二度死んだ女
魚交
第1話
1.
草壁は東京でも腕利きのクリーナーである。
クリーナーとは、多くの人間がやりたがらないが、早急に処理して貰う必要のある案件を高額な報酬を条件に引き受ける便利屋である。職業柄、大都会の裏側を数多く経験してきた。もっとも多い案件は死体処理である。
今日も、警察からの依頼で現場にやってきていた。
明らかに事件性がなく、かつ引き取り手のない遺体は、すぐにクリーナーへ回収の依頼が回ってくる。処理費用は警察、つまりは税金から充てがわれる。決して安いわけではないが、クリーナーへの依頼は後が絶えない。というのも、1980年の警察白書によれば、刑法犯犯罪認知件数は、一日に都内だけでも5000件を超えており、もはや警察は機能していないに等しい。だから民間に頼れるところは丸投げ同然で仕事を押し付けてくるのだ。そのための予算だけはしっかり確保しているから、クリーナーも文句は言えなかった。慢性的な人員不足の所轄署は、現場検証などまともに行ったためしがない。場合によっては、臨場してくる捜査員が一人だけというのも、もはや日常的な光景になりつつある。
だから、草壁が現場であるマンションの一室に踏み込んだとき、どこにも遺体が見当たらなかったのは、死亡判定のミスで当人は生きていた、という過去に何度か経験した警察の杜撰な現場検証を疑ったのである。警察からの引き継ぎもろくに行われず、伝えられたのは女子大生の自殺というだけで、腐乱死体なのか、発見されて間もないものなのかすら分からなかった。これもいつものことである。だが草壁は、いつも現場の状況が最悪な方に賭けて、上下の感染防止服と、空気清浄器付きの呼吸マスク、肘まである手術用のメディカルグローブを装着する。「最悪を想定して結果マシ」のほうが精神的に楽なのだ。それだけ劣悪な環境に苦労させられてきた。
部屋の中で大袈裟な装備を解きながら、草壁は部屋を見渡した。マンションの2階に位置する部屋で、見晴らしこそ良くないものの、大学生にしては良い物件に住んでいる。部屋もよく整理されていた。
杜撰な警察に聞いても埒があかないだろうと思った草壁は、マンションの管理人室まで降りていった。初老の禿頭の管理人だった。
「第一発見者はあなたですか?」
「ええ、東さんは二限の授業に間に合うように、火曜日は10時ごろエレベーターホールから出てくるんですよ。真面目な子で、一度もサボってるような感じがなくてね〜。その日は結局午後になっても降りこないからおかしいなと思って。インターホン押しても応答がないんでね。」
おかしいのは管理人の方だと草壁は思った。高齢者ならともかく、女子大生がいつもの時間に家を出ないからといって、いちいち管理人からインターホンで確認を受けるとは、プライベートもあったもんじゃない。ただ、結局は管理人の心配が的中したのだから、彼の鋭さを正直に褒めるべきか。しかし、実際に彼女は死んだのではなく、何からの病気かアクシデントで、倒れていただけなのだが。それを警察は死亡と断定したのだ。よほどの深い昏睡状態だったはずである。
「それ以降、本当に誰も東さんの部屋から出てきてませんか?」
草壁は念を押した。
「まさか、死体が生き返ったとでも?」
管理人が縁起の悪い冗談を言って笑った。違和感がった。過剰とはいえ、大学生の生活リズムを把握し、そのリズムが崩れたことにしっかりと気づいて、インターホンで声掛けまで試みるほどの善人には似合わない冗談だと草壁は感じたのだ。
「まだ質問に答えてもらってませんが?」
草壁が再度聞いた。
「降りてきてませんね。」
管理人はやけに自信たっぷりだったが、見過ごした可能性も十分にあると草壁は思った。
「東さんの両親は、時々見えるんですか?」
例え誤判定であっても、警察がそう断定したなら、親族にその旨通知が行ったはずだ。しかし、引き取り手は現れなかった。だから草壁がここにいるのだ。
遺体の引き取り手がない、というのは、それだけ家族関係が複雑であることを示していた。
「両親のことは拒絶してましたよ。訪ねてきても居留守を使うから、管理人さんも何か聞かれたら、口裏合わせてほしいって、何度か頼まれたくらいですから。」
