孤独な虎は幸福に二度死ぬ

ぱんだまる

第1話

 チクチク、ジクジクと痛む背中につらさよりも苛立ちと怒りを覚えながら、夜道を歩いていた。

 規則正しく居並ぶ街灯に蛾がぶつかってはジジ、と焼けた羽音を立てている。


 夏になりきる前の、蒸した熱い空気。俺の一番嫌いな季節。それは俺が生まれた季節であり、俺が十六になった季節だった。


 背中の痛みもあったが、針を刺されるたびに身体を強張らせていたせいで、そんなことを三時間近くも続けていたせいで、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。


 気に食わない。なにもかも。


 それでも俺はあの家に帰らなければならないし、母親の前では何でもない顔をしなければならないし、明日になれば学校に行かなければならない。


 あと、三年。

 この背中の痛みに耐えながら、三年——否、もう二年半ほどか。待てば、すべてが変わる。


 それだけをよすがに、俺は生きていた。


「ねえ」


 細い路地と路地の間に入ろうと足を引きずっていたところで、急に声を掛けられた。

 こんな時間、こんな場所で「俺」に声を掛ける人間なんて、居るはずがない。

 一体誰だ、と振り返ると、その動きに縒れた背中の皮膚が、ジリリと痛んだ。


 月が中天に差し掛かろうという時間に、街灯の光の下。短く刈り込んだ金髪が、黒髪の日本人がただブリーチしただけでは到底出し得ない白金の髪が、ひどく輝いて見えた。

 多分、俺と同年代の男。背は高くもなく低くもなく、中背というやつ。このクソ蒸し暑い時期に長袖のパーカーを肘まで捲って、前はインナーが見えるように開けて、そのせいでずり落ちた肩口からは透けるように白い肌が見えた。


「……なに。俺に、用?」

「うん。背中、血が滲んでるから。痛いかなと思って」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はチッと口の中で小さく舌打ちをした。

 あの適当な彫師め、と怒りの感情が湧く。

 それは、その適当な仕事をする男を紹介してきた親父の部下にも。


「……なんでもねえよ。ちょっと怪我しただけだ」


 街灯に照らし出された金髪の顔は薄っすらと笑っていたが、言葉には心配が滲んでいた。だからそれだけ言ってやって、そのまま小路を入ろうとする。

 なにもない小道を進んだ突き当たりにある「御殿」を知らないやつは、この辺りにはいない。そこに向かおうとする俺に、軽々しく声を掛けるやつもいない。

 だから金髪は「そっか」と言ったきり、それ以上俺に構ってくることはないと思っていた。


 なのに、金髪はよたった動きしか出来ない俺の手首を優しく掴んできた。

 夏前の蒸し暑さなどなかったかのように丁度よくぬくくて、柔らかくて、心地いい掌が、俺の手首をくるむ。


「なんっ……」

「その制服、鳳政高校のだよね。すごく頭いいとこ。でも汚れてる。血が滲んでるから。……それ、洗うの? それとも新しいシャツ、買ってもらうの?」

「……は?」


 金髪は慣れた手付きでプチプチと俺のシャツのボタンを外して、痛みの脂汗と蒸し暑さの汗にまみれた裸身を、あっという間に剥いてしまう。


 ふざけるな、路上でなにしやがる。

 そもそも俺が「誰」かを知ってやってるのか。

 あと二、三歩「御殿」の方に踏み出していたら、確実に監視カメラに捉えられて、中から親父の部下たちが飛び出してくる、そんなギリギリのラインで。


「……痛そう。わぼり、って言うんだよね、こういうの。真っ赤になってるし、所々血が出てるし。これ、今夜寝られるの? 君はうつ伏せ寝派?」


 わぼり。

 和彫。


 十六歳になった俺に、親父が入れることを命じたそれ。

 彫られるのは、今日で三度目。ようやく彫り物の概形が見え始めてきた頃だ。

 だけど痛みも屈辱も、まったく慣れやしなかった。


「……見るな。触るな」

「ごめん。触ったら痛いよね。でもこのままじゃ、汗で膿んじゃいそう。シャワー浴びたり、ちゃんと出来るの?」


 金髪の声に、色はない。ただ淡々と、まるで腹に仕込まれたボタンを押したら同じ台詞を繰り返すぬいぐるみか人形のように、訥々と喋る。


「っ……なんなんだよ、おまえは!」


 苛立ちが最高潮に達した俺は、掴まれていた制服のシャツを金髪の手から奪うように取り返した。夜の薄明かりにも、白いシャツに滲み出た赤黒い液体が点々を作っているのが見えた。

