02:夕立
俺の母親と
母親は一歩も引かないそうだ。
聖のじいちゃんも頑固だそうだ。
でも小学生の頃の俺にはどうでもよかった。
歩くたびにランドセルの熊鈴がりんりぃんと鳴る。俺のランドセルはぺったんこで黒色で、聖のランドセルはしわもなくまだ艶も残っているキャラメル色だった。息をするだけで汗が吹きだす俺はアディダスのタオルを首から下げていたけど、聖は髪も顔もサラサラで、シナモンの刺繍のタオルハンカチをお守りみたいに握っていた。学校からの帰り道、中央線もない道路はこれでも県道で、開けた田んぼの青く伸びた稲の上を山から海に向けて涼しい風が通り抜けた。
県道から横道に入ってすぐ建っている塀で囲まれた二階建ての日本家屋の離れに、聖は駆け込んでいった。敷地の中にある家庭菜園にしては大規模の畑の横を走っていくと、りんりんりんと熊鈴が鳴った。門の横手の車庫の日陰で、聖が戻ってくるのを待った。
高い紺碧の空だった。もうすぐ夏休み、早く来い夏休み。ラジオ体操の早起きは面倒だけど、去年と違って最初の一週間と最後の一週間しかない。楽になったもんだ。聖は親に夏期講習を申し込まれていて、あんまり遊べないのが残念だ。聞くところによれば
聖は家にランドセルを置いてすぐに勉強道具をリュックサックに詰めて出てきた。ここのところ毎日こうだった。車庫から自転車を出す。自転車の前かごに俺のぺたんこのランドセルを入れる。聖は自転車を押して俺の隣を歩いた。
「暑いなあ」
「暑いねえ」
カラカラと車輪が回った。俺の家までの道のりを一緒に歩いて帰る。俺は帰ってから宿題もせずにサッカーの練習に行き、聖は俺を見送って図書館へ向かう。
小学校の統合のこと、どう思う、と聖が聞いたのは、俺と聖が一緒にいることを近所のばあちゃんに揶揄されたあとだった。学校から、地域の人には積極的にあいさつをしましょうと推奨されているから、こんにちはとあいさつをした俺たちに、畑のきゅうりをもぎながら、あんたたちは仲良くできるのに、おとなげないわよねえって、おかえり、だけで終わってくれればよかったのに、関係ないだろ、知らねえよ。黄色の安全帽の下で、むっとした。
どうって、どっちでもいい、と俺は答えた。
統合して小学校は遠くなる。でも、徒歩通学がバス通学になるのは楽しそうだった。毎日みんなでバスに乗れるのは、毎日が遠足みたいでいいんじゃないか。
聖は色白のほほを少し緩めて、
「ぼくもね、どっちでもいいんだ。でも人数が少なくなっているから、統合は当然の流れで、行政から小学校を統合したいと打診があった時点で、方向性は決まってる。だから、地区に小学校があるべきだから統合に反対というおじいちゃんの主張は、感傷的なところでしかなくて、足を引っ張っているだけだから、由一のお母さんが言っていることが正しいと思う」
聖はおとなしいけど、丁寧に深く物事を考えることができるやつで、俺の知らないことをたくさん知っている。瞬発力だけで生きている俺をフォローしてくれている。
それでも統合協議会なんて大人の世界の話まで、ちゃんと理解しようとしていることに驚いた。俺は協議会の内容なんて母親から聞いたこともないし、知ろうともしていなかった。難しい言葉が並んで、ぽかんとした。
俺の母親の負けん気が強いからもめるんだろ、と聞くと、聖は静かに首を振った。
「たぶん、おじいちゃんは由一のお母さんにひどいことを言っていると思う。ごめんなさい」
聖がなにを謝ったのか、わからなかった。
なんとなく気まずくなって、なにも聞けなかった。
聖が転校したのは、その夏休み明けだった。
聖がいなくなってから、俺はやっと協議会で何が話し合われているのか調べて、ようやく理解した。母親があいつの家のじいちゃんと協議会で対立して大ゲンカしたせいで、聖は俺と友達でいられなくなったんだ。
雲が流れて太陽を隠した。紀野の顔に影ができた。
「ちょっと由一、マジで自分だけの世界じゃん」
自転車のグリップをぎり、と握り締めた。ディスられていることはわかる。
