ベンチ

@tanakasatoshi48

母と僕の、最後の1年の話です。

​仕事の失敗だった。


 上司からの叱責と、プロジェクトの遅延。30歳を過ぎて、後輩にまで気を遣われ、自分の居場所が少しずつ失われていくような感覚に苛まれていた。SNSを開けば、大学時代の友人が、新しい家族や家を手に入れたと喜んでいる。それに比べて、俺は。


​ 言い訳の電話を一本入れて、盆休みをずらして帰省した。真夏の日差しは少し和らぎ、夕暮れの空は穏やかなオレンジ色に染まっていた。駅からバスを乗り継ぎ、降りたバス停は、子供の頃と何も変わらない。風が吹くたび、遠くで響く祭囃子の音が混じり、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。


​「おかえり」


​ 家の引き戸を開けると、台所から温かい声がした。


「ただいま」


 そう言った声は、思ったよりも小さく、自分でも驚いた。


 振り返った母の顔は、以前より少し痩せたように見えた。それでも、その目元に刻まれた柔らかな皺は、優しい光を湛えていた。


 テーブルの上には、俺が子供の頃から好きだった、だし巻き卵が乗っていた。箸を手に取り、一切れ口に運ぶ。ほんのり甘く、ふわりと温かい。それは、母の愛情そのものの味がした。


​「タケルが電話をくれるたびにね、あの頃のタケルが話しかけてくれているみたいで、嬉しかったんだ」


 ​夕食後、リビングでテレビを見ていると、母がぽつりとそう言った。


 俺は、返事に詰まった。ここ数年、仕事が忙しいことを理由に、実家への電話は週に一度、数分程度だった。それも、母がかけてくる電話に仕方なく出る、という形ばかりだった。


「うん、でも最近は忙しくて……」


 言い訳がましく返すと、母は何も言わなかった。ただ、優しい眼差しで、俺の顔をじっと見つめているだけだった。


​「ねえ、明日、久しぶりにブランコ乗ってみない?」


​ その夜、母が唐突に言った。


 公園のベンチに腰掛け、俺がブランコを漕いでいるのを見るのが好きだった。子供の頃からの習慣だった。


「いや、いいよ。もういい年だし」


 俺は笑ってそう言ったが、母は少し寂しそうな顔をした。


「そう。分かった」


 その時の母の表情が、今も心に刺さっている。


​ 母は、ただあの日の俺を、ベンチから眺めたかっただけだったのだ。


​ 翌朝、東京へと戻る新幹線の中で、俺は母に電話をかけた。


「また、近いうちに帰るよ」


 そう言うと、母の声は弾んだ。


 それが、母と交わした最後の会話になった。


​ 埃を払った日記帳の、最後のページ。


​ 使い込まれた表紙と違い、そのページだけは真新しいように見えた。それはきっと、母が何度も何度も、言葉を探し、書き直した末にたどり着いたのだろう。そこに綴られた文字は、見慣れた母の筆跡。少し震えたような、それでも確かな力強さを持っていた。


​「あなたがこの日記を見つけてくれたこと、本当にうれしい。」


​ 最初の行から、胸が締めつけられた。次の瞬間、文字がにじんで見えなくなる。違う、インクがにじんだのではない。視界がぼやけているのだと、ようやく気づいた。


​「あなたは、私が思っていたよりもずっと早く、大人になってしまった。寂しいなんて、言ったらダメだよね。だって、私はあなたから、たくさんの幸せをもらったから。」


​ 電話をしない日々。実家に帰らなかった日々。


 それでも母は、その間もずっと、自分を責めるどころか、息子がくれた幸せを数えていたのか。ページをめくる手が震え、その手が、母の体温を求めているかのように感じた。


​「公園のベンチに座って、あなたがブランコに乗っているのを見ていた日。あのとき、私の心は満たされていた。」


​ あの、公園のベンチ。


 かつて落書きしようとして、母に止められた、あのベンチ。


「ここは、おばあちゃんと私がよくお話をした場所だから、大切にしてね」


 と、母は言った。だが、それは母がただ単に、大切にしている場所だったからだけじゃない。母自身が、その場所で満たされた時間を過ごしていたから。その愛おしさを、息子にも伝えたかったからだ。


​「それから、あなたのこれからの人生に、もし辛いことがあったとしても、きっと乗り越えられる。だってあなたは、私の誇りだから。」


​ その言葉は、まるで母の肉声のように心に響いた。


 もう自分を責めなくていいのだと、母がそう言ってくれているようだった。


​「あなたがくれた全ての時間に、心からありがとう。愛してる、私のたったひとりの息子。」


​ 最後の行を読んだ瞬間、涙があふれた。


 日記を胸に抱きしめる。その温かさは、まるで母がそこにいるかのようだった。後悔と感謝の念が、混ざり合いながら心を満たしていく。そして、これまで蓋をしていた深い悲しみが、静かに解き放たれていくのを感じた。


​​ 翌日、俺は実家の庭に出てみた。


 雑草が伸び放題になっている。草をかき分けると、土の湿った匂いがした。小さな花が、風に吹かれて揺れている。日記に、母が書いた言葉を思い出す。


​「庭に植えたあの木が、大きくなるのを、あなたのそばで見たかった」


​ それは、俺が子供の頃、一緒に植えた桜の苗木だった。


 母は、この桜が満開になるのを、俺と見届けることを夢見ていたのだ。


 草むしりを始めると、指先から泥の冷たさが伝わってきた。やがて、土の下から桜の苗木が顔を出す。その細い幹は、まるで母の指のように、柔らかく、温かかった。


 ​その日の夕方、俺は久しぶりに、あの公園のベンチを訪れた。


 ベンチには、知らない子供が落書きをしていた。


「おい、やめなさい」


 気づけば、自然と声が出ていた。


​ 子供は驚いて、手に持ったペンを落とした。


「ごめん、怒鳴るつもりじゃなかったんだ。ただ…」


 言葉が続かない。代わりに、ベンチに手を置いた。そのざらついた感触に、遠い日の記憶が蘇る。


​「このベンチはね、俺の母親にとって、すごく大事な場所だったんだ」


​ そう言うと、子供は素直に頷いた。


「分かった。もうしない」


​ 俺はベンチに腰掛け、空を見上げた。


 一年前、母は俺に「ブランコに乗って」と頼んだ。あのとき、母はただ、このベンチに座って、子供の頃の俺を思い出していたかっただけなのだろう。


 あの日の夕焼けは、今も変わらず、空を茜色に染めている。


​ 故郷の風が、頬を優しく撫でる。もう戻れない時間。それでも、後悔はしない。


 母は、もうこの世界にはいないけれど、確かにここにいる。ベンチに腰掛け、空を見上げている俺の隣に。


 そして、その愛情は、これからもずっと、俺の心の中で生き続けるだろう。


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