管理人は得意気だった。
「ほう」
草壁は内心納得した。
死んだことにされた哀れな女子大生、東桃子の部屋に戻った草壁は、装備を片付けると、引き上げる準備をした。
意識を取り戻したあと、彼女は自力で外に出たのだ。ならば戻って来るはずだ。また一週間後にでも訪ねればいい。
クリーナーという仕事は、死体を発見、回収できなかった場合、報酬を受け取ることはできない。そして最後まで発見できないと、報告書の作成がややこしくなるのだ。
これまでに数回経験した誤判定の場合は、必要のない出動を強いられたクリーナーに対して警察から特別保証手当が支払われる。要は、警察のミスに関して余計なことは言うなという意味でもあるが、草壁はありがたく頂戴してきた。しかしそのためには、彼女が生きていることを確認してサインをもらわなければならない。
だから今回も、本人を探し出して事情を聞き、それを報告書に付す必要があったのだ。
引き上げ際、部屋の中央の食卓脇に置かれたゴミ箱に目が行った。
ふと覗いてみると、ゴミ箱の中に薬の包装パックが捨てられていた。気になってゴム手袋をした手でつまみ上げると、包装紙には、「黒糖タブレット」と記載されていた。警察の目を掻い潜るためのカモフラージュであることは容易に想像がついた。本当のところは、裏流通の非正規薬品か薬物だろう。
草壁は薬の包装パックを、専用の証拠保全ボックスに収めた。何も鑑識のマネごとをしようというのではない。
いくら人手不足による杜撰な仕事ぶりとはいえ、草壁がこれまで見てきた誤判定のほとんどが、すでに病床の高齢者などが意識不明に陥るといった、救急隊ですら見誤るケースに限られてきた。
今回は20代の女子大生である。薬の包装紙から草壁は、薬物のオーバードーズによる昏睡を疑った。しかも、若者を死体のように昏睡させるほどの強力なドラッグだ。
これはチャンスだと草壁は思った。
草壁が狙っているのは、厚生省の麻取に新しい有用な情報を提供し、省庁とクリーナーの間にパイプを構築することだった。機能麻痺状態の警察に入ってこられても、仕事がしづらくてしょうがない。省庁からの信頼を得れば、警察を蚊帳の外に置いて美味しい仕事を回してもらえる。草壁はそういう男である。だからチャンスなのだ。調べる価値のある案件だ。しかし彼女が本当に特殊なドラッグを摂取したとすれば、簡単には口を割らないかもしれない。ならば自力で裏を取るしかない
草壁はまず、彼女がヤク中という線を考え、ベランダに出ようと窓に手を触れた。鍵が掛かっていなかった。そのまま窓を開けてベランダに出たが、薬物はおろか植木鉢などは一切置かれていなかった。ベランダから下を除くと、意外にも高さを感じない。2階だからそんなものか。雨樋を伝えば若い女性なら簡単に下まで降りられると草壁は思った。
東桃子という女子大生に急に興味が湧いた草壁は、写真アルバムがありそうな本棚や押し入れをくまなく見ていった。
幸い一冊だけ東桃子はアルバムを保管していた。東桃子の顔をまだ把握していない草壁は、女性の顔が写っている写真で、はっきり表情の分かるセルフィーを探した。殆どが風景を撮った写真で、そのうち数枚しか人物の顔が写っているものはなかった。それらの中からさらに女性に限定した写真を選び、数枚に共通して写っている女性を探す。本人の可能性が高いからだ。何枚か本人のセルフィーと思しき写真を抜き取ると、草壁は彼女の部屋をあとにした。
再び管理人室の前に来ると、管理人は誰かと電話で話しているようだった。ガラス窓をノックすると、驚いて顔を上げ、受話器を置いた。
「この中に彼女の写真がありますか?」
草壁は、二人の若い女性が仲良く写っているツーショットのセルフィーを見せながら管理人に聞いた。
「彼女です。」
間髪を入れずに管理人が指さした女性は、鼻筋の通った彫りの深いシャープな顔立ちと、長いストレートの黒髪が美しかった。
「エントランスの監視カメラを確認したいのだが。」
草壁は言った。管理人が渋々、映像をモニターに映し出して事件当日のものを再生した。早送りにして二回繰り返し見たが、写真の女性が外出した記録はなかった。
2.
