後編


 早朝、駅前、改札。鈴にかばんを渡す

「ありがと」

「気をつけてな。水分補給とか、しっかりするんだぞ」

「姉ちゃんにも言われたよそれ」

 辟易したような表情をする鈴に僕は「心配なんだよ」と返す。

「リン、そんなにちゃんとしてないように見える?」

「そういうんじゃないだって」

「なら、もう少し自由にさせてほしい」

 呟くように鈴は言った。地面を見下ろすその表情はうかがい知れない。

「どうせ、リンは一生身体弱いままなんだから。それに、自分のことは自分が一番わかっているつもり」

「鈴……」

 シャワシャワと蝉の声が響く。じっとりと汗がにじむ。

 鈴が顔を上げた。涙をこらえるような表情で、唇を震わせる。

「リンのイデアは、どこにあるんだろう」

 呟く鈴。人の少ない駅前に、ひやりと涼しい風が一陣吹いた。

 リンが熱にうなされているときも笑みも浮かべるような人間だった。辛いときには辛いと言っていいと伝えても「大丈夫」と笑った。かたくなに、表情を崩さなかった。こんな表情をする子ではなかった。

 僕が一人暮らしをはじめてからもう半年。わずかな時間だけれど、鈴の中にも変化があったのかもしれない。

 人は変わるんだ。目の前の姿がその人そのものではない。一つにとどまるのではなくて変わるんだ。それは鈴だけでなく、姉も父も母も、たくさんのいとこたちもみんなそうなのだ。仮にイデアとかいうものがあるとして、それに向かって変わっているのかはわからない。けれど、その境地に達するために進んでいるのだと信じたい。

 何も言えない僕の右手の指先を、ふいに鈴が握った。

「たまには、帰ってきてよ。リンたち、待ってる」

 僕を見上げて言う、頭一つ背の低い妹の手を握る。

「夏休み終わるまでに一回は帰るよ。そのときはドライブでも行こう」

 すると鈴はとたんにぱっとひまわりのように笑った。

 広場の時計の長針が6をさす。 

 午前6時30分。時間だ。鈴も気づいたらしい。バッグから定期カードを取り出して、笑顔をたたえたまま言った。

「行ってきます」

 僕は離した手を軽くあげて「行ってらっしゃい」と送り出した。


 鈴の乗った電車がスピードを上げて走り去る。しばらく見つめていたが、やがて車両の端さえ見えなくなった。

 踵を返して15分。アパートに戻ると、鷹来たかぎさんがまた隣室の前に立っていた。

(まじでけんかしたのか……?)

 立ち尽くす彼の姿から不穏な雰囲気を感じる。触らぬ神に祟りなし。

「どうもー」

 軽く挨拶をして鍵をさしこむ。

「あ、どうも」とやっぱりタイムラグのある返事。会釈を返して僕は部屋に入った。




 翌日は雨が降っていた。月曜日は1限飛んで5限という強気のカリキュラムにしてしまったため、間に6時間も空き時間がある。学校周辺にいてもすることもないので、一度帰宅することにした。

 篠突く雨を傘で避けながらアパートに戻ると、塀に沿ってトラックが停まっていた。普段はまず見かけない、というか道の幅ぴったりで交通渋滞必至のサイズのトラックだ。なんだろうと思いながら敷地に入ると、段ボールを抱えた作業員がトラックの方へ向かっていった。その男の人は、僕の部屋の隣から現れた。空き部屋ではない方の部屋、つまりの部屋だ。

(……あれ)

 ふと、頭の隅に何か違和感を覚えた。首をかしげるが、理由はわからない。

 首の裏を撫でながら階段を上ると、雛入さんが出てきた。

「雛入さん」

「あら」

「今帰り? ずいぶん早いね」

「ええ。まあ、午後なったら戻りますけど」

「そうなんだ」

 そう答える雛入さんの後ろからさっきと同じように段ボールを持った男性が出てくる。知らない人だ。

「もしかして、引っ越すんですか?」

「うん」と彼女は笑う。安堵したような表情だ。

「へえ、そうなんですぁ。寂しくなりますね」

「いろいろありがとうね。短い時間だったけれど」

「いえ、こちらこそありがとうございます。どのあたりに引っ越すんですか」

 僕は何気なく、世間話のつもりで聞いた。だから驚いた。

「なんでそんなこときくの」

 今まで聞いたこともない低い声音のその言葉に。

 目の前の人が、顔が変わったわけでもないのに別人になったかのような錯覚を感じる。イデア。鈴の言葉が蘇る。

「あ、ごめんごめん」と彼女は数秒ののち表情を崩した。

「ああ、いえ……僕の方こそ」

 居心地の悪い空気。僕は、「ジャム、ありがとうございました。おいしかったです」と直接伝えそびれていたお礼を告げて部屋に戻ろうとした。

「そういえば」

 しかし、一つ思い出して、ドアノブに手をかけたまま、彼女に向き直る。

「なに?」

「イチゴ、食べました? よかったらあれもジャムにしてください」

 僕は笑顔をつくる。しかし、彼女の表情は、凍り付いたまま動かない。

「イチゴ……?」

「え?」

「いつ、もらったっけ」

「え、昨日ですよ。鷹来さんに」

「ひぃ」

 彼女の口から軽く息がもれる。青ざめた顔。

「ひ、雛入さん」

「ごめん」

 彼女は首を横に振って、錆ついた柵を握ったまま、嘔吐した。





 その様子を見て、僕は気づいた。

 さっきの違和感の正体に気づいた。

【鷹来さんと雛入さん】

 二人を並べて、さっき思考したけれど、そうだ。僕は、2人が、のだ。


 思えば不審なところはたくさんあった。


 例えば、夏ミカンの感想を彼女に伝えたときの反応は、初めて聞いたという反応だった。鷹来さんが伝え忘れたと思っていたけれど、そうではなかったのだ。2人の間に会話などないのだから、伝わるはずもない。

 鈴は、隣の部屋の洗濯物が男物ばっかりと言った。あれは女物がないということよりも、男物しかないということが重要だったのだ。あえて男物の下着や服を干す。それは、典型的なストーカー対策の一つだ。

 僕が引っ越し先を問うた時、「なぜそんなことをきくの」と訝ったのも当然だ。 


 イチゴが決定打になった。彼女は、知るわけがないじゃないか。

 だってあのイチゴを僕が渡した相手は鷹来さんだ。

 しかも、だ。

 恐ろしいことだ。

 僕がイチゴを渡したのは、室内にいる、鷹来さんだった。

 つまり、彼はどこかのタイミングで、雛入さんの部屋の鍵を手に入れたということになる。

「部屋のものが移動してたり、変なにおいがしたりするなって思ってた。昔似たことあって、ここに来て、ずっとなにもなかったんだけど……」

 廊下の掃除を手伝うさなか、雛入さんは教えてくれた。

「警察、電話したほうがいいですね」

「そうするね。ごめん。ありがとう」

「いえ……」


 鈴の言葉が脳裏にちらつく。 



 でもひどい場合、目の前をイデアと勘違いしちゃうんだよね



 となりべやのイデアは僕の想像の中にしか存在していなかったのだ。 

 そもそもそこにイデアなどなかった。僕が勝手に作り出した「偽の現実」だったのだ。イデアなど存在するわけがない。

 こんな現実が気づかないだけで周りに満ち満ちているとでもいうのだろうか。

 おぞましい。


 

 雛入さんは足早にアパートを去った。僕はその背を見て、もう二度と彼女がおびえずに済むように、祈った。


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となりべやのイデア 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina

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