 そうか、俺はこんな背中を衆目に晒しながら電車に乗って、駅で降りて、夜道を歩いて来たのかと、羞恥と怒りを覚える。


「……家の人、それ、治療してくれるの?」

「してくれねえよ。親父がやれって言ったことだ。母親は見て見ぬふり。他に家にいるやつらは、全員親父の言いなりだよ」

「お父さんって、偉いの?」

「……おまえ、この先の『御殿』、知らねえの?」

「知らない。この街に来たの、今日が初めてだから」


 相変わらず訥々と話す金髪の左頬に僅かに青い痣があることに気付いたのは、雲間から月が顔を出した、その時のことだった。


「どっかから逃げてでも来たのかよ」

「うん。やりすぎだ、って言われちゃった」

「なにを。喧嘩か?」


 奪い返したシャツを羽織り直し、ボタンを留めながら尋ねてやると、金髪は相変わらず薄っすらとした笑みを湛えた顔で、短く「援交」と言った。


「……は?」

「だから、援交。援助交際。前いた街の半グレみたいな人たちに捕まりそうになったから、逃げて来た。そしたら駅で君の背中を見かけて、血滲んでるけど大丈夫かなーって思って、ついて来た」

「援交……って、買う方? だよな。男だろ? おまえ」


 俺の問い掛けに、金髪はくすくすと笑いながら「バカだなあ」と言った。


「売る方だよ」


 俺はシャツのボタンを留めるのも忘れて、しばらくポカンと口を開けて目の前の金髪を見つめていた。


 男が、売る方?

 誰を相手に?

 女か、男か、どっちに?


「男の人も女の人も両方だけど、男の人の方がいっぱいお金くれる。だからほぼ男専門」


 俺が頭の中でグルグルと思い巡らせていた問いを読んだように、金髪が言う。


「男同士で……ヤんの……?」

「うん」


 男と男がヤる、と言ったら、口を使うか、——尻を使うしかない。多分。普段排泄にしか使わない穴で性交する人間が、目の前の金髪を含めて少なくともふたり以上はいることが、俺は信じられなかった。


「んだ、それ……気持ち悪くねえのかよ……」

「慣れたら別に。上手い人に当たったら気持ちいいし、嫌いじゃないよ。他に稼ぎ方も知らないしさ」

「稼ぎ方、って」

「親、いないから。君みたいにシャツ汚しても買い直してくれる人も、高いお金払ってわぼりさせてくれる人も、いないから。自分で稼がないといけないんだよ」

「これ、は、——俺がしたくてやってるんじゃねえ」


 背中を指し示しながら、苦い気持ちで言葉を吐く。


 ——十六になったら墨入れろ。俺の跡継ぎになる支度、始めとけ。


 去年の冬、滅多に顔を合わせない親父が俺を呼び出して言ったことだ。


 冗談じゃない、と思った。

 この「御殿」から逃げ出すことだけが俺の人生の目標だった。

 だけど親父に逆らう真似なんて到底出来なくて、俺はその時、親父の言葉に頷くしかなかった。


 墨なんて、後からいつでも消せる。

 問題はそんな些細なことじゃない。


 それこそ血の滲むような努力で入った名門高校で勉強して勉強して勉強して、「御殿」からは到底通えない県外の国公立の大学に受かる。そして親父からはもっとも遠い稼業で生きて行く。お天道様の下を大手を振るって歩けるような人間になる。


