拡散お願いの家
黒宮レン
悪い選択の作法
【拡散希望】
息子がいなくなりました。
マンションのエントランスで手を離した一瞬に……
写真の服装は、くまのトレーナー、青い長靴。
どうか見つけるために力を貸してください。
#迷子 #子どもを返して #見かけた人へ
(添付画像:玄関土間のスニーカー、散らばったレインコート、子どもの傘)
通知は口の中に戻ってくる。味の抜けたガムみたいに、噛めば噛むほど苦くなる。
私はスマホを伏せ、レジ列から半歩抜けた。カゴのプラスチックが軋む音、湿った咳、焼き芋機のファンの唸り――現実の音は続いているのに、「拡散希望」の文字だけが現実を薄くする。
投稿主は陽菜(ひな)。同じ棟、二つ下の階。柔軟剤の香りを纏う、Xの“推せるママ”。
私は綾(あや)。三十五歳。スーパーの品出し、空き時間に短編を書く「修行中の主婦」。
――そして、嫌われがちな人間。違和感を拾ってしまう。
最初の違和感は写真の床。
うちの棟の標準は無地のグレーなのに、添付はヘリンボーン。陽菜の家と同じ。過去の投稿「#新居 #お気に入り床材」で見た角のパターンの欠けまで一致する。
二つ目は傘の柄。木の丸い取っ手の小さな欠け。先週、陽菜が「新品なのにもう傷〜!」と嘆いた自撮りと同じ位置。
三つ目は銀の映り込み。ステンレスのボウルの縁に、薄く写った左手。薬指の付け根だけ肌色が一段薄い。最近まで金属に押さえつけられていた輪。
陽菜は離婚した。彼女の指に新しい痕は残らないはず。
私はXのDMを開いた。宛先はK――時相監査屋。
「三つ。床・傘・反射」
すぐ返ってくる。
K「タグ順も古い。『#迷子 #拡散希望 #子どもを返して』より今は『#情報提供お願いします』が先。テンプレの匂い。
ALT空。『急ぎ』を装いつつ無駄に整ってる。
任意捜索は断れる。寝室が死角になりやすい。
猫がいたら、猫を見ろ。生活は秒針や。」
「行く」と打ち、私は家の動線を外れた。
――
玄関のプレートは新しく「防犯強化中」。
インターホンを押すと、覗き穴が微かに暗む。
「綾です。手伝えることがあれば」
チェーンの外れる音。腫れた目。だが声は震えていない。涙の跡もない。
ためらいの後、ドアが開く。玄関のヘリンボーン。同じ欠け。青い長靴は片方だけ靴箱の上。拡散写真と配置が入れ替わっている。
リビングには柔軟剤と甘い香り。ソファの背に白い猫。
テーブルにはノートPC――Xの管理画面。右脇に銀の指輪。
「同じ棟の聖羅(せいら)です」
金髪、マスク。視線はレンズと数字に反応するが、声の温度は低くない。
開けっぱなしの機材バッグ。ライト、三脚、ガムテ、養生、露出計、カフェインガム、領収書の束。
「今日、物撮りの案件もあるから、ついでに……」
聖羅は画面のブライトネスを80で止める癖でスライダーを二度なぞり、続けた。
「滞在時間が落ちてて。導線を設計しとかないとブランドセーフに引っかかる。それと――助成の申請、締切。印紙代が出ないと詰む」
「助成?」
陽菜が小さくうなずく。
「法テラスに相談したけど、面会交流の取り決めが決まらなくて……あっちは『記録がない』って。暴言はあったのに、スマホ、怖くて出せなくて。
前に通報したら“家庭のこと”で流れて、私が過剰反応って扱いになった。
見ている人がいるって示せば抑止になるって、聖羅ちゃんが……」
聖羅は肩をすくめた。
「見える化は盾だよ。『あの家は皆が見てる』って。案件は――嫌な言葉なの分かってる。でも弁護士費用は現実。制度が遅いぶん、速さで埋めるしかない。……私、妹の施設費も半分、払ってる」
正しさと卑しさが、同じ喉を通った。
「警察は?」
「来た。指紋。任意だから寝室は散らかってるって言って入ってもらってない。投稿は消すなって。DMの相手が特定できるかもだって」
PCには「子どもを返してほしければ金を――」の定型句。句読点は「,」「.」。末尾は「宜しくお願い致します。」。
聖羅が言う。「句読点は“怖がらせすぎない強度”に合わせるのがコツ。法の目に触れても落ちない文体にする」
――優しい脅迫犯なんて、いない。けれど、彼女は「法」の速度を信じていない。
私は拡散写真をもう一度見た。青い長靴のゴムに、白い毛が一本、浮いたまま静電付着している。数分の“室内”の空気。
靴箱の隙間の透明テープは、ハサミで真っ直ぐ落とした切り口。手で千切るギザとは違う。
キッチンへ歩きながら、Kに打つ。
「家の中」
K「声は荒げるな。生活の音で押し返せ。
釣るなら匂いと音。リンゴを小さく。猫の反応で空気の流れを読む。
覗きは鏡じゃなくインカメ。光量は端末で稼げ。画面だけ差し込め。」
私はうなずき、リンゴを剥く。一本の赤い糸がテーブルに積もる。
刃先にザラッ――糸屑。透明テープの切り屑みたいな細さ。
皿を二枚。ひとつはテーブル、もうひとつは――床。
