夕立待つ君

霙座

01:上昇気流

 暖気と冷気はぶつかることなく、不均衡なまま梅雨が開けた。教室の前を通りすぎると、ひんやりした空気が感じられるが、全開の廊下の窓から吹き込む熱風に押し負けていた。高台はいつも風が強い。

 突きあたりの掲示物が風にあおられてめくり上がる。オープンハイスクールの日程表が揺れるたびに、まだどこにも申し込んでいない事実が脳裏にちらちら黄色信号を点滅させる。


 三年一組の前に用意された待機椅子に母親と並んで座った。午後二時からの三者面談は、先の順番のクラスメイトが長引いていた。時々教室から笑い声が聞こえてくる。隣で学年便りの文章を黙々と読む母親の影が視界に入る。

 扇風機の風なのか外から入る風なのか、何のせいなのかわからないぐちゃぐちゃに乱れた髪をぶるぶると振り払って、首を目いっぱい反らして空を見上げた。中学校の校舎三階からは遠くに海が一望できるのだが、この角度では窓枠と雨樋しか見えない。反らしすぎた。気持ちわる。どこか灰色混じりの水色の空に入道雲がかかる。雲底がやけに平らだ。あの雲が下りてきて、でこぼこの街並みをプレスして一律ぺたんこにすればいい。


 急に差し込む午後の陽光が強すぎて、じりじりと音がするようだ。ちりちりと皮膚を灼く。

 くそ、と心の中で悪態をついた。

 じいじいと蝉が鳴く。ごおごおと扇風機が回る。じりじり、ちりちり、じいじい、ごおごお、うるさい、うるさい。上昇気流が思考に砂嵐を巻き起こす。


 ばしん、と乾いた音に驚いて反射的に横を見た。母親が膝から飛ばされそうになったプリントを抑えていた。

 頭から耳の後ろについ、と汗が流れ落ちた。

 顔を正面に戻した。まばたきをした。一言も話をしないまま三者面談を待つ時間が、地獄のようだった。




 特に有益とは言えない三者面談後、母親は成績にケチをつけるでもなく、進路希望にケチをつけるでもなく、「社会勉強になるし、高校見学くらい行った方がいいんじゃない」とだけ言い残して、仕事に戻っていった。

 走り去る白のN-BOXを生徒玄関で突っ立って見送った。

 これまで宿題をする以外の勉強をしたことがなくて、三年になっても自宅学習というものができなくて、それなりの成績で行ける高校に行こうとしているのだが、期末テストあたりからクラスの雰囲気がやや固くなってきた。胃の底がむず痒いというか、ぞわぞわする。いわゆる受験モードに当てられているのだろう。

 三者面談で担任に言われて知ったが、オープンハイスクールの申し込みをしていないのは学年で俺だけだった。


 自転車置き場に移動した。ぽつんと置いてある愛車の前かごに鞄と弁当箱を放り込む。校舎も自転車置き場も、人けがなかった。

 三者面談なのは三年だけで、一限後放課で下学年は帰宅済みだ。俺は弁当持参で面談の時間まで自習室待機だったが、クラスメイトのほとんどは一度帰ってから親と一緒に三者面談に来ているようだった。もっとも真夏日で朝から三十度を超える暑さの中、自転車通学を選択しているのは俺を含めて数人だ。

 自転車のハンドルグリップが熱を持っていて柔らかく感じた。スタンドを足で跳ね上げる。屋根の濃い影から出た途端、直射日光が二の腕に刺さった。

 暑い。

 目を細めて太陽を睨む。

 暑いと言えば済むのだけれど、口から漏れるのはシューという無意味な無声音だけだ。暑いと言ったところで何も返ってこないのだから。

 隣にいて、同じように自転車を引いて、暑いなあ、暑いねえと。


 カラカラ、と回る車輪に似た音がした。

 心臓がドンと鳴った。驚いて、振り返って。

 白っぽい砂利道を、連日の暑さに落ちてしまった楕円形の葉が、乾いた風に転がっていく。


「……葉っぱかよ」


 こんなことに驚く自分にいらいらする。

 隣を歩くやつは、いない。




由一ゆういち、プリント忘れてる」


 青空からソプラノが降ってきた。大音量で俺の名前を呼ぶ。見上げると校舎三階の窓から女子が身を乗り出している。片手に白いプリントを掲げていた。


「うるせえ、紀野きの

「ちょっと待っててよ」


 いや、いらんわ、とお節介を断る間もなく、頭を引っ込めて一分後、セーラー服の裾を翻して内履きのまま紀野が生徒玄関から飛び出してきた。

 紀野の手に運ばれるプリントが白く光って眩しい。


「ねえ、これ終業式の日までだよ」

「なんだよ、オープンハイの申込用紙ならもらっ」

「新校名の募集」


 新、校名。

 くそめんどくせえ。顔を半分手で覆うと、ぐいと下ろされ、見ろ、と逆手ぎゃくてにプリントを握らされた。自転車がバランスを失って倒れてきたのを腹で受け止める。週明けの終業式が提出期限になっている。


