悪い子

秋犬

私は悪くないのに

 隣の部屋に夫婦が引っ越してきた。そして間もなく赤ん坊が生まれた。「これからうるさくなりますが、すみません」なんて挨拶しに来たけど、私は「へぁ」と間の抜けた声しか出せなかった。だって私に出来ることなんて何もないですからね。はあ、頑張ってくださいとしか言えないじゃないですか。


 疲れて家に帰ってくると、隣から赤ん坊の泣き声がうっすら聞こえてくる。騒音かと言われたらそこまで気にならない音だけれど、私の神経だけは逆撫でされる。私に赤ん坊がいないのが惨めって言われてるみたいじゃないか。そもそもあの夫婦はわざわざ私に赤ん坊なんて見せつけて幸せアピールしてきたんじゃないか? 違うな、セックスしましたアピールだ。よかったですね、セックスする相手がいて。


 赤ん坊の泣き声が聞こえてきている。お母さんがヨシヨシってあやしているのかな。それともこんなに泣いているんだからきっと虐待しているに違いない。ああ、だって関係ない他人に赤ん坊を見せつけてくる無神経な陽キャだもんな。赤ん坊なんて自分が赤ん坊大好きですよキャハってだけのアイテムで私が見ていないところで何をしているんだかわかったもんじゃない。私は赤ん坊は嫌いだけど、陽キャが虐待行為とかで逮捕されるところとか見たいかもしれない。


 よし、赤ん坊を守ろう。


 まずは近所の人として仲良くなろう。赤ん坊が泣いている時に私は隣の部屋のチャイムを押す。スピーカー越しに気持ち悪い声が聞こえてくる。


『……はい』

「あの、隣人です! 実家から果物をもらったので、どうぞもらってください!」


 しばらくして、ぼさぼさの髪の毛の女が扉を開けた。私は赤ん坊を虐待しているシーンが取れるかもしれないと思ってスマホのカメラを準備しておいたのだけど、女がスーパーで買ってきたカットすいかを受け取ってすぐに扉を閉めたから撮影できなかった。残念。


 その日から私はなるべく気のいい隣人を気取ることにした。それでも赤ん坊の泣き声は止まなかった。ああ、なんて可哀想な赤ん坊なんだろう。いつもぎゃーぎゃー泣くことしかしないなんて、親不孝な悪い子なんだろう。そんな出来損ないを生んだから、隣人夫婦もろくでもない人間なんだろう。私は違う。私は赤ん坊の心配をしているだけなんだ。


 それからも私はなるべく隣人に届け物をした。東北物産展で買ったりんごジュース、九州物産展で買ったマンゴー飴、新しく出来たケーキ屋のケーキ、手作りの作りすぎたと思ってもらうためのカレー。もうこれは隣人として完璧ではないだろうか。


「はあ、いつもありがとうございます」


 隣人の女は最初は愛想よくしていたくせに、だんだん扉を閉める時間が短くなっていった。最近は赤ん坊が泣いているのに出てこないこともある。私も大人だからそういう気分のこともあるよね、ってドアノブに北海道物産展で買ってきたいかめしをかけてその日は家に帰った。


 次の日、いかめしは無事に届いたか確認したらドアノブにはもうひっかかっていなかった。しかし、ゴミ捨て場のゴミ袋から未開封のいかめしが覗いているのを見て私はそのゴミ袋を開けた。赤ちゃんのおむつのゴミと一緒になっていた。間違いない、捨てたんだ。私のことを、捨てたんだ。


 裏切られた。


 せっかく私がこうやって贈り物を届けているというのに、なんていう仕打ち。許せない。間違いない。これは虐待だ。児童相談所に連絡しないと。


「もしもし、児童相談所です。どうされましたか?」

「隣の家で虐待しているかもしれないんです」

「そうですか、通報ありがとうございます。よろしければ詳しい状況などお伝えできますか?」


 私は気の良さそうなおばちゃんに全てを話した。連日泣き声が聞こえてくること。私が心配して声をかけていること。それなのに、私の贈り物を全部ゴミに捨てていたこと。おばちゃんは「それは大変でしたね」と私の話を聞いてくれた。これで何とかなるだろう。