バー・ネオには、まだ数人の客しか来ていなかった。草壁は、峰を取り出すと口に咥えて、ジッポーで火をつけた。肺の奥まで煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。マスターが黙ってウィスキーのグラスをカウンターに置いた。腕時計を見る。そろそろあいつが来る時間だ。腕時計から顔を上げたちょうどその時、バーのドアが開いて、一人の男が入ってきた。
夜だというのにレイバンのサングラスを掛け、脂肪と筋肉が半々くらいでせめぎ合っているその巨体を左右に揺らしながら、草壁の右隣のカウンター席に腰を下ろした。木のスツールが軋んで、草壁は若干左に退避したが、スツールは見事にスツールとしての仕事を発揮していた。
「久しぶりだなリー。相変わらず、時間には几帳面なんだな。」
草壁は言った。
「珍しいな。お前さんからバーへ呼び出しを食らうなんて。」
リーと呼ばれた男は流暢な日本語を話した。
「中華料理屋のほうが良かったなら考えとくよ。ちょっと調べてもらいたい物があるんだ。」
「聞くだけ聞こう。」
「最近、裏取引されてるらしい薬の中で、黒糖タブレットって呼ばれてるやつを知らないか?」
「取引に使われるクスリの符丁は、その都度、売り手と買い手の間で決められるんだ。名称からの追跡は難しい。」
「なら、この包装紙から微量の成分を検出することはできるんじゃないか?」
草壁は、東桃子の部屋で入手した例の包装紙を男に渡した。
「なんだこれは?新しいドラッグか?」
「説明は省くが、摂取すると死んだみたいに深い昏睡状態になるかもしれない薬だ。成分と、できれば薬自体の特定を頼みたい。」
草壁はリーに言った。
「また変なヤマに頭突っ込んでるんじゃないだろうな?サツでもないのに、よくやるよお前は。」
リーは感心したように草壁を見やりながら、包装紙を透明の証拠保全袋に入れて懐にしまった。
3.
草壁は、愛車のブルーバードの車内から、東桃子のマンションを張っていた。
通りを挟んでエントランスの出入りが見渡せる位置に車を停め、峰とUCCの缶コーヒーでかれこれ2時間粘っていた。
桃子が戻ってきたら連絡してもらうよう、管理人に頼もうかとも考えたが、彼の桃子に対する過剰なお節介に拍車をかけるような気がして、自分で張り込むことにしたのだ。
すでにあたりには夜の帳が降り始めていた。バーやパブのネオンサインが主張を増し、ライトアップされた東京タワーが、首から上だけをビル群からのぞかせていた。
カーラジオのノブを回しながら、切れかけている集中力の落とし所を探る。どのチャンネルも、最近のアイドルが歌うやたらとセンチメンタルな曲を流しているだけで、草壁は溜息混じりに腕時計を見た。あと1時間待って駄目だったら引き上げよう。そう思ったちょうどその時、車の窓がコツコツと乾いた音でノックされた。はっとして視線を送ると、赤いネイルをした指が、ブルーバードのウィンドーを軽く叩いていた。若い女のようだ。彼女に当たらないようにドアをそっと開けて外に出ると、あの写真の女、東桃子がそこに立っていた。
「本人から出向いてくれるなら話は早いな。」
草壁は、吸いかけの峰を路面に捨てると靴で軽く踏んでから、もう一度女の顔を見た。見事な美女だ。ストレートの黒髪がとにかく人目を引く。顔立ちはどこか翳りのある一種の寂しさのような表情をたたえていた。しかし人に媚びるような雰囲気は一切なく、むしろ自ら好んで孤独を貫いてきたがゆえに育まれた、冷たい自立心と他人への無関心がそうさせている、と草壁は感じた。彼女は強い女だ。
「わたし、あんまり監視されるのに慣れてないの。用があるなら直接聞くわ。上がらない?」桃子はマンションを振り返って、草壁を誘った。
「監視されるのに慣れてない割にはよく気付いた。その美貌の虜になった男たちにストーカーまがいのことをされてるなら相談に乗るぜ。」
草壁はさり気なく宣伝文句を挟み込んだ。
