アルプトラウム

みあ

第1話

  偶に、夢と現実の記憶が混ざってよく分からなくなることがある。睡眠の質が悪いからなのか、私の記憶力の問題なのか。だから少々おかしな記憶は人には話さないようにしている。


 私には梨緒りおという名前の姉がいる。私と違って優しくて頭も良い。両親は比べることはしないが、なんとも言えない劣等感に苛まれてきた。私は姉があまり好きではない。姉の隣にいると自分が酷く劣ったもののように感じる。被害妄想もいいところだ。実際姉は何も悪くないのだから。

 姉妹仲は悪くない、というより私は姉が嫌いなことを表に出さないし、姉は私のことを好きなので姉妹仲は良好である。周りに姉が嫌いだと言ってしまったらいよいよ救いようのない人間だろう。

 そんな私の嫌いな姉が、彼氏を紹介してきた。何でも、両親に紹介する前に私には先に会わせたかったらしい。彼氏は職場の同期らしく、優秀な姉に相応しく人当たりの良い仕事のできそうな雰囲気の男だった。姉たちと馴れ初めなどを聞きながら食事をとっていると、姉の携帯に電話がかかってきた。何でも仕事の関係だそうで、休日なのに大変なものだ、と何となく軽く考えていた。

 姉が席を離れると、彼はこちらを不躾にじろじろ見てきた。人当たりの良さそうな人間だが、私は苦手な部類の人間だった。

「梨緒の話聞いてて地味な子なのかと思ってたけど可愛いね、茉緒まおちゃん」

茉緒は私の名前だ。軽薄な男だな、と思った。

「梨緒さ、仕事熱心なのは良いんだけど休みの日くらいこういうのやめて欲しいんだよね」

恋人の感覚としては至極真っ当だろう。責任感の強い姉であればそれは少々難しい問題なのだろう。

ここで少し、魔が差した。


「梨緒ちゃんって昔から責任感強くて、優しいから頼まれたこと断れないんですよね。でも梨緒ちゃんのそういうところ、私大好きなんです」

「あー、話しは聞いてたけど二人とも仲良いんだね。これは俺が悪者になっちゃうなぁ」

「梨緒ちゃん、私の話してるんですか?恥ずかしいなぁ、私のことなんて言ってたんですか?」


思ってもない中身のない会話が、私と彼の関係性の薄さを表している。そんな薄っぺらい会話をしていると姉が戻って来た。


「あれ?私のいない間に二人とも仲良くなってる!良かった、ちょっと心配してたの。茉緒人見知りだから」

「もう、梨緒ちゃんいつの話してるの?」


私はいつも、姉のことが大好きな妹を演じている。演じているなんて自分に酔っているようだけどそんな可愛らしいものではなく、ただただ己の醜さが周りに知られないように必死なだけだった。

 別れ際に彼と連絡先を交換した。それは提案したのは私ではなく彼だったが、姉もその方がいいだろうと言った。姉には危機感がないと感じながら、でもこちらにとっては好都合だった。それから、最初は一週間に一度程度、段々と頻度が上がり二、三日に一度は連絡が来るようになった。最初は大した話をしなかった。姉とどこへ行って来たとか、姉へのプレゼントの相談とか。頻度を上げていくにつれ姉への愚痴を聞くようになった。

 とうとうメッセージだけでなく実際に会うようになった。姉が仕事で遅くまで帰らない日に呼び出される。夜だけの関係だったのが次第に昼間にも会うようになった。たまに姉とも一緒に会うことで関係性を誤魔化そうとしていたのが透けて見えた。彼は私の方が好きだとか、もう姉と別れようと思っている、とか言う。その言葉にほとんど意味がないことは知っているが、姉のものを少しでも自分が奪っているという背徳感と高揚感が癖になってやめられなかった。


 ある日、彼と婚約したのだと姉から連絡が来た。その次に彼に会ったときにも同じ話をされた。それに対しては特に何の感情も抱かなかった。酒を飲んで酔っており、ぼうっとその話を聞きながら彼の左薬指に嵌った銀色の光沢を眺めていた。彼はそれを外してテーブルの上に置いた。慣れないものを着けているので違和感があるのだと。

「でも茉緒ちゃんとは結婚してからも会いたいな」

「いいよ」と答えたものの、やはり姉の次の存在なのだと段々腹が立ってきた。私と浮気するなら姉と結婚しなきゃいいのに。やはり私は都合のいい存在にしかなれないのだという事実が私の劣等感をさらに増大させた。初めて姉から奪えたものだと思っていたが、最初から奪えてもいなかったのだ。

 ここまでの時間が無駄だったと気づいたことで、ぷつんと何かが切れてしまった。彼が煙草を吸いにベランダに行ったのを一瞥し、何も考えずふと冷蔵庫を開けると飲みかけのワインの瓶が目に入った。瓶を掴み、ベランダを開けると冷気が部屋に舞い込んでくる。あまりの寒さに酔いが覚めそうだった。酔ったが故にこの行動を起こしてわけではない。吸いもしないのによく煙草を吸う彼を見るのをよくやっていたので私がベランダに出ても彼も別に振り向きもしなかった。