寝室のドアの前にリンゴの一切れ。猫が鼻を寄せ、次の瞬間ぴたりと固まる。ヒゲだけが空気を探る。
部屋が静かになる。
かすかな擦過音。布が床を這う、ごく軽いきしみ。
リンゴが、数ミリだけ動いた。
インカメをオン。画面だけ隙間へ。
白飛びが粒に戻り、黒い下縁、埃の小山、青いゴムの縁――そして瞳。
光を一度だけ吸って、小さくこちらを跳ね返した。
私は画面を引き抜き、二人にリンゴを出してから、ナイフの音に紛らせて言う。
「――息子くん、寝室のベッドの下だよね」
皿がわずかに鳴る。陽菜は笑って、首を横に振る。
「いるわけ――」
「いるよ」
私は静かに続ける。
「床の欠け。傘の傷。白い毛の浅い付着。DMの句読点と敬語。サングラスとボウルの反射に出る“新しい指輪痕”。それから、透明テープの切り口。
事件は、ここで作られた」
沈黙が沈みすぎて、音の形が変わる。
陽菜は寝室へ。薄暗い部屋、カーテンの隙間の光が埃を細い雨にする。
膝を床に。ベッドスカートをつまむ。なかなか上げない。指が震え、布だけが小さく踊る。
一分ほどの沈黙が、永く伸びた。
「……怖かった」
布に顔を落としたまま、彼女は言う。
「夜、玄関前で足音。覗いたら誰もいない。ポストに写真――ベビーカー押す私の背中。いつのだか分からない。
元夫に連絡したら『お前が連れて行くからだ』って。録音はない。私の過剰反応になる。
守ろうとすると、独りよがりって言われる。……だから“見ている人がいる”を作りたかった。
やり方を間違えたのは分かってる」
布が上がる。
埃が一枚、呼吸でふるえた。薄い石鹸の匂い。閉じた空間のこもったぬくもり。
暗がりの粒の中で、白い毛が一本だけ立っている。
瞳。青い長靴は片方だけ。くまのトレーナー。脇に小袋のビスケットと小さなイヤーマフ。
聖羅が目を伏せる。
「音は遮っておいた。短時間のつもりだった。安全確認して、すぐ出すはずだった。……間違いだった」
――
リビングに戻ると、聖羅はPCの角度を変える。画面には新しい下書き。
「返してくれてありがとう。犯人へ――」
見出しは怒りの形。文末には経費の心配が滲む。
「炎上耐性のある言葉にしよう。“怒り”はエンゲージが高いけど、離脱率が上がる。……案件なんか要らないって言う人は、法テラスの順番が回るまでの家賃、払ってくれる?」
彼女は第1関節の絆創膏を親指で押さえ、自分の指紋を拭う癖でキーを撫でた。
「数字は正直。ストーリーは設計できる。……でも人間は計算通りにいかない」
私はDMを開く。
「見つけた。安全は確保。動機は混ざってる」
K「通報。児相→110の順。記録は残せ。
彼女らは“悪い人”やなく、“悪い選択”をした人や。免罪はせえへんが、余白は要る。」
通話を終えると、聖羅が私を見た。
「あなた、何様?」
「近所の、通報者」
私は言う。
「それと――書き手。あなたの“盾”が刃にならない書き方を探す」
陽菜が崩れた椅子みたいに座り込む。
私はルーターの電源を見て、触らない。代わりに窓を少しだけ開ける。拡散の風は、今日は入れない。
――
三日後。
陽菜のアカウントは「返ってきました」の投稿で、一度だけ静かになった。謝罪と弁明のあいだの言葉。
近所の掲示板では警察と児相の来訪が話題。広告主は離れ、糾弾の声が残る。
聖羅は鍵にし、「守る手段を間違えました」と短く書いた。
KからDM。
K「“かわいそう”は武器にも盾にもなる。
でも、それで縫える生活はない。
君は告発した。次は縫合や。
被害者を置き去りにする物語と、加害者を無罪にする物語、どっちにも乗らんこと。
生活の順番で書け。」
私は「書く」と返す。
K「手順置いとく。
①経過(数字やなく生活の順)
②手がかり(床/句読点/反射/毛/テープ)
③救急連絡の導線(読者向け)
針は縫うために刺す。見せ物のために刺すな。」
ノートに写す。タイトルを書く――『拡散お願いの家』。
冒頭に三つのズレ。数字の時刻は一つも出さない。生活の細部を秒針にする。
投稿ボタンを押す直前、ドアの前で足音が止まった。
隙間風がふっと強くなる。
覗き穴から見ても誰もいない。
足元に、無地の白いカード。拾う。
文字はない。ただ、透明テープが一本、真横に貼られている。口を塞ぐみたいに。
それが誰からか、断言はできない。
元夫かもしれない。怒ったフォロワーかもしれない。あるいは、この流れを憎んだ誰か。
私はカードを机に置き、ハサミの刃に映る自分の目を見る。血の味がした。
私たちはみんな、悪い人ではないのかもしれない。
でも、誰もが“悪い選択”を、しているのかもしれない。
私は針を構える――縫うために。
拡散お願いの家 黒宮レン @Kuromiya_novel
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