クリーナーはストーカーの対処やボディーガードなども引き受ける。警察からの死体処理依頼といった官公庁の仕事を手伝う前までは、復讐代行といった依頼人にとって好ましくない人間の抹消も行ってきたが、流石に今は手を引いている。
「私のあとを付け回す男はみんなブルーバードなんかには乗らないわ。」
桃子から予想しないジャブを受けて、草壁は一瞬たじろいだ。
「俺の出動費用を警察に請求しなきゃならないんだ。そのために君の証言とサインがいるもんでね。」
草壁は桃子に付いてエントランスに入りながら言った。
「あたしの死体を片しに来た清掃さんなのね?死体が無いから、手間取らせちゃったってわけ?」
「そういうこと。俺達クリーナーは死体がなきゃ金にならないんだ。警察が間違った死亡判定をしたなら、君が生きているということを報告書に書かなきゃならん。そうすると経費の保証が出る。」
エレーベーターを降りると、カバンの鍵を片手でまさぐりながら、桃子は言った。
「あなた、清掃さんには見えないけど。」
「清掃もするんだ。」
部屋に入る。二度目の入室だ。
「コーヒー淹れるわ。何か食べる?」
「コーヒーだけで十分だ。ありがとう。」
桃子は、コーヒーカップを二つ運んでくると、ソファーに腰を下ろした。草壁は書類をカバンから取り出すと、机に置いて桃子にペンを渡した。
「なんか強い薬でもやったのか?」
草壁が聞いた。
「そんな強いものだとは思わなかったのよ。ちょっと彼のことでムシャクシャしてて。」
「黒糖タブレットってのはいったいどういう薬だ?」
「便利屋は警察も兼ねるの?」
桃子が皮肉った。
「新しいドラッグの情報はネタになる。しかるべき機関に渡せば、そこから儲かる仕事を回してもらえる。」
「あなたストレートね。残念だけど新しい薬でもなんでもないわ。Z30よ。ちょっと多めに飲んだけど。薬自体は、新宿とかいけば普通に手に入るわ。」
Z30とは、自律神経を極度に緩和させて、リラックス状態を作り出す違法薬物である。若者の間では、かなり浸透している薬物だが、草壁はZ30の摂取が深い昏睡を引き起こした例は一度も聞いたことがなかった。彼女は嘘をついている。しかし、警察への保証請求には十分な証言内容だった。
「今言ったことをここに簡潔に書いて、サインしてくれ。」
草壁は言った。
「これであなたとの逢瀬もおしまい?」
桃子がペンを動かしながら草壁に聞いた。書類の上に垂れる黒いストレートの髪を耳に掛ける仕草がやけに色っぽい。
「仕事の依頼があればそうとも限らない。」
草壁は営業に抜かり無い男だった。
桃子のマンションを出てブルーバードに戻った草壁は、祖師ヶ谷大蔵の事務所に車を走らせた。
巨大ビル群のライトや街中のネオンサイン、行き交う車のライトが、草壁を幻惑へと誘うように、ちらちらと網膜を刺激する。
大都会のこういう雰囲気に草壁はなぜか、安堵を覚えるのだ。
かつて、この仕事に就く前に、草壁は某国の傭兵部隊として、中東の砂漠から南米の密林、中央アジアの山岳地帯を駆け回る生活をしていた。大自然を眼の前に感じる、ほとんど恐怖に近い孤独感と、すべてがどうでもよく感じられるほどの人間の無力感が時々思い出される。
大都会にいれば、孤独は喧騒の中へと埋没し、無力感は刺激の中で力を得たような錯覚に取って代わる。
カーラジオの音楽のせいか、草壁は若干感傷的になっていたらしい。
助手席のダッシュボードにあるラジオボックスの受信ランプが赤く点灯したとき、我に返った。無線をラックから取って耳元に引き寄せる。
「薬の成分が出た。こいついは新しいぞ。」
興奮したリーの声が言った。
「もったいぶらずに言え。」
「硫化水素を使った薬だ。俺も完全に解析できたわけじゃないが、体内のエネルギー調節をいじれるように構成された薬だ。おそらく細胞の酸素消費を一時的に停めて人間を仮死状態にする薬だと思う。それ以上のことはもう少し時間をくれ。」
