@ame1me


 静寂。

無人のオフィスという場所は、静寂が奇妙にいきいきと存在感を増す。



 カタカタカタ。

寒さに悴む指をさすりながら、キーボードを打つ。たった一人で残業する職員のために、会社は暖房などつけてはくれない。


こくり。冷めてしまったコーヒーを一口啜る。苦い。

本当は甘いカフェオレの方が好きなのだが、深夜2時という時間を考えると、我慢するしかなかった。


こわばる肩をぐるりとまわして、ほっと息をつく。

少しの誇らしさを感じながら、ようやく書き終えたばかりの記事に意気揚々と目を通した。




ーーーーー


「悲劇 キャバクラ火災」


 ーー‥‥一目で生存は絶望的とわかった。地獄の救助現場‥‥

             消防隊員激白ーー



 12月28日 木曜日 午前3時42分、東京都新宿区歌舞伎町2-1エビスビル2階にある、キャバクラ店ヴェルで建物火災が発生した。


 午前3時42分 キャバクラ店ヴェル店員より消防に建物火災の通報があった。消防隊員が到着した時点で2階部分は全焼。

自力で脱出した店員によると、屋内に取り残された店員が多数いるという。

客は全員避難し、無事を確認されたのは、不幸中の幸いと言えよう。


 消防隊員が救助に向かうも、取り残された店員およびアルバイトは全員意識不明の重体。全身に重度の火傷が確認された。

病院に搬送されるも、全員死亡が確認された。


なお遺体の損傷が激しく、現在鑑識にて身元の確認を行なっている。


火災の鎮火は午前7時15分に成功した。


 現場の状況から、放火の可能性が高いと警察より発表された。引き続き捜査を継続していくという。


 消防隊員Dさんによるとーー‥‥


ーーーーー



 静かに目を閉じる。

白い吐息で指を暖めながら、燃え盛る炎を想像する。


あの暖かく、美しい炎。

ぱちぱちと爆ぜる、オレンジ色の火の粉。メラメラと建物を呑み込み、全てを自らの糧にしてどんどん大きくなってゆく。

崩れゆくビルが、オレンジ色の光を夜空に無数に放ち、さぞ美しかっただろうーーー‥



 「あれ、相沢まだいたのか。」


キイイイ。派手な音を立ててドアを開けて、冨樫が入ってきた。


「冨樫さん。」


嬉しくなって声が弾む。


「また橋本課長にイタズラ仕掛けてたんですか?」


橋本課長の、困ったように下がる眉が思い出された。


「いや、まだこれから。

相沢、仕事終わった?ひとつ付き合わないか?」


「いいですねぇ。丁度終わったところなんで、付き合いますよ。」


ニヤリと笑みを浮かべて立ち上がる。


「さっき買ってきたんだ。今度はこれ。」


白いビニール袋から、大量の練り辛子をのぞかせてニヤニヤと笑う。


「うわ。なんですかこれ。蜂蜜にでも混ぜるんですか?」


味を想像して、顔を顰めながら灯理はうげぇと仰け反った。


「よくわかったな。蜂蜜に辛子全部ぶち込む。」


気の毒な橋本課長。

彼はかなりの甘党で、コーヒーに大量の蜂蜜を投入して飲んでいるのは周知のことであった。




 4月、晴れて記者になった。

記者といっても週刊誌で、別に強い正義感だとか、使命感があって目指したわけではない。


要領が悪く、仕事にある種の熱意を持てない灯理は、しばしば残業する。そうして何ヶ月も過ごすと、否応なしに冨樫がイタズラを仕込む現場を何度も目撃することになった。


見学してもいいですか?