紀野は首を捻ってくるくると視線を動かした。
「わたしホラ、小学校のときから子ども議会とか出てるでしょ。ディスカッションは相手がちゃんと考えたうえで反論してきたら盛り上がるんだけどさ、たまにいやいや数合わせで来ました、みたいなやつもいるわけ。そういうやつってさ、事前に過去の資料読んだり、他の地域の類似案件見たりしてこないでさ、要するに不勉強で、お門違いな質問で返してきたりすんの」
質問に質問で返してくるから議論が進まない。そういうものか。俺は発表や議論が苦手だ。すぐ冷静でなくなるから、順序だてて説明できなくなる。畏まった場での発言への積極性についてはもっと耳が痛い。根本的に意欲が足りていない。
「自分の見えてる範囲の情報だけで、頭ごなしに否定されんのってめっちゃ腹立つんよ。おばさんが自連協にキレたのってそういうとこ」
紀野のしゃべり方は、母親と似ている。きちんと整理されていて、めちゃめちゃ怒られている気分になる。
「そういうとこって」
「だから、女のくせに生意気だ、みたいにはなから見くびられちゃってたの」
最初から軽く見たもの言いをして、話を聞こうともしない。市のすみっこで、田舎で、時代が昭和で止まっている。
だとしたら、聖は。
「大ゲンカなんてしていないよ。おばさんは自連協の閉鎖的なとこに意見して、向こうが感情的に押さえつけようとしていただけ。聖も、家の中で、同じ目に遭ってた」
聖は、キャラメル色のランドセルを大切にしていて、髪も顔もサラサラで、シナモンみたいなかわいいものが好きだった。
控えめだったから、紀野のリーダーシップをいつも褒めていて、運動が苦手だったから、俺の走りをいつも褒めてくれた。外で遊ぶのは苦手で小説や漫画が好きで、でもまじめで頭がよくて、俺も紀野も、勉強につまづいたら聖に聞いて、聖はいつも丁寧に教えてくれた。
聖のじいさんは、頭が固くて時代錯誤で、俺の母親に女のくせにって言ったみたいに、聖にも、男のくせにって言ったのか。家の中で聖は、じいさんに認められなかったのか。育った場所に絶望して、この場所じゃだめだって思ったのか。
俺には、母親のことを謝って。聖になんの責任もないのに。なにも知らないまま聖と離ればなれになって。なんとなく気まずくて俺は連絡も取らずに。あのとき俺がちゃんと聞いてやれば。俺が、ちゃんと聞いてやれなかったせいで。
俺の隣じゃだめだって思ったのか。
背中はびっしょりと汗が張り付いていた。まだ昼なのに視界に暗幕が下りてきた。
紀野はぐしゃりと目と鼻を寄せた。家のこと、あんたには一番言いにくかったと思う、と俯いた。
「なんで」
「由一は、自分で聖に聞いた方がいい」
紀野は冷静だった。そのとおりだ。紀野に噛みついてどうする。
「うちもさ、聖のじいちゃんほどじゃないけど、昭和なばあちゃんがいるから。聖の気持ち、けっこうわかるつもり」
紀野のばあちゃん、十一人きょうだいの長女だもんな。料理上手でいつも優しくおかえりって言ってくれて、夫の半歩下がって付いていくを素でやってのける、良妻賢母っていうんだ。
一方紀野はがんがん前に出る。
「高校なんて、何年か前に共学になった女子校がまだあったら、ぜったいそこに行けって言われる。女の子が大学出て、嫁のもらい手がないわよって本気で言うし。学校代表で議会に出るのも恥ずかしいんだって。和裁とかお花とか習ってほしいんだって」
「そんなん、おまえのやりたいことじゃないだろ」
そう言うと紀野は顔を上げて、ゆっくり息を吐き出して、困ったように肩をすくめた。
わたし、南高に行こうと思うんだよね、と紀野は県下有数の進学校を挙げた。
「おばさんの母校でしょ。今も生徒会長は女の人なんだって。学校案内読んだんだけどさ、弁論大会の結果とか研究発表とか感動しちゃった。個性を大事にしてるって、聖もそういう学校がいいと思ったんだと思うよ」
聖が。
瞬間全身の力が抜けた。
聖が、そういうって、どういう学校だって、南高?