「仮死状態?」
草壁は予想しない答えに思わず聞き返した。
「とりあえずまた何か分かったら知らせてくれ。」
草壁はそう言って、無線機を戻した。
祖師谷大蔵の草壁の事務所は、外見こそパッとしないものの、ガレージにはブルーバードの他に、オンロードでの尾行に使うホンダのCBR750スーパーエアロ、悪路で対象者を追跡する際に活躍するスズキの78年モデルRM80が並んでいる。
ガレージの地下は機材倉庫になっていて、清掃道具や、探偵業務で使う高機能電子機材、身辺警護で使う護身具などが収納されている。
オフィスは2階にあり、事務所の頭脳とも言える最新式のコンピューターが備わっていた。
特にこれといって他に案件を抱えていない草壁は、人間を仮死状態にするという薬に興味を持った。
4.
目覚まし時計の音で目を覚ました草壁は、キッチンにある電子コーヒーメーカーのスイッチを入れると、顔を洗い服を着替えた。
フィッシャーマンズセーターを頭から被り腕を通す。
トースターにクロワッサンを2つ放おり、タイマーが音を立てるまでの間、温かいコーヒーを啜る。
ルーティン化された朝とはいえ、案件によってはのんびりしてられないこともある。貴重な朝だ。
今日は、東桃子を徹底的に張るつもりだった。
例の薬の取引現場を押さえれば、証拠が手に入る。
ブルーバードは面が割れてるから、スーパーエアロを使うつもりだ。
ガレージに出ると吐く息が白い。冬の二輪尾行がキツいのは嫌と言うほど経験済みだ。しかし他に選択肢はなかった。
シートに跨るとエンジンを掛ける。アクセルを開けながら暖気すると、小気味よい振動が尻に伝わってくる。十分にエンジンを目覚めさせると、草壁はギアを一速に蹴り込み、クラッチを繋いで右手のアクセルグリップを捻った。冷えたアスファルトの路面に飛び出る。景色が後ろに飛び去り、草壁の思考も冴えてくる。
桃子のマンションの前に来ると、草壁はそのまま通り過ぎ、右折した。駅に向かうためにもタクシーを捕まえるためにも、必ずこの通りに出る必要があった。彼女は車を持っていない。
草壁は客待ちのために路駐しているタクシーの最後尾にバイクを停めるとエンジンを切り、スタンドを下ろした。メットを脱ぎ、代わりにサングラスを掛けるとガードレールに座った。桃子が電車に乗ったなら、バイクをここに置いて後を追うつもりだった。交通課にはあとで身分を明かして駄々をこねれば罰金は免れる。そもそも交通課が路駐を一つ一つ丁寧に取り締まるとも思えないが。
桃子は意外にも早く家を出てきた。草壁が路駐している車線とは反対側の歩道を足早に歩く彼女は、対向から流してきたタクシーを止めると乗り込んだ。草壁も素早くイグニッションを入れスタンドを上げると、転回してタクシーの二台後ろに付けた。
タクシーは草壁の予想を裏切り、遠距離を走った。
高井戸ICから、首都高速4号線を中央道方面へ向かう。首都高から中央道へ進むと、タクシーは小淵沢インターで降りた。
国道を別荘が立ち並ぶ丘の方向へと走っていく。
一軒の別荘の前でタクシーは止まった。桃子が別荘に入るのを見届けた草壁は、バイクをそこに停めたまま、歩いて桃子の別荘の通りを、気づかれない安全な距離を取って手前まで進んだ。通りの反対側にも何軒か別荘が立ち並んでいる。そのうち3階建ての背の高い別荘に草壁は目をつけた。
シーズンオフの別荘には誰もいない。
バックパックから、電子妨害装置を取り出す。小型だが、強力なジャミングで機械警備システムを瞬間的に無効化できるのだ。高級別荘では、大手の警備会社が侵入を感知する遠隔通報装置や監視カメラを設置している。
