となりべやのイデア

蓬葉 yomoginoha

前編

神よ、変えるべきものを変えていく勇気を私たちにお与えください。また、変えてはならないものを守っていく心の落ち着きをお与えください







 大学2年生になったのを機に、僕は埼玉の実家を出て、東京町田のアパートで独り暮らしをはじめた。月6万円の安いアパートではあるが、日当たりもよく、住み心地は悪くない。

 他の住人は、隣の角部屋にはカップルが暮らしていて、もう片方は空きになっている。一階には老夫婦と中年夫妻、そして会社員の男性が暮らしているが、めったにかかわりはない。東海生活っていうのはこんなものなのだろうか。

 寝巻から普段着に着替えて、ニュースを眺めながらトーストを口に運ぶ。

 ストーカーで捕まった男が控訴したちキャスターが伝える。被害女性は断固戦いますと涙ながらに語る。その端に、簡略な天気予報のテロップが映った。

「あ、午後雨……マジか」

 一人呟き、食パンをくわえたまま折り畳み傘をリュックサックにつめこんだ。

 再びテーブルの前に戻ると、気象予報士が地図の横に立って雨雲の進みを開設している。

「ウェルネスは体育館かな」

 食事を終え、7時30分、僕は部屋を出た。




 最寄りの鶴川駅を降りたころには、陽は落ち、街灯に電気がともっていた。熱帯夜の町を、イヤホンを付けて歩く。けれど車や人の喧騒は、その音楽を突き破って入ってくる。

 音量を上げて、うつむくわけでもなく、空を見上げるわけでもなく、ただぼんやりと前だけを見て歩く。

 気づくと町中を抜けて、辺りは静かになっていた。小さな田が右側に見えた。蛙声あせいが気を遣うように小さく聞こえる。僕にはこっちの方が似合ってるなと思いながらイヤホンを外して、それを横目に道を進み、アパートについた。

 他の住民の迷惑にならないように気を付けて階段を上り、ポストの中を確認する。

「健診結果か……」

 その場で封を切り中身を切る。

 担当医:宮科梓月みやしなしづきと、伯母の名前がある。その下に項目が数値やアルファベットとともに並んでいて、最下段に「当家遺伝病による身体異常・不調はみとめられない所見」と、伯母の印鑑とともに添えられていた。