転校したあと私立中学に通っているくらいは、耳に入っている。中高一貫だから受験なしでエスカレーター式に進学できる学校だ。
「公立受けるって言ってたよ」
「……おまえ、聖と連絡、取ってるのか」
ひやっとした突風に鳥肌が立った。思わずうなって紀野の左腕を掴んだ。自転車がぐらりと傾く。
紀野が聖と連絡を取っている。俺に知らせずに。
あんたとケンカしたいわけじゃないんだけど、と紀野は動じなかった。悪びれる様子もなく、塾でずっと一緒だし、と言う。
小学校が変わっても塾が変わらなかったんだ。俺が勉強しないから行かないことにした塾にふたりは通いつづけていた。
俺はいつもなにも考えていなくて、ひとりだけ置いていかれている。
力の入っていない俺の手は、いとも簡単に振りはらわれた。
「近すぎ。あんたと付き合ってるウワサになったら困るし」
「いや、悪かっ……困るのかよ」
「だって聖に嫌われたくないもん」
ぽかんとした俺に、紀野はほんとバカだねと笑った。
「由一、会えばいいじゃん」
会えばいい——でかくて苦い言葉が腹の底から食道にせり上がってきて胸が詰まる。
自転車を立て直した。ハンドルグリップを握る手の甲に、ぽつりと雨が一粒落ちた。
頭上には急に押しよせた雨雲が夜を呼びよせたようにあたりを暗くして、かと思うと次の瞬間にはバケツをひっくり返したような大雨になった。
紀野が慌てて生徒昇降口の庇に走る。滝行でもしているように俺は自転車を支えたまま突っ立っていた。紀野が、なんで動かないのよバカ、と言っている。
そうだ。
バカだ。
聖がいなくなったことに不貞腐れて、何もしないで三年間も。
「オープンハイ、俺も南高にする」
叫んでいた。言葉が勝手に出ていた。言ってから気付く、名案だ。
でも聖は、あれでいてすごく頑固だから。
顔を流れ落ちる雨が、景色から色を奪う。
三年も連絡していない俺を許さないかもしれない。
どしゃぶりが顔面を打つ。
だめだ。
今すぐだ。
突風が身体を押した。
「由一、プリント飛んだ!」
前かごにぞんざいに突っ込んだ新校名募集のプリントが飛んだ。紀野の声に反射的に伸ばした手のひらに飛んだ紙が偶然張り付いた。白い紙は一瞬で水を吸い込んで灰色に変わる。
「これも聖に聞いてみる!」
力を込めると、濡れてしまった紙はさらにぐちゃぐちゃになった。びしょ濡れの制服のポケットに突っ込んで自転車にまたがった。雨が叩きつける地面にあっという間に水が溜まっている。片足で地面を蹴ると、降る雨に逆らうように水溜まりが弾けた。
食いしばって漕ぎだす。水を含んで重量を増した制服で雨を裂く。世界はざあざあと大きな雨音で埋め尽くされている。
真っ白い夕立を進む先に空の境界が見えた。けぶった視界の向こうの空、雲の縁は杏色にきらめいている。あの線を越えたら晴れだ。漕げ。
(おわり)
夕立待つ君 霙座 @mizoreza
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