 それが俺の、いまの唯一の目標だった。


「そっか。君も大変なんだね。親がいるから幸せってわけじゃないもんね」

「ああ、そうだよ。俺だって、おまえの境遇に哀れみを覚えてやれるほどの余裕なんてねえんだよ」


 吐き捨てるように言うと、金髪は少し黙ったあと、夜露に溶けて消えてしまいそうなほど小さな声で、「僕ら、違うけど似てるね」と言った。


 俺はその言葉を、否定も肯定も出来なかった。

 ただ阿呆のように黙っていると、金髪が突然「ね。今夜、泊めてくれない?」と言った。


「は……? 無理。マジでなに言ってんだおまえ。俺の話聞いてた?」

「いいじゃない。そんな傷付いてたら、どうせ仰向けで寝られないでしょ。僕のこと抱いてたら、背中、擦れなくて済むよ」


 あの丁度よくぬくくて柔らかで心地いい掌が、もう一度俺の手首を掴んでくる。

 そのままクン、と腕を引かれ、——俺は生まれて初めてのキスを、背伸びをした金髪に奪われていた。


 一見薄く見えるくせに、柔らかくて弾力に富んでいて、気持ちいい唇。それが俺の唇に触れて、むにむにと合わされて、気付いた時には口の中に舌が入り込んでいた。


 熱い。

 熱くて、ぬめって、蒸し暑くて、だから全身にどんどん汗が滲んで、背中を流れ落ちるその汗がジクジクとした痛みを呼び起こして、だけど合わせられた唇は、無理矢理食わせられた舌は、途方もなく気持ちよくて——。


「や、めろっ……!」


 俺に絡み付いてくる金髪を突き飛ばしたのは、俺が、俺自身の勃起に気付いてしまったからだ。たったキスひとつしただけで、こんな。


 恥を覚えていると、金髪はどこか儚げで、そして哀れなものを見るような目で、俺を見つめていた。


 そんな目で俺を見るな。

 俺は男に身体を売って生きているような男なんて、軽蔑する。

 そうとしか生きられないと言った金髪を、傷付けてしまう。

 だから、そんな目で俺を見るな。


 ——同類に、するな。


 舌打ちをしながら金髪の手を取って踵を返し、路地を二本引き返したところで「御殿」の方に曲がる。そこには監視カメラと電子キーとセコムで厳重に閉め切られた正門と異なって、前時代的な鍵しか掛けられていない勝手口があった。

 親に知られないように夜遊びに出掛けたり、帰ったりする時に使う、「御殿」の俺だけの秘密の出入口だった。


 勿論、勝手口の鍵など持っていないし、渡されることもない。だから外から入る時は毎回ピッキングをするのだが、今夜は蒸し暑さとこれから自分がしようとしていることへの引け目から指に汗が浮いて、上手くピンを扱えなかった。


「……ヘタクソ」


 そんな俺を傍で見ていた金髪がボソリと言うと、鍵と格闘する俺の横にしゃがみ込んで俺の手からピンを奪った。

 そのままカチャカチャと音を立てて三度ほどピンを捻ると、勝手口の鍵はガチャリと鳴って開いた。


「……そういうのも慣れてんのかよ」

「うん。たまにね。でもおじいちゃんおばあちゃんのタンス預金盗んで生きるの、あんま好きじゃないから。最近はほとんどしてない」


 こいつは本当にどんな生き方をしてるんだ、と思いながら業者の手によって丁寧に整えられた庭草に隠れながらコソコソと「御殿」の横手に回り込み、雨樋に足を掛けて瓦葺きの屋根に乗ると、金髪に手を差し出して同じように屋根の上に引き上げてやった。


 そうしてこういう事態もあるかも知れないと鍵を開けっぱなしにしてあった自室の窓を開け、靴を脱ぐと、そこから中に入った。

 金髪にも同じことをさせる。


 いまし方入って来た窓の鍵と部屋のドアの鍵と、そのふたつを掛けてしまえば、ここはもう密室だ。


「……おまえ、名前、なんて言うの」


 金髪にスースーするボディシートの袋を投げ渡してやりながら尋ねると、彼は短く「かい」と答えた。


「カイ?」

「やり甲斐の甲斐。甲斐国の甲斐」

「へえ。つーか、甲斐国とか知ってんのかよ。甲斐って名前?」

「名字。名前は武文。文武両道の男になれって付けられたらしいけど」


 結局満足に育てられなくて捨てるんだから笑っちゃうよね、と、相変わらず薄ら笑いを浮かべた顔で、パーカーを捲ってインナーを捲り上げて白い肌を拭きながら、カイは言う。


「君はなんて言うの?」

「竹林……調」

「しらべ? 綺麗な名前だね。天下の独虎組の若様なのに」

「母親が元ピアノ教師なんだよ。けど、バブルの頃とかならいざ知らず、『町のピアノの先生』なんかで食ってけるはずもなくて、水商売に落ちて、親父に見初められて俺が出来たって話。……だせえよな、親父もおふくろも」


