中編
***
日曜の昼。
駅前で待っていると、人波の中にセーラー服姿が見えた。
黒いミディアムの髪を二つにしばった
ゆるりと左手を上げると、妹は「おー」を大きく手を振りながら近づいてきた。
「兄ちゃん、久しぶり」
「おう。もう言ってきたのか」
「どこに?」
「いやいや、オーキャン行くっつってたじゃん」
「明日だよそれ。明日の朝間に合わないから今日来たんだよ」
「ああ、そういうこと」
「あとこれ。お母さんがもってけって」
鈴がピンクの手提げを渡してくる。懐かしい、実家の香りがした。
「これ、お前使ってたやつだな」
「うん。次帰ってくるとき返してよね」
中を見てみると、保冷材で冷やされた袋の中に、イチゴのパックが三つ入っていた。
「よく持たせたな。こんな暑いのに」
「ね」
「もう、家行くか?」
「うん」
「腹減ってない?」
「そんなに。だから大丈夫。早く行こうよ。兄ちゃんの部屋見たい」
そう言って鈴は僕の腕をとった。苦笑いまじりにその腕を払い、横並びに道を進んだ。
ガラガラと窓を開けて外の景色を見つめ、鈴はカラカラと笑った。
「意外と静かだね」
「まあ郊外だしな。だから家賃やすいってのもあるんだろうなあ」
「隣の人、男の人なんだ?」
「ん?」
「洗濯物、男物ばっかり」
「ああ、彼氏さんのか」
今日はいい天気だ。
自分のものくらい自分で干してよ。
雛入さんが鷹来さんに眉をひそめる顔が容易に思い浮かぶ。
(じわり……)
そのとき、なにか頭の片隅で動いた気がした。
「あ、何? カップルさんなの? 隣」
「うん」
「へー」
鈴はなぜかにやにやしている。なんなんだこいつ。
「あ、そうだ」
「なに?」
「せっかくだからこのイチゴ、おすそ分けしてくる。ちょっと待ってて」
「リンもいくー」
ここにいろと言っても、どうせ聞かないのだろう。俺は特に拒絶せず、隣部屋のインターフォンを押す。が、反応はない。
「いないの?」
「いや、洗濯干してあったしそんなはずないんだけど」
僕はもう一度インターフォンを押した。しかし、やはり誰も出てこない。
「またあとでだな」と、
ガチャッ。
扉の開く音がした。後ろを見ると、チェーンをかけたまま、鷹来さんがこちらを見ていた。
「何か?」と彼は目を細めて言った。
「あ、すみません。雛入さんは」
「今はいないよ。何か用かな」
そう言う鷹来さんは少し機嫌が悪そうだ。昨日の一件で喧嘩でもしたのだろうか。
「昨日、雛入さんからジャム貰ったんです。そのお礼で、これ渡したくて」
様子を窺いつつ、ナイロン袋に入ったイチゴを差し出すと、彼は「ああ、ありがとう」とそれを受け取った。
「雛入さんによろしく伝えといてください」
会釈をして、踵を返した。背後、ドアのしまる音がする。
一歩下がったところに鈴がいた。
「あれがお隣さん?」
「うん。彼氏さんの方」
「なんか目つき怖かったね」
「あんまいうな……。普段はそうでもないんだけど、喧嘩でもしたのかもな」
「ふうーん」
「ほれ、戻るぞ」
鈴の肩に手を置いて無理やり部屋に押し込む。なにか気になるのだろうか。この子は妙に勘が鋭いところがある。
だからそれを問おうとしたのだが、「まあいいや」と彼女はまたカラっと笑ってベッドに飛びこんだ。スカートがふわりと揺れる。恥も何もない行動に僕は苦笑いした。
制服をハンガーにかけ、私服に着替えた鈴は、テレビの前に寝転がるや否や、寝息を立て始めた。
「猫みたいなやつだな」
あきれ半分に呟く。元気なのはいいことではあるけれど。
鈴は生まれつき身体が弱い。小中学生のころは、運動会などスポーツ系のイベントは、いつも見学だった。
「みんながんばれー!」と誰よりも強く応援していた。
していたけれど、家に帰るといつも泣いていた。
「リンも、みんなと、いっしょに、はしりたかったぁ……」
その頃よりはずいぶんよくなったが、楽観視はできない。棚の上に置いた健診結果を見る。ましてうちには少し変わった遺伝病があるのだから。
姉の舞は、大学を卒業した後も地元で働いている。もしかしたら鈴のことが心配だからなのかもしれない。本人は認めないだろうし、恐くてそんなことは聞けないけれど。
寝室から薄い水色の掛布団を持ってきて被せる。遠くから2時間近く電車に揺られて疲れてしまったのだろう。起こさぬよう、点けたままだったテレビを消し、スマホをとって座った。しばらく見ていなかった画面上、メッセージが表示されている。姉だ。
💬『鈴、大丈夫?』
💬「大丈夫だけど」
💬「直接聞けばいいのに」
💬『あの子、携帯忘れてったのよ』
「えっ」と思わず声をあげてしまう。しかし、たしかにここに来てから鈴が携帯をいじっている姿を見ていない。
💬『なんかあの子胸がざわざわするって言って出てったから心配だったの』
💬「ざわざわ? 何それ」
