生きてる。なんてね」


 牧はそう言って笑った。


 車に戻り、目的地へと向かう。牧はずっと外を眺めていた。


「ドクはさ、死花病って神様の仕業だと思う?」


「さあな。俺は神も悪魔も信じてない。それに、お前の考えで言えば、神は頭の中にいるんだろう? それなら、人間自身が望んだ死を、神様が与えたってことになるのか?」


「そうなるね。宗教によっては、人間が病の癒しを行うことを否定しているものがあるけど、そういう人たちにとっては、この病気はいい口実なんじゃないかなって思う」


「お前はどう考えてるんだ」


「わからない。観念的ことは考察はできても結果は示せないから。でも、意味はあると思う」


「意味?」


「そう。神様が私たちの頭に宿ってて、一生に一回、自分がすべきことをその人に教えようとする。でも、その声を聞くチャンスは自分で探さなきゃいけない。自分がすべきだと思えること。それを探すことが必要。それを見えにくくしたり、惑わせたりするブレーキみたいなものが悪魔なのかもしれない。だから結局、私たちの中には、神と悪魔が同居してるんだ。試されてるんだよ。私たちは、私たち自身に」


「小難しいこと言いやがる」


「そう? そうかもね。でも、ドクにだってきっと、やるべきことがあって、いつかそれを見つけるチャンスはくると思うよ」


「俺に? 俺はもう地獄に片足突っ込んでる。いまさら遅いさ」


「遅くないよ。地上の地獄においても、天上はある。救いはあるよ」


 牧はそう言う。視線は相変わらず外へ向いていた。


 それきり、牧は黙った。こちらから話す話題があるわけでもないので、俺もだまって車を走らせた。



 目的地に到着した。そこは、別荘地だった。あの男が用意したものだ。牧の願いというのは、人里離れた別荘地でのんびり過ごしたいというものだった。


 荷物をおろし、用意された別荘に向かう。なかなかに立派なもので、広々としたリビングには、必要最低限の家具が置かれている。


 牧はくたびれた様子でソファーに腰掛けた。顔色もよくない。


「車酔いでもしたか?」


「大丈夫。久しぶりに外に出たから、疲れたのかも」


「休んでろ。俺の仕事はここからだ」


「いい運転だったよ? 運転手になったほうがいいんじゃない?」


 牧は疲れた顔に笑顔を浮かべて言うが、無理しているのは明白だった。


「大人しくしてろ」


「そうする」


 荷物を解いているあいだに、牧はソファーで眠ってしまった。


 俺は自分の荷物からばらのパーツを取り出し、組み上げる。ショットガン。訓練は欠かしていないが、実戦で使うのは久しぶりだった。弾を込め、いつでも撃てる状態にしておく。


 車のダッシュボードにいれておいたナンバーロック式の箱からは、拳銃を一挺とマガジン三つを取り出す。すでに弾はこめてある。マガジンを拳銃に装填し、すぐに撃てる状態にしたうえで、安全装置をかけた。


 スライド部分にはクリップが装着してある。クリップをベルトに挟み、ショットガンを手に、牧から少し離れたところに腰掛ける。


 あの男が用意した別荘だ。備えはあるだろう。だが、敵が攻め込んできて押し入られればおしまいだ。とはいえ、それは向こうも同じ。派手になるにしても、長引かせたくないだろう。少人数を向かわせるはずだ。


 牧の寝顔を見る。こうしていると、普通の少女だ。そんな牧を、神の意思に反する悪魔だとする者もいる。


 牧が車中で話したように、死花病の恐怖を布教に利用する人間がいる。連中は金と、信仰を持つ権力者を用い、ありとあらゆる情報を集めている。全知全能を演出するためにだ。そんな連中にとって、牧が開発した薬は邪魔でしかない。


 本来なら、研究所から出さないのが一番だ。だが、牧が望んだ。なぜか、俺と共にここに来ることを。


 神経を研ぎ澄ますのは、「その時」が来てからだ。意識は巡らすが、緊張はせずに時が過ぎるのを待つ。


 日が暮れ始める。俺は裏口から外へ出て、様子を探る。気配がある。息を潜める気配。小さいものと、はっきりわかるもの。はっきりとした気配は、誘いだ。


 誘いにのったふりをしながら、距離を詰める。


 動いた。ほんのわずかな気配。迷わずにショットガンの引き金を二回引く。放射状に発射された散弾が生い茂る草を吹き飛ばす。悲鳴が聞こえた。身をかがめ、さらに距離を詰める。もう二発。