 話しながら、ふと疑問に思う。

 俺の親父が何者なのか、俺の立場がなんなのか、俺はこいつに話したか? と。


「なあ、おまえ、さ」


 疑問を口にしかけた唇を、また隙を逃さず、というように塞がれる。

 先程と同じように口付けながらシャツの裾をズボンから出されて、新しく取り出したボディシートを持った手が、その中の素肌を優しく這って拭いてくれる。


「背中は拭かないどくよ。メンソールなんか付いたら、痛いでしょ」


 キスの間隙の呼吸と一緒にそんなことを吹き込まれて、俺はまた、股間が重たく疼き始めるのを覚えた。


 カイの手が、俺の手を取る。

 そうしてまるでワルツのステップでも踏むような軽やかさで、窓際の壁に置いてあるベッドの方へといざなわれる。


「……キスしたまま、僕のこと押し倒して」


 ——そしたら背中、痛くないから。


 そう言われて、俺もそうしたかったから、その通りにした。

 

 十六になって間もない、蒸し暑い夜。

 俺とカイはこうして出会い、まったく違う境遇に身を置いているはずの俺たちは瞬く間に惹かれ合うようになり、やがて互いに己と同じ場所に堕ちて来て欲しいと願い始め、傷付け合うようになった。


 ——『調』。


 母親のエゴが詰まり切っているようで大嫌いだった名前も、低いけれど柔らかな声で呼ばれるうちに、いつしかそう悪くないと思えるようになった。


 親父の血だろうか。俺は強欲だから、カイに俺と同じところで生きて欲しかった。陽の光の下を、恥ずかしげもなく堂々と歩けるようになって欲しかった。

 だけどカイはそれを望まなかった。傍目には「まとも」に生きるようになったように見えても、それはただ俺に合わせているだけで、カイはやはりどこかおかしくて、ネジが緩んでいた。

 俺は俺で、そんなカイの締めても締めても緩むネジに怒りを覚えて、いつしかカイを殴るようになっていた。


 もう一緒にはいられないと判断した回数は、数えるのも馬鹿らしいほど。

 それなのに俺はカイを呼び立てるし、カイはふらふらと俺の下へと帰ってくる。


 そんな繰り返しを数え切れないほどして、気付けば三十の歳になっていた。


 俺は背中に掘られた龍虎の彫物を消すことも忘れて、いつの間にか医者になっていた。


 親父は俺が二十四になった歳、大学を卒業する年に卒中で死んだ。跡目は継がないとだけ言い放って、高校を卒業してから一度も足を踏み入れなかった「御殿」を永久に後にした。母親は縋るように泣き付いてきたが、無視した。