3度目の目撃で、とうとう誘惑に負けて、仲間に入れてもらった。

冨樫も悪い気はしないらしく、鷹揚に受け入れてくれた。



 相沢は、やる気がないのとは少し違うんだよな。


何度目かのイタズラの最中、冨樫は言った。

大丈夫。ちゃんと見ている奴には伝わってるから。優しく目を細めて笑った。

なにが大丈夫なのかは、言わなかった。それでもあの瞬間から、冨樫はただの不可解なイタズラをする先輩ではなくなり、仲間として親しみを込めて話せる唯一の先輩になった。


「相沢、ちょっとここ抑えててくれ。」


今回はなんと、蜂蜜のプラスチック容器を固定する大役を仰せつかった。


「いいですよー。」


何時間も冷蔵庫に入っていた蜂蜜は、凍りついてしまった金属みたいだ。容器を抑える指はすぐにキイキイと痛み始める。


びびびび、と大胆に練り辛子を投入してゆく冨樫。

その様は不思議な気持ちよさを呼び起こした。


「なんだか見てて気持ちいいもんですね。」


「あと8本だから道はまだ遠いな。」


厳かな顔。

こんなに馬鹿馬鹿しいことをしているのに。


「相沢は記事でも書いていたのか?」


通算5本目の練り辛子を、びびびと勢いよく投入しながら、冨樫は言う。


「ええ。昨日のキャバクラ放火事件の‥‥。」


「あぁ、橋本課長の‥‥。」


「ええ、あそこです。」


「相沢‥‥顔色悪いぞ。大丈夫か?」


珍しく真面目な顔で、探るように灯理の目を覗きこむ。


「‥‥‥私より、課長ですよ。」


視線は合わさずに呟いた。




 灯理の担当した放火事件の現場は、偶然にも橋本課長が熱を上げている嬢のいる店だった。


本当に気の毒に思う。

熊のような体躯。呆れてしまうほど愚直で、泣きたくなる程に優しい彼。

彼の愚直な愛を一度たりとも受け入れなかった嬢は、もうこの世にいない。



俺って一途だろ?

眉毛を下げて、彼は笑っていた。


ああ、泣いている。涙は流れていなくても、笑っていても。

この世には、見ているだけで胸が痛くなる笑顔もあるのだということを、生まれて初めて知った。


「モモカさん、助からなかったのか?」


「身元確認中だそうですが、おそらくは。」


睫毛を伏せて静かに答えた。

そうか。冨樫は静かに頷き、空になった練り辛子をゴミ箱に放り投げた。




 あの火災は、必要なことだった。


けれどもみんな、彼自身ですら、あの火災で彼が解放されたことに気づいていない。


愛する人から拒絶され続ける苦しみ。

拒絶されるとわかっていても、愛することをやめられないのは、悲劇だ。


でも、大丈夫。

悲劇はオレンジの美しい炎が持ち去ってくれた。




 「橋本課長、この蜂蜜入りコーヒーを飲んだら、ちょっとでも元気になれますよ。きっと。」


心から微笑んだ。

不自然に真っ黄色へと変貌を遂げた蜂蜜をぐりぐり混ぜながら、冨樫は厳かに頷いてくれた。



なあ、相沢。

低い声。突然鋭い眼光に射抜かれる。


「‥‥‥犯人、目星もついていないんだよな?」


カラン。

割り箸が床に滑り落ちる。

何もかも知っているような視線に、一瞬心臓がすうすうした。


なんでもない顔をするのは、簡単なことだ。


「ええ。まだ警察からの発表はないです。」


‥‥そうか。

視線はいつまでも鋭かった。




 それにしても橋本課長。

愛する女を失って、全然平気じゃないくせに。新人の灯理を気遣って、大丈夫だなんて言って笑う。

あんまり優しすぎるから、泣きたくなる。


大丈夫です、課長。

私が何度でもあなたを救います。

少し汗をかきはじめた真っ黄色の蜂蜜容器を、指でそっと撫でた。




 深夜3時。

おもてはしんしんと雪が舞っていた。舗装された道路に、粉砂糖のように可憐に積もる雪が美しい。

あの黒く崩れたビルは、きっとチョコレートケーキみたいに綺麗になっているだろう。



明日からは、彼は拒まれ続けることはない。それは単純に喜ばしいことだった。

安心して自然と笑い声が出た。


ふいに冨樫の優しい眼差しに気がついた。

今日は気分がいい。

灯理も冨樫の目を優しい気持ちで覗きこんであげた。

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