 二人の男が倒れるのが見えた。身をさらに落とし、銃口の向きを変える。気配を探りながら、一発。弾は後二発残っている。


 敵を散弾で誘導する考えだった。気配が動く。一気に距離を詰めた。向こうも発砲してきた。空を切るような音。消音器を装着しているのだろう。肩とわき腹をかすめるが、かすり傷だ。残った二発を撃つ。


 ショットガンを放り、拳銃を抜く。


 あと何人残っているのか。三人始末した。一人は仕留めきれてないが、致命傷は与えている。


 気配を濃くし、間をおいて息を潜める。緩急で相手に緊張を与えていく。その緊張が過度になった時。つまり、死を意識しすぎて我慢がきかなくなった時が、一番のチャンスだ。


 どれくらい経ったか。数分かもしれないし、数時間かもしれない。その時が来た。敵が一気に別荘へ向かおうとする。


 寝そべり、銃を構える。走り去っていく足元に、銃弾を放った。三人の男たちが倒れる。


 素早く身を起こし、男たちに近づく。銃口はまっすぐ男たちの方へ向けている。


 倒れていた男たちも銃をこちらにむけるが、それよりも早く引き金を引く。二発ずつ撃ち込む。それで終わりだった。


 マガジンを変え、捨てたマガジンとショットガンを拾い、致命傷を与えた男の元へ向かう。男は何かを唱えていた。どうやら、祈りのようなものらしい。その口に銃弾を撃ちこんだ。


 静寂が戻った。虫の声だけが、闇に響いている。



 別荘に戻ると、牧はもう起きていた。


「バンバンって聞こえてきたよ。大丈夫?」


「問題ない。人払いはされてるはずだ」


「それはわかってるよ。私が心配してるのは、ドクの方」


「かすり傷だ、問題ない」


「さすがはドクだね」


「うるさい」


 牧の顔色はさらに悪くなっていた。


「お前の方こそ大丈夫なのか」


「ああ。そろそろやばいね」


 牧はさらりと言った。


「やばい?」


「うん。そろそろ死ぬと思う」


「どういうことだ」


「薬。その副作用」


「わかるように話せ」


「私が作った薬、溶花薬っていうんだけど、なかなか安定しなくてさ。体の中の花を溶かして散らせるんだけど、弱すぎても効果ないし、強すぎても体に影響与えちゃうんだよ。その細かい調整は、人間の体で実験しないとわかんなくてさ」


 牧はふらつきながら立ち上がる。


「自分の体に花を植え付けて薬を試してたのか」


「そう。こんな人体実験他の人にやらせるわけにもいかないし。大変だったよ。調整うまくいかなくて、体が溶けてきちゃってさ」


 牧は巻かれた包帯を撫でる。


「でも、もう大丈夫。安定した効果が見込めるようになった。あとはほかの人が引き継いでも、量産できるはずだよ。データは研究所の壁の中に隠してあるから。最後の審判の、天上が描かれた部分。神様のところに埋め込んでるから回収して」


 牧はふらつき、倒れそうになる。俺はその体を支えた。


「優しいね」


「どうしようもないのか」


「ない。そのうち、体の崩壊が始まると思う。体が形を保てなくなる。細胞が解きほぐれちゃうんだよ。花だけじゃなくて、私自身も溶けてなくなる。面白いでしょ?」


「笑えないな」


「そう? そっか。そりゃそうだよね。ねえドク。お風呂場連れてってくれない? バスタブに私の体を入れて、ふたをしてほしいんだ。どうせ回収にくるけどさ、それまで溶けた自分の体をさらしとくのは嫌なんだ。それに、ドクに溶けてく姿も見せたくないしね」


