夏に始めた物語
羽間慧
夏に始めた物語
店頭の商品を見て、ふと思うときがある。あれは、彼氏が好きなものだったなと。
彼氏は以前、男友達との旅行で可愛いキャラのカフェに入れないと話していた。しりごむ理由は「二十代後半のいい歳した大人が行くのはちょっと」らしい。同じ年の私は「そっかぁ」と返した。心の中では、年齢も性別も関係なく楽しめばいいのにと思いながら。
私は言わなかった。休みが合えば、カフェのある首都圏に旅行へ行かないかと。彼氏が「だから、いつか
私の思考回路は単純だった。「可愛いものが好きな彼氏。その響きだけで、尊い」と。心の中で悶えていながら好きの熱量を直接伝えず、ただにこにこしていた。
もちろん、響き以外にも彼氏を尊いと感じたところは多々あった。
喫茶店やレストランでスイーツを頬張る姿。口の端にかけらを付けたまま食べ続ける姿。食べ終わった後にお腹をさする満足そうな仕草も(若干のおじさんっぽさは否めないが、一周回って良きと感じるのが不思議だ)。バスや電車に乗っているときに、話し声が全て掻き消される低音ボイス。身長差がある彼女と話す際、少しかがんでくれるところ。
見ているだけで幸せだった。話を聞くことも、相槌を打つことも楽しかった。彼氏のそばにいる時間が好きだった。
お互いの趣味が合うオタク同士ということも、居心地をよくさせた。マッチングアプリで一ヶ月ほどやりとりを重ね、告白されたのは初めて会ってから四回目のデート。県をまたぐ距離の恋ということもあり、月に一度会えたらいい方だった。
気の向くときに連絡をする、やりとりは通話ではなくメッセージで。ご飯に行ったときは、誕生日を除いて割り勘。マッチングアプリを使っていたときに、価値観はすり合わせできていた。連絡の頻度については、付き合ってしばらく経ってから大丈夫なのか改めて確認したことがあった。今の距離感が苦になっていないかどうか。
私が学生時代にほかの人と付き合っていたときは連絡頻度が多く、深夜の長電話にも応じていた。そのくせ、自分が精神的に苦しくなっていくのだった。
今度の恋は無理をしない。求めすぎないでいたい。そんな思いと、彼氏の願う付き合い方が一致していたことがありがたかった。
歩くときに私から手を繋ぐことはあっても、彼氏から握られることはなかった。交際経験が少ないと、付き合いたてのころに聞いていた。物足りなさはなく、初心な人だと感じていた。
夏の恋ははかないと言うけれど、もうすぐ出会って一年。その数ヵ月後に付き合って一年記念になる。記念日を祝うことはなかったものの、一年の節目なら何か準備したい。密かにたくらみつつ、お盆明けの休日デートを楽しんだ。
お互いに行きたいと話した展覧会を満喫した後、喫茶店でおしゃべり。日差しが和らぐ夕方に、外の広場の散歩へ誘われた。腹ごなしを兼ねているのだろうと思い、ともに歩いていくと、彼氏は木陰へ向かっていく。何も言わないまま腰を下ろした彼氏の真横に、私も座る。
やけに目線が合わない。
無理に合わせなくても、同じ場所と時間を共有できていたらいい。
遠くで歩く人を眺めていた私は、スカートの上を這う蟻に気づく。そっと払い除けたとき、彼氏が呼びかけて言った。
「別れたい」
将来が見えない。
続けざまに、たどたどしく話す彼氏の話を最後まで聞いた。
心臓の音がうるさいとは思わなかった。驚きのあまり、むしろ胸中は穏やかだった。いかんせん脚の震えが止まらない。初めて振られたときの気持ちを知った。かつて私から振った人は、こういう感覚になっていたのかな。
自分勝手な理由で別れを切り出した過去の恋愛により、一度くらいこっぴどく振られてしまえと思うことがあった。無性に過去の自分を責めたくなる。年月を重ねようが、別れた時期が来れば自己嫌悪に陥る。
マッチングアプリを使ってみようと思ったのは、三十歳を目前にしたからではない。次は自ら好きになった人と恋愛したいという願いを持ったことがきっかけだ。そのまま結婚できたらなおよし。
マッチングアプリでやりとりした人の中で、実際に会ったのは交際に至った一人だけ。やりとりから伝わる人柄に惹かれて会う約束をしてから、待ち合わせのために初めて顔写真を送られた。いまだ逢わざる恋。
付き合い出して気づいた。恋に浮かれていた学生時代のように「大好き」や「愛してる」といった愛情表現を気軽に使えなくなっていると。好きだと言ってくれた人が喜びそうな言葉を選んでしまったころの自分を、封印したいのだと。
相手の下の名前は呼べる。会えて嬉しいと直接言える。上辺だけではない言葉があれば、自信が持てないままでも好きでいさせてもらえるかな。
打ち明けられなかった過去の恋愛に縛られる恋人の横で、彼氏は目を充血させていた。うっすらと涙ぐんでいる。
優しい人だ。ずっと言い出すタイミングを伺い、言葉を選んで話してくれて。
それに引き換え、私はどうか。
適度な距離感だと思って甘えきった私が、彼氏を苦しませている。時間も痛みも、それ以上はかけられない。頭では分かっているのだ。ふさわしい選択肢は見えていても、話の持っていき方が掴めない。いざというときのために、別れを告げられたときのスマートな対応術を得ておくべきだったのだろうか。
彼氏の二の腕に視線を落とすと、蚊が止まりかけていた。払い除ける前に躊躇した。
私が触れていいの。別れる直前にスキンシップを求めた彼女だというイメージが付かないだろうか。
手を伸ばせなかった代わりに、短く伝えた。
「蚊が」
ハッとしながら蚊を叩く姿を見て、ようやく言葉がまとまる。
早く幕を引こう。また蚊に刺されてしまわないうちに。次の出会いに向かわせるために。
その帰り道、私は一生聴かせるつもりのなかったシャルルをヒトカラで解禁する。久しぶりに歌った持ち歌は、気持ちが先行していたらしく、安定感に欠けた。
夏に始めた物語 羽間慧 @hazamakei
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