 それからしばらく、赤ん坊の泣き声が聞こえてこなくなった。これは虐待が止んだ証拠に違いない。私は様子を確かめるために沖縄物産展で買ったパイナップルケーキを持って隣家を訪れた。しかし、戸口に出てきたのは女ではなかった。


「君か、連日妻に贈り物をしてくれるのは」


 出てきたのは男のほうだった。女とセックスした、嫌らしい男だ。男が言うには、女は赤ん坊と一緒にしばらく実家に帰っているとのことだった。そして引っ越しを検討しているから、もう訪ねて来ないでくれということだった。


 なにそれ、今までの私の贈り物を返してよ。


 男は私が差し出したパイナップルケーキを受け取らず、「もう二度と関わらないでください」と言って扉を閉めた。


 だって、迷惑かけるかもなんて挨拶しに来たじゃない。だから私は「迷惑じゃありませんよ」って言い続けたんじゃないですか!


 私はドアノブにパイナップルケーキをひっかけて家に帰った。だって私、悪くないですよね? 赤ん坊の心配していただけなんですよ。それなのに、他人の善意を受け取れないなんて最悪の人間ですね。許さない。地獄に落ちろ。ふざけるな、死ね。


 私は以前ゴミ袋から発掘しておいた隣家の給与明細から男の職場の連絡先を見つけて、そこに「男と不倫してて、それで会えないんです」と連絡した。ざまあみろ。これで社会的に死ね。不倫した男は慰謝料払わなきゃいけないんですよね。私に払って死ね。死ね死ね死ね♪


 だって私、悪くないですよね。赤ん坊なんて見せびらかすほうがおかしいんですよ。ああ、そう言えば旦那さんちょっとタイプかもしれないな。どうせ奥さんいないんだから私とセックスしませんかって言えばよかった! ああ、失敗した。だから陰キャはダメなんだよなー。


 隣の部屋のほうの壁に耳をそばだてると、かすかに動画を再生している音らしいものが聞こえてきた。どうも中にまだ誰かいるらしい。今からでも遅くない。私と不倫して、男から慰謝料を貰おう。そうしよう。私はすぐに外へ出て、隣家のチャイムを押した。


 ぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーん


「いるのはわかってるんですよ。話し合いましょう」

「私、あなたのことを好きかもしれません。会ってください」

「あなたの奥さん実家に帰ったんでしょう? あなたのこと愛してないですよ」

「いるのはわかってるんですよ。話し合いましょう」

「あなたのこと好きです。絶対好きです」

「返事をしろよ」

「なんで返事しないんだよ」

「赤ん坊虐待してたろくでなしのくせに被害者気取るな!」

「ねえどうしてお土産捨てたの?」

「そうやって私のことも捨てるんでしょう!!」

「ふざけんなこのヤリチンが!」


 ぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーんぴーんぽーん


「もしもし、ちょっといいですか?」


 後ろに警察の人が立っていた。裏切られた。

 またしても私は裏切られたんだ。


「私、この人に強姦されたんです。だから逮捕してください」

「わかりました。話はじっくり署で聞きますから、一緒に来てくれますか?」


 ああよかった。おまわりさんは親切だ。


 こうして私は安全な警察署であの男の悪行をひとつ残らず話してやった。おまわりさんは最後まで真剣に聞いてくれた。それから私に「あの男はすぐ引っ越すからもう関わるな」とアドバイスしてくれた。なんて優しい人なんだろう。私はおまわりさんの連絡先を聞いたら、警察署に来たらいつでも話を聞いてくれるという。今度紹介したい人もいるって教えてもらった。誰のことだろう。


 おまわりさんの言う通り、隣家はすぐに空になった。ああよかった。私が懲らしめたから世界に平和が戻った。これで安心して連日寝ることができる。やっぱり赤ん坊なんてこしらえるもんじゃないわね。めでたしめでたし。


<了>

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悪い子 秋犬 @Anoni

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