💬『知らない』
💬『まあ、何もないならいい』
💬『もし鈴に何かあったら許さないからね』
(シスコンめ)
心の中毒づき、
💬「少しは信頼していくれよ」とだけ返した。
午後6時のチャイムが響く。そろそろ夕飯か、と僕は立ち上がった。
午後7時30分。
冷やし中華をすすりながら、僕は鈴に聞いた。
「どこの大学行くの」
まだ寝ぼけ眼の鈴はチュルルッ……と麺を吸って、僕の方を見た。
「なにかいった?」
「大学。どこいくんだって」
「ああ、んっと、C**大とか、O**大とか」
「お前ならもっと上行けんじゃないの?」
こんな鈴だけれど、彼女はテストで学年トップ10に入るくらいには成績がいい。だから、国公立大学も視野に入れられるのではないかと思う。
しかし彼女は「変に期待されるの嫌い」と顔をしかめた。寝起きも相まって機嫌が悪い。鈴は寝起きのときは人が変わる。刺激しない方がいいだろう。
「そうか」
僕は再び箸を持った。
「哲学やりたいんだよねー」
突然鈴が言ったのは、僕が風呂から出てきたときだった。
「なに?」
タオルで髪を吹きながら聞く。鈴はデザート用につくってやったパフェを幸せそうに頬張りながら言う。
「哲学。大学で専攻したいなあって」
「なんでまた」
かごにタオルを抛って向かいに座る。
「倫理の授業でソクラテスとかプラトンとか勉強したんだけど。それがほんっとにおもしろくて!」
「ふうん。ソクラテスって何だっけ。無知の知だっけ」
「そうそう! でもね。リンが興味あるのはプラトンのイデア論!」
きらりと鈴の瞳に輝きが宿った。こういうときの鈴はとまらない。
「イデア? 何それ」
そして、こういうときの彼女の話はいつも以上に面白い。
「イデアっていうのはね。たとえば、【赤】ってなんですかって言われたら、兄ちゃんなんて答える?」
「そりゃ……イチゴの色、とか、止まれの標識の色とか、そんなんだろ」
「そう。でもね、プラトンがいうのはそういうんじゃなくて、【赤そのもの】は何? っていうことなの」
「赤そのもの?」
「イチゴの色も、火の色も、京急もコーラの缶も赤だけど、全部同じじゃないよね? でも、私たちはなんで【赤い】って言えるんだろう。それは、私たちが【赤そのもの】を理解しているから、ってプラトンは言うの。じゃあ、すべての赤いって言われるものに共通する【赤そのもの】って何? って言われたらどうする?」
「そんなの、答えられないだろ。だって赤を取り出すことなんてできないし」
「うんうん」
鈴は満足そうにうなずく。
「ほかにもあるよ。秋田犬とかシベリアンハスキーとか、チワワとかゴールデンレトリバーとか、見た目が全然違ってもあれは犬だってみんな言うよね? それでも全部犬って言えるのは、【犬そのもの】を理解してるから、ってプラトンは言う。じゃあその【犬そのもの】って何? 美人ってよく言うよね。アイドルさんも女優さんも、リンも姉ちゃんも美人だよね」
「え」
「あ?」
「あ、うん」
「うん。でも、それに共通する【美人そのもの】って何だろう。形にはできないよね。しかも美しさの基準って人によっても違うし」
「たしかに」
「そういう、唯一の、【そのもの】。つまり誰から見ても本当のことをイデアっていうの。で、そういうイデアが存在してる世界のことをイデア界って言って、人間には見ることができない。その世界には【赤のイデア】とか【犬のイデア】とか【美人のイデア】、【美のイデア】とか、ありとあらゆるもののイデアがあるんだ」
ふいに、身の回りが空虚になった気がした。本当のものはここにはなく、しかもみ見ることはできない。
「じゃあ、目に見える世界は正しくない、偽物ってことか?」
「うーん。偽物ってより、コピーって感じかな」
「なんか、むなしくなるな」
「そうだね」と鈴は答える。けれど、なぜか嬉しそうだ。
「たぶん人間はイデアを求めて生きてるんじゃないかな。理想の私とか」
「でもそれは目に見えないんだろ?」
「そうだね。だから、たぶんこれがイデアって確信することはできない。でもひどい場合、目の前をイデアと勘違いしちゃうんだよね」
「でも」
僕は疑問を差し込む。
「でも目に見えないのに、なんでそんな世界があるってわかるのかな」
鈴はにやりと笑った。
「やっぱり兄ちゃんとはなすの楽しい!」
長い夜になりそうだった。
話し疲れて25時。鈴は寝入った。
「まったく……」
掛布団をかぶせてやる。
「風邪ひくなよな……。夏風邪、辛いんだから」
「んん」
寝言を呟く妹。僕は微笑した。
けれど、その脳裏。鈴の言葉が焼き付いている。
イデア界。ほんとうのことは、私たちには見えない。
「目の前をイデアと勘違いしちゃうんだよね」
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