草壁は電子妨害装置を作動させると、ライダースーツのポケットからキーホルダーを取り出した。その中から草壁は特殊な形状をしたキーを選び、手袋をした手でその別荘のドアに差し込んだ。なんの苦労もなくドアが開いた。草壁は邸内に忍び込むと、素早くすべての部屋や押し入れを確認した。誰もいない。3階まで上がると、桃子の別荘を視界に入れられる位置に三脚を立てる。その上に赤外線望遠カメラをマウントする。カーテンなどで視界が遮られても、対象者の熱でその動きが追跡できる仕組みだ。部屋のライトは消灯したままにする。冷え切っているが暖房も入れない。室外機が動いていれば、例え電気がついていなくても、人の存在を疑わせる格好の材料になるからだ。
桃子は、カーテンを下ろし寝室と思しき部屋にいるのが確認できた。
監視を始めてから3時間が経過したとき、赤外線の人型の赤い表示が奇妙な動きをしているのに、草壁は気付いた。床を這っているのか。まるで匍匐前進しているかのような連続した動きがカメラには映し出されていた。
「しまった!」
草壁は反射的に飛び上がると、バックパックからワルサーのP99を取り出した。
マガジンを抜いてスライド引き、チャンバーを確認すると、再度装填してオーバーハンドで初弾を込める。いつでも発射できる状態だ。
草壁はワルサーを構えたまま、別荘を飛び出し、桃子の別荘へと走った。
ドアを引くが施錠されていた。例の特殊キーでドアを開ける。草壁はそのまま寝室まで駆け上がった。
寝室に突入した草壁は思わず舌打ちした。そこには、苦悶の表情で虚空を睨む桃子の変わり果てた姿があった。
ベッドの上には見覚えのある薬の包装紙があった。「黒糖タブレット」と書かれている。草壁は包装紙を取り上げると、素早く別荘を出た。
張り込みのために侵入した別荘から監視機材を運び出し、バイクの停めてある場所まで走る。息が上がっていた。イグニッションスイッチを押し、ギアを蹴る。アクセルグリップをかなり捻ったので、クラッチを繋いだ瞬間に後輪が空転して道端の砂利を巻き上げた。
この状況からすれば、警察は自殺で片付けるだろう。薬の調査などしないに決まっている。せっかく売れる情報を無駄にしたくはなかった。
別荘街を抜けて、なんとか中央道まで戻ったとき、草壁はミラーに映る一台の車が気になった。シルバーメタリックのセリカだ。さっきから一定の間隔を開けて、草壁の後を追けているような感じがしたのだ。草壁は追い越し車線を飛ばしていた。サービスエリアのサインが見えた。ウィンカーを出して一番左まで強引に車線変更した。セリカは間に一台挟んでいるが、草壁に追従してウィンカーを出すのがミラー越しに確認できた。草壁はアクセルを開けてサービスエリアへ入る車線を加速した。サービスエリアへの引き込み車線と本線を分ける分離帯の黄色い点滅ランプが右側に迫ってきた刹那、草壁は車体を鋭くバンクさせると、本線へ無理やりスーパーエアロの巨体を押し込んだ。セリカが追従できずにサービスエリアへと入っていくのを左の視界で捉えた草壁は、しばらく進んで路側帯へバイクを寄せると停車した。前方にはサービスエリアから本線への合流が見えている。まかれたと思って諦めたのか、10分ほど経ってセリカは草壁の前方を本線へ合流してくるのが見えた。草壁は巧みにバイクを操ると、セリカのバックミラーの死角へと滑り込んだ。バイクの左グリップ内側のスイッチを親指で跳ね上げると、さらにその下のスイッチを押した。
これは、草壁が特注したGPS追跡アンテナ発射装置である。バイクに内蔵された射出口から、マグネットタイプのマイクロチップアンテナを対象車両に発射する事ができる。それをオフィスのコンピューターで追跡すれば、車両の持ち主や、現在位置を特定できるのだ。
オフィスに戻った草壁は、早速コンピューターを起動させ、GPSマップを開いた。
セリカの現在位置は渋谷区松濤のコーポ・サンハイツになっている。
しばらく画面を睨んでいたが、動く気配がないことを見ると、ここが追跡者の住所ということか。
草壁はしばらく考えを巡らせたが、ふと思い出したように、椅子に掛けたライダースーツから、透明の小袋を取り出した。例の桃子の別荘から押収した「黒糖タブレット」の包装紙である。
5.