 牧を抱き上げ、風呂場に向かう。その体を湯のはってないバスタブに入れる。


「楽しかった。サービスエリアでうどん食べるの夢だったんだよね」


 息が荒い。苦しみなのか、死が目前に迫った恐怖かわからないが、行けと言われるまではそばにいようと思った。


「神と悪魔の話したじゃない?」


「ああ」


「一生に一回、すべきこと。与えられた人生のテーマ。私にとってのそれは、薬を完成させること。私はそれを果たせた。だから、満足だよ」


「そうか」


「あの研究所で死んじゃうのは嫌だったんだ。ただでさえちょっと怖がられてるし、トラウマものじゃない? こんな死に方」


「そうだな」


「ごめんね、付き合わせて。死んじゃうのにさ、守ってもくれて」


「気にするな。それが仕事だ」


「ドクはいい人だよ」


「そんなことはない」


「あるよ。オランダの画家が好きなんだもん」


「なんだその理由」


「社長から、レンブラントが好きだって聞いてたから。なんか、変な親近感わいてさ。でも、正解だったね。ドクでよかったよ」


 牧は俺の手を握った。


「ドクにも、きっとドクにしかできない何かがあるよ。環境や境遇は選択を狭めるけど、運命はそれに縛られないんだから」


 牧の目に涙が浮かんでいる。なんの涙なのか。俺はそれを問うことはなかった。


「ありがとう。そろそろ行って」


「わかった」


 ふたを閉め、俺は風呂場を出た。



 風呂場の入り口に、サービスエリアで牧が買った飴細工の花を置いた。薄明かりの中でその花はかすかに光って見えた。

 それから数時間、俺は別荘のリビングで夜明けを待った。外からは虫の声が聞こえていたがやがてそれも消え、静寂だけが残された。


 朝が来ると、あの男の部下たちが別荘に到着した。彼らは手慣れた様子で後始末を始める。俺は最低限の報告だけをして、その場を後にした。




「知ってたのか」


 後日、あの男と会った時、俺は問うた。


「ああ。気付いた時にはもう遅かったけどね。隠してたことは謝るよ」


「別に構わない」


「私が考えていた以上にあの子は優秀だったようだ。彼女のような才能ある人間が、自己犠牲で結果を残すというのは悲しいものだけどね」


「自己犠牲ってわけでもないだろう」


「どういうことだい?」


「牧は、やるべきことをやっただけだ。自分に与えられたことを、自分にしかできない、唯一のことをやった。それをやるために、自分は生まれてきたんだと、そう思って。誰かのためじゃない。なによりも、自分のためにやったことだろう」


「へえ。ずいぶんと影響されたね」


「かもしれない」


「認めるんだね。珍しいこともあるもんだ」


 それで話を切り上げ、部屋を出ようとすると、男が俺を呼び止めた。


「風呂場の入り口に、飴細工の花が置いてあったよ。あれは手向けの花かい?」


「あいつが買ったものだ。だから置いてきた。それだけの話だ」


 男は何も言わず、ただ笑った。


「また仕事を頼むよ」


「しばらくは無理だ」


「どうしてだい?」


 振り返り、俺は言う。


「オーストリアにある絵を見てくる。その後はオランダに行って、レンブラントの絵を直接見てくるつもりだ」


「へえ。いいんじゃないか? ずっと仕事ばかりだったんだ。たまには休みも必要だろう」


「そうさせてもらう」


 俺に与えられたテーマなんてものがあるのかはわからない。それでも、少しだけ探してみよう。今はそう思えていた。


 街を歩きながら、俺はふと空を見上げた。雲の切れ間から、白い光が差し込んでいる。牧が言っていた通り、地上の地獄においても、天上はあるのかもしれない。


 死花病の花は白かった。牧の買った飴細工の花も、透明で白く光っていた。そして今、空から降り注ぐ光も白い。


 命の色は白いのだろうか。それとも、希望の色が白いのだろうか。


 俺にはまだわからない。だが、いつかわかる日が来るかもしれない。牧が教えてくれた、一生に一度の機会を見つけることができれば。


 歩きながら、俺は心の中で牧に礼を言った。うどんを美味しそうに食べていた彼女の笑顔を思い出しながら。

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死花病 三角海域 @sankakukaiiki

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