第14話 他の者などいらない
ある日、屋敷でぼんやりとしていると、小暮がふすまの向こうから声をかけてきた。
「若さま、お茶をお持ちしました」
「入れ」
小暮が茶を持って入ってくるなり、伊織を見ると顔をしかめた。
「少しお体がなまっているのではありませんか? 汗を流したら気持ちいいですよ」
文机に置いた茶を一口飲むと、伊織はため息をついた。小暮の云うとおりだと思った。
「そうだな、お前の云うとおりだ」
茶を飲み干して立ち上がる。小暮が目を見張った。
「どちらかへ行かれるのですか?」
「まあ、な」
言葉を濁して玄関へ向かった。
外はまだ明るく、気持ちいい秋風が吹いている。
久しぶりに、小園に会いに行こう。
孫四郎という呪縛から逃れることはできたが、彼は今どこにいるのか、用心は必要だった。彼は今何を思っているだろう。
墓地に着いて見渡すと、曼珠沙華が咲いていた。鮮やかな赤に目を奪われる。花を見つめていると、孫四郎は生きている気がしてきた。
彼はきっと、小園のために生き続けるだろう。もう、ここには戻れないかもしれないが、代わりに自分が小園を守っていこうと思った。
「ここにいたか」
声に振り向くと、辰之助がいた。
あっと、息を呑む。
「久しぶりだ」
そう云うと、小園の墓の前で頭を下げて手を合わせた。
伊織は、黙ってじっとしていた。あの事に触れられたらどうしようと、少し気まずい気持ちになる。
辰之助はくるりと振り向くと、にやりと笑った。
「挨拶しておいた。これからはお前がこの墓を守るのだろう」
「あ、ああ」
「歩こう。ここにいると、何だかいろいろと見られているような気持ちになる」
辰之助はすたすたと前を歩いて行く。伊織は静かに追いかけた。
空が薄暗い。だいぶ、日が短くなってきた。
「なあ、伊織」
「ん?」
「谷村殿に云った話だが」
「えっ」
伊織はどきりとして思わず足を止めた。すると、辰之助は戻って来て伊織の腕を取った。
「俺は言葉にならぬほどうれしかった。まさか、お前が俺のことを幼少の頃から見ていたとは全く知らなかった」
「お、お前……」
伊織はからかわれていると知り、目を吊り上げた。
辰之助が笑う。
「うれしすぎて、胸が震えた」
う、と言葉に詰まる。
息をするのがやっとだった。
「この場で押し倒してお前にいろいろ伝えたいことがあるが、まあ、我慢しよう」
辰之助の口に蓋をすることができたなら。この時、本気で思った。
「伊織」
「……うん?」
「江戸に黙って行ってしまったこと、本当にすまなかった」
改まって謝られる。
「でも、ずっと一緒にいたら、こんなふうにはならなかったかもしれない。俺は江戸に行ってからもお前のことを一日も忘れたことはなかった。会いたくてたまらなかった。お前がいないと駄目なんだと、思い知らされた。ある意味、修行みたいだったぞ」
最後は軽口を云って、苦笑する。伊織は人気がないのを見ると、辰之助を暗い影のある場所へ引っ張った。
激しいくらい心蔵がガンガン音を立てていた。
「ここで……」
「えっ?」
「ここで、俺を抱いてくれてもいい」
向きあって両手で襟を引き寄せると、辰之助が目を丸くした。しかし、肩を揺らして笑いだすと、伊織の胸に頭をくっつけた。
「お前、それをここで云っては駄目だろう」
「なぜだ?」
「なぜって……」
呆れたように云った辰之助が強く抱きしめてきた。
「お前が思っているほど、俺は我慢強い男ではないと云うことだ」
「俺は……」
伊織は魂を込めて云った。
「お前を愛しているから。他の者などいらない」
思い切って伝えると、辰之助がこれ以上ないくらいびっくりしたような顔をしてから何だか泣きそうに笑った。うつむいて何か言葉をこぼした。
伊織はその声が聞こえなくて口元に耳を近づける。
辰之助がゆっくりと顔を上げて今度は聞こえるように云った。
「では、もう俺は我慢しない」
その言葉に伊織が全身で震えた。
了
二人だけの、共有の秘密 春野 セイ @harunosei
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