 その時カイは俺のそばにいなかったから、俺は独りの時間を、研修医という身分とその忙しさで誤魔化して過ごした。


 カイが何度目かに俺の下に戻ってきた時、親父の跡を継いだと聞かされた。十年近く俺と恋人ごっこをしながら、こいつは親父にも抱かれていたのだと、その時知った。

 なんの感慨も湧かなかった。親父はもういないし、カイがそれでいいならいいんじゃないかと思った。ただ、底抜けに馬鹿なやつだと思った。


 三十の歳になった時、久し振りに俺の済むマンションを訪ねてきて身体を重ねた後、カイがボソリと言った。「独虎組の解散届、出してきた」と。


 俺は短く「そうか」と言った。

 これでもう、なにもない。

 親父の遺した軌跡も、ヤクザのカイも、なにもない。


「じゃあ今日から一緒に住むか?」


 半ば賭けみたいな気持ちで尋ねると、カイは相変わらずの薄い笑いを貼り付けた顔で、「調が俺のこと、殴らないなら」と答えた。

 殴る理由は、なくなっていた。いつの間にか、カイ自身が消し去ってくれていた。


 その日から、俺はカイと暮らし始めた。

 高校時代は「御殿」で隠しながら。大学時代は下宿で大っぴらに。

 一緒に住むことは何度もあったけど、今度の同棲は、終わらずに済むようだった。


 五十七の歳に、俺は病を得た。

 治らない病気だということは、医者である俺自身が一番よくわかっていた。日に日に少しずつ悪化していく俺の顔を見つめるカイの顔に、あの薄笑いはなかった。


「調が俺をまともにしてくれた。調に置いて行かれたくない。調のいない世界でどうやって生きて行ったらいいか、わからない」


 カイは、いまにも泣き出しそうな顔でそう言った。俺と同い年とは思えないほど若々しく整った顔には、悲壮しかなかった。


「俺もそうだよ。俺がカイで、カイが俺だったら、カイのいない世界で生きてけねえよ」


 掛け布団の上に置いたしわがれた掌の上に、まだ三十代ぐらいのものにしか見えない瑞々しい掌が重ねられる。


 丁度よくぬくくて、柔らかで、心地いい手。

 ああ、カイの手だ、と思った。

 俺がこの世で一番、そして唯一好きな、他人の手。

 いや、他人じゃないのかも知れない。


 俺たちはまったく違うけれど、似ているから。

 一緒にいるうちに、どこかから繋がって、気付かないうちに溶け合ってひとつになっていたのかも知れない。


 カイ。カイ、ごめんな。おまえを置いて行くことは、俺の人生でいちばんの罪かも知れない。でも俺はおまえに、真っ当になったおまえに、人生をちゃんと生き切って欲しい。


 ——前に繁華街で見かけた時さ。一瞬で調に惹かれたんだ。だから君のお父さんのこととか、組のこととか、色々調べさせてもらった。調が自分の境遇に苦しんでるの、知ってた。俺はそんな調を助けたくて、あの夜、声を掛けたんだよ。殴られるのは嫌だったけど、調になら許せた。それぐらい好きだった。ずっと、ずっと。


 一緒に暮らし始めてすぐの夜、明かりひとつない部屋で裸で布団にくるまりながら、カイが告白した。


 ——俺は調になにもあげられないから。家族とか、子供とか、まともな地位とか、そういう普通のもの、なにもあげられないから。だから俺が考えられる中で一番調の救けになりそうなこと、した。……調はそれでも俺のこと、許してくれる? 傍に置いてくれる?


 言葉で答える代わりにした深い口付けに、カイは静かに泣いた。その涙が何故だか俺にも移って、その夜は大の男がふたり、声も出さずに泣き続けて、そのまま眠りに落ちた。


 幸せだった、と思う。

 十六の歳、痛みと不幸を引き摺って生きていた俺は、でも、カイと出会ってから、カイと生きるようになってから、確かに幸せだったと思う。


 器用貧乏を絵に描いたようなカイは、ヤクザを辞めた後、探偵と何でも屋を併せたような、よくわからない仕事を続けていた。


「……カイはさ。俺といて、幸せだったか?」

「うん。……幸せだよ」

「そうか。……なあ。後追いみたいなことは、すんなよ。そんなことしたら、あの世でおまえのこと、殴るからな」

「……もう殴らないって、約束してくれたのに」

「ダメだ。おまえは生きるんだよ。……俺の分まで長生きしてくれよ。新しい約束だ」


 枯れた声で言うと、カイはこうべを垂れるように、静かに頷いた。


「……おまえがちゃんと生き切ったらさ。向こうで、また幸せの続き、しような」


 俺たちにはその権利がある。生まれや育ちが不幸な俺たちだけど、それを跳ね除けて幸福に生きることが出来る。ひとりでは無理でも、ふたりなら。


 そう言ってやると、カイは笑った。

 あのなにを考えているのかわからない薄い笑いではなく、ちゃんとした笑みを浮かべて、俺の目を見て、確かに「うん」と頷いた。


 俺が身を沈めているベッドの脇のカーテンが、開け放たれた窓から吹き込む風にふわりと膨らんで、カイが選んだ白いレースのそれは、まるで祝福のように美しく、死にかけの目に映った。



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