 瓶を思い切り振り下ろし、抵抗しようとする彼を割れた瓶で何度か殴ると、彼はベランダから落ちていった。下を覗き込むと暗闇に吸い込まれそうな感覚に陥り、己の身体の代わりに握っていた瓶を落とした。彼の血なのか私の血なのか、そもそもワインなのかわからないべたべたの手を気にすることなくしばらくその暗闇を眺めていた。

 手を洗い流して携帯を見ると、姉から近くにいるからそちらへ寄ってもいいかというメッセージが届いていた。「ごめん今日は無理かも」と返すと、インターホンが鳴った。あまりのタイミングで動悸が止まらない。画面の向こうには姉が映っていた。


「梨緒ちゃん……」

「ごめん、来ちゃった」


エントランスのオートロックを解除する。部屋があるのは4階だが、誰かが来るのがこんなに長く感じるのは初めてだった。インターフォンがもう一度鳴る。恐る恐る開けると、彼女の左薬指には月明かりで照らされたダイヤモンドが輝いている。


「マンションの前まで来ちゃったからいなかったら諦めようと思ったんだけど……誰か来てるの?」

玄関にある明らかに私のものではない靴を見てそう言った。

「あ、えっと……取り敢えず中入る?寒かったでしょ?」


誰もいない部屋に通すとますます姉が不思議がった。


「誰もいないんだ。もうご飯食べちゃった?私食べてないんだよねぇ、なんか食べてもいい?」


そんな姉の声も聞こえていないくらいの動悸と、一体何から問題であるかという思考で頭がいっぱいだった。

 考えているうちによくわからなくなってきて涙が出てきてしまった。


「え!?茉緒、どうしたの?なんかあったの?」


もうこんな私を心配してくる姉への嫌悪感と罪悪感で余計に涙が止まらなかった。


「ねぇ……梨緒ちゃん、私、ベランダから落としちゃった」

「……何を?」


姉に隠れて彼に会っていたこと、彼は姉と結婚するが私とも変わらず会おうとしていたこと、自分のものにならないのが悔しくて彼をベランダから突き落としてしまったこと、ずっと姉のことが大嫌いだったこと。最初から最後まで姉は表情を変えずに聞いていた。驚きも怒りも悲しそうにもしなかった。

 一通り聞いた姉は、私を抱きしめて「ごめんね」と言った。


「今日はもう寝ちゃいなさい。明日休みだし、私も泊まってくから」

「え……でもあの人……」

「大丈夫だから……そうだ、眠れないだろうからココア作ってあげる」


 姉がココアを作っている間、いろんな感情でおかしくなりそうだった。でも私は何一つ被害者面できることはないのだ。

 想像よりずっと疲れていたのか、ココアを飲んだらすぐに眠くなってしまった。まるで子供のようで恥ずかしかったが、これが恐ろしい悪夢だといいと思いながら眠りについた。


 目が覚めると橙の光が部屋を覆っていた。朝焼けかと思ったが、どうにも陽の向きが違うようだった。随分と長く眠ってしまったようだ。


「おはよう。ずいぶんお寝坊さんだね」


あまりにもいつも通りな姉がなんだか怖く感じた。


「……梨緒ちゃん、あの人……どうなったの」

「あの人……?」

「あの、私が昨日ベランダからつき落としちゃった……え?梨緒ちゃん昨日の夜いたよね?」


私だけがおかしなことを言っているようで気味が悪い。


「いたけど、どうしたの?怖い夢でもみた?」

「え?私、あの人浮気してて、でもあの人に腹が立って昨日……」

「あの人ってだあれ?」

「梨緒ちゃんの彼氏でしょ……?」


思い出すだけでもぞっとするのに。どうしてわからないんだろう。


「彼氏?私に彼氏なんていないよ?」

「え…?だって、メッセージの履歴……」


スマホを開いてメッセージ履歴を見ても彼との連絡履歴も、そもそも彼のアカウントさえ存在しなかった。


「やっぱり怖い夢見たんだよ。大丈夫?」

「大丈夫じゃ、ない」


気持ち悪いくらい全てが消えている。でもあの頭を叩き続けた感覚だけは生々しく残っていた。怖くなって急いで外に出る。ベランダの真下には何もなかった。人も、瓶も何かが落ちた形跡も。

 私の記憶と感覚だけが生々しく残っている。姉の言う通り夢だったかもしれない。誰も何も証明するものが残っていないのだから。

 ふと、テーブルの下に銀色に光った物が見えた気がしたが、すぐ影になってしまってどこか分からなくなってしまった。気のせいだったのかもしれない。



 


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