「あんたがちゃんと考えないと、おばさんの苦労が報われないじゃない」

「俺に関係ないだろ」

「ありまくりだよ。いったい何年おばさんが戦ってきてると思ってんの」


 戦うなんて大袈裟だ。せいぜい口やかましいじじいどもとののしり合うくらいだ。

 反論しかけた俺を、今日の日差しに負けないくらい強い紀野の眼光が射すくめる。俺は口を閉じてへの字に曲げて、前かごの荷物の隙間に紙を突っ込んだ。


 この地区は小学校統合の議論の渦中にある。

 俺達が卒業した小学校は隣の二地区と統合して、新しい小学校として生まれ変わろうとしている。これまでの小学校とは別の場所、三校の真ん中にあたりに新校舎が建設される。

 生まれ変わる、と言ったところで、この三校は中学校の校区なので、校舎以外の特別な新しさを感じられるわけでもないのだけれど、ずいぶん長い間統合の議論をしていた。


「卒業したやつの意見なんかいるかよ」

「卒業したからって、自分の出た小学校のことじゃない。小学生にもアンケート取ってるんだし、きらめき夢小学校とかイヤサー小学校とかになったらいやじゃん」


 例えがダサすぎる。

 卒業したとはいえ、地区にある小学校の名称がダサいのは耐えられない。

 だからちゃんと考えてよ、と紀野は人差し指を立てて、めっ、と近付いた。責任者かよ、とつっこみかけて、元生徒会長だから似たようなものかと引っこんだ。


「おまえはなんでそんなに前のめりなわけ」

「由一は家でおばさんと話しないの?」

「しない」


 地域の新小学校の話どころか、自分の進学先の話すらしない。

 いやそれはもったいないね、と紀野は偉そうに腕を組んだ。


 俺の母親が保護者代表で協議会に参加し始めたのは、俺が小学校入学の前だったか、後だったか。具体的に行政と住民が統合に向けて協議を始めてから九年か、十年くらい経つ。

 母親は子どもの教育のために一刻も早く統合を進めるべきだという革新派で、学校の統廃合は地域の衰退を招くと主張する保守的な重鎮たちと、進展のない議論を定期的に繰り返していたようだが、去年あたりから急に話が進み始めた。

 小中学校ともに学級数は十二学級以上十八学級以下が標準規模なのに、市のすみっこの俺たちの地区は、標準を維持できなくなってもう二十年になる。加速度的に過疎化が進んでいて、俺たちが六年生の時は全校生徒が八十人だったのが、三年経った今六十人しかいない。

 子どもがいないのだから、重鎮も折れる。しょうがない。

 紀野は、意外と知ってんじゃん、と満足そうに頷いた。


「わたしは学校の人数、もっといた方がいいって思ってた。合唱コンクールでほかの学校との迫力の差ってこの人数じゃ埋められないって思ったし、陸上記録会もリレー、結局、混合しか出れなかったじゃない。おばさんとよく話すけど、小規模校の良さはあるけど、小学生の時の経験値の差ってなかなか埋められないんだよね」


 紀野は隣に住んでいて、昔から俺の母親と仲がいい。回覧板を隣から回してきて玄関先で盛り上がっていることもしょっちゅうだ。

 議論好きなのだ。明るくて物怖じしない。教室でも手を上げて発表できるし、学校から県の子ども議会に派遣されるし、中学生になってからも一年のときから生徒会に入って二年で生徒会長になるし、交通安全ボランティアとかでいつも道路に立ってるし、卒業校の行く末まで気にしているし。


「協議会、けんけんごうごうって感じ。この間も新小学校の屋外プールがどうして不要なのか、熱弁してひじりのおじいちゃんぶった切ってたんだから」


 聖の名前が出て息が詰まった。

 背中にどっと汗が吹き出す。

 聖のじいちゃんは、この十年変わらず連合自治会の会長だ。


「……学校にプール作らないのか」

「プール授業なんてもうほとんどしてないじゃん」


 紀野には小学生の弟がいるから、現在の小学校事情は俺より相当詳しい。近年猛暑すぎて入れないことも多いし、ボランティア監視の保護者の負担も大きいし、プールサイドで足の裏をやけどする奴もいて、夏休みのプール開放もなくなった。そもそも紀野の弟は虫と一緒に泳げない。


「ちゃんと代案はあるんだよ。県営プールまでバスで通うの。暑くても雨でも授業に変更なしだし、虫もいない。泳げない担任に教わるよりも、プールのコーチに教わることができるんだし、ぜったい利紀も泳げるようになると思うんだよね」


 プール設備の維持費よりもバスを出す方が安く上がるのか。ていうか、担任が泳げないのか。教員採用試験に水泳って実技ないのか。


「小学校にはプールがあるべきだ、なんてただの見栄にしか思えないよ。ほかにお金かけてほしいもん。それでおばさんが説得しようとしてたの」


 紀野の話がわからないわけじゃない。

 ただ、またそうやって母親と聖のじいちゃんがけんかになっているのが嫌だった。

 なんで穏便に話ができないんだろう。どうして俺と聖のことを考えてくれないんだろう。


「小学校の統合、なんで今なんだよ」

「新しくなるんだよ。え、由一、小学校の統合に反対なの」

「いや別にそういうわけじゃ」


 ひとクラス十五人、転入出もなく一度もクラス替えをせずに六年を過ごした。その内半数は保育園からの付き合いだ。中学に上がってクラスはばらけたけれど、小学校の同級生は特別なままで、紀野なんかは家も隣だから特に気安い、というか、無遠慮だ。人数が増えればできることも増えるけど、俺たちの教室の雰囲気はもう再現できないだろうな。

 中学でも友達はできたし、部活の仲間も大事だけれど、少ない人数で一緒に育ってきた小学校の同級生は別枠だ。


 その中で親友は、かけがえのない存在だった。

 兄弟みたいな。

 半身みたいな。


 黙ってしまった俺に、紀野は一度唇を噛んでから、呟いた。


「あんたまだ、聖が転校したこと、おばさんのせいだって思ってるんじゃないでしょうね」



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