「ふうん……」とどこか他人事に手紙をしまい、鍵をさしこんだとき、隣の部屋の扉が開いた。

「あら、赤城さん。こんばんは」

 グレーのジャージを着た隣人は、人懐っこい笑みを浮かべていった。

「あ、どうも。雛入ひないりさん」

「今、戻ってきたの?」

「ええ、学校から」

「ああ、じゃあちょっと待ってて」

「はい……?」

 言われた通り待っていると、雛入さんは「これ持っていってよ」とナイロン袋を持ってきた。

「夏ミカン。実家から大量に送られてきちゃってさ。私あんまり得意じゃないから、誰かに渡しちゃいたくて」

「ありがとうございます。大好物なんで、嬉しいです」

 僕が言うと、雛入さんは「よかったぁ」と表情を綻ばせた。

 メイクはしていないようだけれど、随分きれいな人だ。同じ長い黒髪でも、暴君のうちの姉とは大違いの上品さがある。

「じゃあ、おやすみなさい」

 手を振る隣人に「おやすみなさい」と頭を下げて、僕も部屋に戻った。



 風呂に入り、コンビニで買った夕食をとり、もらった夏ミカンを食べながらスマホの画面を見ていると、急に表示が変わった。妹からの通達だ。

「鈴? 何だ急に……」

 脳裏に例の病気の健診結果がちらつく。まさとは思うが……。

「もしもし」

『あ、お兄ちゃん。明後日さ、東京行くから。よろしく』

「あ? 何、どういうこと?」

『オープンキャンパスがあるの。んで、どうせ東京行くんだから一日泊まっちゃえって』

「泊まる!? そんな必要あんのかよ」

『ここからだと始発でも始まりの時間に間に合わないんだよ』

「ああそういう……。ならまあ別にいいけど」

『よっしゃ』

「明後日だっけ? ああ、日曜か。わかった」

『持つべきものは家族だよね。ありがと! じゃまたー』

「あ、おい最寄り駅……」

 普通音が響く。まあいいか、きっと誰かが教えてやるだろうし。

 携帯電話の画面を消して卓上に置き、ベッドに寄りかかって天井を見上げる。

 オープンキャンパスなんて久しぶりに聞くワードだ。たった2年前には頻繁に耳にしていたはずなのに。

 鈴も高校2年生。そろそろ進路のことを考え出す時期か。どうやら進学するようではあるが。

 ただ、あいつは頭はいいが虚弱体質なうえに素直すぎるところがあるから、東京に来るとなると心配だ。

「明後日……」

 やはり駅まで迎えに行くべきだろう。一人呟き、目を閉じた。



**

 翌、土曜日の朝。買い出しにでも行こうかと扉を開けると、隣の部屋の前に男の人が立っていた。雛入さんの彼氏さんだ。

鷹来たかぎさん」

「あっ!! ああ、赤城くんか」

 彼はやたらしどろもどろに僕を見た。いつもそうだ。僕は挨拶しているだけなのに。

「おはようございます」

「あ、うん。どうも」

「どうかしたんですか? 雛入さん、中にいないんですか?」

「いや、多分いると思うんだけど。まだ寝てるみたいでさ」

 彼は額に汗をうかべて苦笑する。

「鍵は」

「最悪のタイミングだけどさ。落としちってさ」

「ええ……」

「まあ、しばらく待って無理そうだったら帰ろうかな」

「熱中症とか、気を付けてくださいよ」

「ああ」

「もし入れたら、夏ミカンおいしかったですって雛入さんに伝えといてください」

 すると彼は一瞬きょとんとした表情を浮かべて、「ああ、伝えとくよ」と微笑した。

 この人は物腰の軟らかいところはいいところだが、少し会話に間が空くのが不思議だ。

「じゃあ、失礼しますね」

 僕が言うと、彼は軽く会釈をした。僕も同じく頭を下げて階段を下りた。

 雛入さんの彼氏としてちょっと不釣り合いだなあと思う。見た目はともかく、どことなく男らしくないあの感じが、ちょっと役不足な感じだ。僕が言えたことではないけれど。 

 一度振り返ってみると、鷹来さんは何かするでもなく、まだ部屋の前に立っていた。




 さっさと買い物をして戻るつもりが、たまたま会った友人とカラオケに行くことになってしまったため、戻ってきたのは夜のことだった。

「うう……」

 枯れた喉をおさえながらベッドに倒れ伏し、「だめだ、だめだ」と立ち上がって風呂に入る。

 その浴槽の中でも寝そうになりながらも、何とか風呂場から脱出して居間に戻ろうとしたとき。

 一時代前のインターフォンが鳴った。

 覗き穴で確認すると、何かを持った雛入さんが立っていた。

「どうも」と扉を開けると「あ、赤城さんこんばんは」と柔い笑みを浮かべて彼女は言った。

「夏ミカンどうでした? 口に合いました?」

「ええ。とっても」と正直な感想を告げると昨日のように「よかったあ」と笑みをこぼした。

 この感じだと鷹来さんは伝え忘れたのか。あるいは、結局入れないままだったのかもしれない。この暑さじゃ、そうはもたなかっただろうから。

「それで……」

「実は、こんなの作ってみたの」

 手提げから彼女が出したのは、オレンジ色のつまったビンだった。

「これ、ジャムですか?」

「そうそう。きっとおいしいだろうなって思って。赤城さん喜ぶかもってさ」

「すっごい助かります。俺食パン派なんで」

「市販のよりちょっと酸っぱいかもだけど」

「全然、大丈夫ですよ。いや、本当ありがとうございます」

「こちらこそ」

「あ、そうだ。明日、うちの妹が来るみたいで、もしかしたらちょっとうるさくなっちゃうかもしれないです」

「あら、兄弟いるの?」

「ええ。姉と妹が」

「へえ、いいね。わたし一人っ子だから、憧れちゃうな」

「はあ……。あ、で、なので、うるさかったら言ってください。静かにしますから」

 僕は靴箱の上に、貰ったビンを一度置いて言った。すると、彼女は「ううん、大丈夫よ」と首を横に振った。

「明日、わたしちょっと出かけるの。だから夜はいないんだ」

「あ、そうなんですか」

「久しぶりに会うんでしょ? いいじゃん。気兼ねしないで楽しみなよ」

 そう言って雛入さんは笑った。

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい、これありがとうございます」

 雛入さんは振り返ってにこりと笑った。

 


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