3日後、新宿にある中華料理「慶福」で、熱々の餃子と茅台酒に舌鼓を打っていた草壁は、リーが正面から鬼の形相で迫ってくるのを笑いながら迎えた。リーと中華料理を共にするときは、草壁の取り分が無くなるのだ。どう頑張っても、ありつけるのはほうれん草炒めのニンニクのかけらくらいで、あとはリーの胃袋だ。だから待ち合わせ時間をリーには
40 分遅く伝えてあったのだ。
「ひどいじゃないか。まあいい。解析結果にはなかなか意表を突かれたよ。」
リーは席に座るなり、皿の上に残っていた餃子を3つとも箸で掴んで口の中に放おった。大胆に咀嚼しながら、懐から解析結果の紙を草壁に手渡した。
「いたって単純。致死量のシアン化カリウムだ。仮死状態にするどころか、本当に死なせるやつだ。」
「チャカ、持ってきてるか?」
草壁が急に質問を変えた。リーはニヤッと笑って草壁の茅台酒を一気にあおった。
「当たり前だぜ兄貴」
「例の薬の出どころに心当たりができた。渋谷だ。踏み込むか?」
「餃子3つと茅台酒じゃ割に合わねえ。」
草壁は笑って、ウェイトレスに手を挙げた。
コーポ・サンハイツの前に停めたブルーバードの中で、草壁とリーは月極駐車場のセリカを凝視していた。中には女が一人乗っている。女はタイミングよく帰ってきたばかりだ。ドアが開き、女が降りる。顔や表情はここからでは読み取れない。女がコーポ・サンハイツへと階段を上がっていく。草壁とリーは同時に車を降りた。
家に入ろうとするその瞬間をついて、女の背後に迫った草壁が、女の口をしっかりと掌で塞いだ。叫び声を上げる間を与えられなかった女は、身体を捩って抵抗した。草壁はサバイバルナイフを握ったもう一方の手を後ろから伸ばすと、女の目にうつるようにかざした。視覚的な恐怖は、相手の抵抗を封じるのにもっとも効果がある。リーがトカレフを構えながら先に家の中へ侵入する。仲間の有無を確かめるためだ。仲間が抵抗した場合に備えて、女をいつでも人質に取れる位置に抱え込みながら、草壁はリーの後に続いた。中には誰もいなかった。ドアを閉め、部屋のカーテンがすべて閉ざされていることを確認すると、草壁は女を開放した。
「何の真似?」
女は意外と強気だった。ショートの髪は、綺麗にウェーブがかけてあり、二重まぶたの大きな瞳がリーと草壁を交互に見上げた。
「それはこっちのセリフだな。なぜ俺を追け回したんだ。小淵沢から東京までの帰り、間違いなくお前のセリカが俺を追けてた。」
「自意識過剰なんじゃないの?誰があんたみたいなおっさんの後を追っかけなきゃなんないわけ?」
草壁はリーに目で合図した。リーがトカレフを女のこめかみに当てた。女がギクッとして体を緊張させた。明らかに怯えとわかる表情が見て取れる。
「まず名前を聞こうか。」
草壁が言った。
「東桃子。」
草壁は一瞬虚を突かれた。
「あんたが追っかけ回してた女は桃子じゃない。私が用意した替え玉よ。レイって娘。本名かどうかは知らないわ。」
「なんでそんな手の込んだ細工を?」
「東桃子という人間が死んだ、っていうことを警察に確認させたかったの。そうすればうちの毒親もこれ以上私の生活に介入してこないと思ったからよ。だって娘が死んだって警察から知らされたら、誰だって信じるでしょ。」
草壁は管理人から聞いた桃子と両親の軋轢を思い出していた。あれはよくありがちな親子間の単なる溝ではなかったのだ。何かそれ以上のものだったに違いない。
「どういう親なんだ。君の両親は。」
