その気味の悪い婚約を

戸部 梨

第1話

 私には、確かに恋人が存在したはずである。彼は人並み以上に美しく、私の恋人であるという実感さえ与えてはくれなかったが。それでも、彼は私の恋人だったはずである。

 その現実を拒んだのは、一通の招待状であった。





 朝方のことだった。初夏といえど、外に居れば汗の滲む六月の空があった。

 昨日干した衣類はとっくに乾いていて、下着、靴下、パジャマ、Tシャツと列をなすそれらを、少し乱暴に取り入れていた。

 同居する彼は猫のようにあくびをして起きてくる。郵便受けを見てきてくれないかと言えば、端正な顔を少ししかめて玄関へ向かった。


 一方私は、洗濯物を両手に抱え、靴下を一つ落としつつリビングへ向かう。靴下程度、後で拾えばいいのだ。バサリとそれらを床にまけば、後は順に一つ一つ畳んでいくだけである。

 多少動いて眠気が覚めたのか、先程より少し元気な彼が紙の束を差し出してくる。お互いに言葉を使用せず、不明瞭な意思疎通だけを交わした。


───これはチラシ。これは私の。これは要らない。これも私の。


 仕分けられていく書類から、一通のハガキに目を止めた。暖色をまとい、上質な紙が使用されたそれは、私に宛てられた結婚式の招待状であった。嗚呼、なんておめでたいのだろう!一体誰と誰が?

 私は昔から、そういうおめでたい行事が突然降り掛かるのが好きだった。定期的に訪れるクリスマスや誕生日なんかより、ずっと輝いて見えていた。時間や費用というものは、さほどの問題ではなかった。

 だからこれにも、立派な獲物を見つけた肉食獣のように食いついた。


『この度、私達は結婚式を挙げることになりました』

 ほら、なんて美しい響きだろう。まだ誰のものとも知らぬ招待状に、うっとりと幸福に酔う。


 そうして惚けたまま、明朝体で綴られた名前を見れば、私は堅苦しく形式めいたそれらに、一文字一文字絶望を込めることとなった。

 そして彼と同姓同名の友人なんて居ただろうかと、馬鹿みたいな考えさえ浮かべるのだ。


「あ、それ届いた?じゃあ明日には全員に届いてるのかなぁ」


 招待状を覗き込む彼の言葉が、その馬鹿みたいな考えから私を絶望に連れ戻す。その言い草は、送り主の他になかったから。彼は私の絶望なんて意に介さず、その招待状について思考を巡らせるだけだった。


 この世には、恋人でも何でもない他人がその人の恋人を名乗って付きまとう事があると言う。もしや、私は無自覚のうちにそのおかしな思考に陥ってしまったのでは無いだろうか。


 そんなふうに、自身が彼の恋人である確証が薄れていくのを感じる。確かに、彼は私に愛の言葉を囁いたし、彼は私と手を繋ぎ、様々な所に連れて回ったはずだ。あれは、全部、私の妄想だった?

 この不安を拭えるのは、目の前の彼以外に居ないのだ。まるで縋るように、私は声をかけるしか無かった。


「…ねぇ、私たち、付き合ってるんだよね?」

「うん、そうだね?」


 どこかで聞いたことがある台詞だ。まるで、彼の浮気を疑う女の台詞ではないか。

 その台詞に彼は、何を当たり前のことを言っているんだという顔をした。ますます彼の事が分からなくなって、私は疑問をぶつけた。


「結婚するの?」

「うん。」


「この人は誰?」

「僕に告白してきた人。可愛かったから、結婚しようかなって」


「私は?私たちはどうなるの?」

「結婚するから別れなきゃだね。明日くらいに別れよっか。別に今別れてもいいけど、準備とか面倒だし。」


 まるで現実味を帯びない夢。そう、夢のようであった。思考が霞み、ありえない現実が広がる様な夢。

 これが純粋な浮気ならば、私の思考は晴れ、彼を罵り、すっきり忘れて新たな相手を見つけることが出来ただろう。しかし、彼のこれはどうも浮気とは違う何かのようで、心底気味の悪い感じがした。


 私は捨てられるんだという、その実感さえ彼は与えてくれない。だから今日一日は、気味の悪い日常を送る羽目になったのだ。


 何も知らなかった。結婚式の準備なんて、相当大変だろうに、何も。怪しく思うことさえなかった。

 放心したままの私は、数分前、道中に落とした靴下を拾う。





「慣れとは恐ろしいものだ。」

 よく聞いた言葉だ。しかしこの情報に溢れた生活で、この言葉の出処を探せるほどの余裕を、私は持ち合わせていなかった。


 私は二人分の朝食を作り、二人分の食器を片付け、二人分の洗濯を畳み、また二人分の何かをする。そうやって、いつもの習慣を回した。

 彼が手伝う素振りすら見せないのも、もうずっと前に慣れた事だった。

 私はあなたの母親じゃないと言う度に、彼よりも私が先に熱を冷ましてしまいそうだった。だから、そう言うのは辞めたのだった。

 辞めたのだけれど、やはり、心の突っかかりは見えないところに潜んでいたらしい。


 私を母親のように扱う事が皮切りとなった。たった一日と言っては長すぎるだろう。九時間程度で、彼の嫌いなところが嫌という程目についた。歳をとるとホクロが増えるみたいに、今まで見えていなかった黒が点々と現れてくるのだ。あまりに小さいくせに、名残惜しそうにそれは顔を出して主張してくるのだ。


 私が彼を好きなのは、紛れもない事実。だけれど、愛しているかと言われれば、案外当てはまらないのかもしれない。

 私の彼への想いは、どこまで行っても恋だったのだろうか。愛するという行為を、私は彼に行えていたのだろうか。

 彼の行動が、全て鏡のように私を反射しているだけなのだとしたら。

 夏らしく、汗が滲むのを感じた。


私、

彼の何が好きなんだっけ。





 彼の荷物は全て持ち去られた。髪の毛ひとつ残っていないのではと思うほど、綺麗に。

 彼との時間を証明するものは、もう何一つだって残っていない。


 結婚式には行かなかった。彼に直接、「行けない」と言った。

 もう7月になってしまう。月日さえ、私と彼の時間を遠ざけて行く。


 綺麗な紫陽花の描かれたカレンダーを破り捨てる。

 そこには、向日葵が咲いていた。

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