「あいつは性欲にまみれた獣よ。血の繋がった娘を犯す背徳感が堪らないとか、反吐が出るわ。母親はあいつの残虐性に怯えきって、なんにもできないでただ置物みたいにいつもそばにいるだけ。彼氏の知り合いが、新しいドラッグがあるってたまたま紹介してくれたの。それが例の薬。そのときにあの計画を思いついたのよ。警察がろくに現場検証しないことは知ってたわ。両親は私が死んだって遺体を引き取ろうなんて考えないわ。生きてご奉仕できないわたしに興味なんてないでしょ。」
「クリーナーの介入は計算済みか?」
「引き取り手のない遺体はクリーナーが処理するとは聞いてたわ。仮死状態は長く続くわけじゃないから、当然昏睡してただけってすぐにバレると思った。だからレイに、私になりきってもらったの。アルバムの写真はみんなレイのに差し替えたわ。レイが東桃子だってクリーナーに印象付けるためよ。聞き込みされても良いように、隣人と管理人にはお小遣いを渡したわ。レイには悪いことしたけど、最後は死んでもらった。計画をレイに話したときに、彼女も薬に興味を持ってたのよ。だから私の別荘なら安全に試せるって、同じ包装紙に青酸カリ入れて持たせたわ。あんたが、レイを東桃子だと思い込んだまま彼女の死亡を確認すれば、すべてが丸く収まるはずだったんだけど。」
「レイの身元が割れるとは考えなかったのか?」
「レイは孤児よ。本人ですら親を知らないわ。私もそんな育ち方をしたかった。親に奪われない自由な生き方を。レイはね、それで私の彼にも手を出したのよ。孤独に生きてきたレイにあのバカ、すごい同情してた。翳りのある美女ってモテるみたいね。私なんか翳りを通り越して、すべてが壊されてるのに、みんな私には見向きもしないわ。」
桃子は堰を切ったように打ち明けだした。
「でもクリーナーのあんたには、こんな話どうでもいいんじゃない?私をどうするつもり?警察に突き出す?」
「警察にあんたの身柄を引き渡して、ドラッグを厚生省の麻取に持ってく。そうすれば警察と厚生省からのお礼が期待できる。」
「政治家みたいな生き方、あんたの柄じゃないわよ。」
桃子の皮肉に草壁は苦笑した。
「そうやって警察に協力してるみたいだけど、あんたたちのやり方見てると、クリーナーって裏でも稼いでそうね。殺しとか。」
「昔はやってた。」
「なら同じ穴の狢じゃない。仮死状態を引き起こす薬って、結構使えると思うわ。自殺願望持ってる人も多いけど、今の自分を消したいと思っている人もいるわ。」
「同じに聞こえるが。」
「あんたみたいな仕事してる人は、人の苦しさとか痛みに鈍感なのよ。決別したい過去を背負って生きてる人たちは、今の自分を抹消して、新しく生まれ変わりたいと思ってるものよ。あんたがこの薬の存在を知ってたなら、仕事を頼みたかったわ。あんたならもっと上手くやったでしょ。レイを殺さずに両親から私を助け出してくれてたかもしれない。それか、両親を殺してくれたとか。」
「君みたいな若者を救えるというなら、今からでも遅くない。」
草壁は峰に火をつけながら言った。
「例の薬、彼氏の知り合いから手に入れたって言ったな?連絡先をくれるか?」
草壁は黙って桃子からメモを受け取ると、リーとともに桃子のアパートを出た。
ブルーバードに戻る二人の男の背中が、ひどく疲れて見えた。
二度死んだ女 魚交 @KODO1998
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