夏影に溶ける呼び名
@Nisitsukiamane
呼び名が違うだけの一夏
セミと車の音が、夏の空気を絶え間なく震わせていた。
湿った風が頬を撫でるたび、額に溜まった汗がじわりと流れる。
僕は軒下の影に腰を下ろし、薄い水色のアイスをゆっくりとかじった。
冷たさが舌の奥に広がっても、胸の奥には何の変化も起きない。
——また長い季節が始まる。
その予感は、希望ではなく、ただだらけた日々を繰り返すという諦観だった。
数日後、近所の古びた一軒家に灯りがともった。
「新しい人が越してきたらしい」と母が言う。
聞けば、そこに住むのは僕と同じ年頃の女の子だという。
その名は——葉月。
近所の噂では、少し変わった子らしい。
窓を開け放った午後、たまたま通りかかった時、彼女の声が耳に入った。
「氷菓って、やっぱりいい響きだよね」
それは、僕が「アイス」としか呼ばないものを、わざわざ古風な響きで呼ぶ、不思議な声だった。
出会いは偶然だった。
夕方の散歩道、葉月が道端に立ち止まっていた。
「迷っちゃったみたいで……」と、少し困った顔をする。
僕はそのまま道案内を引き受け、歩きながら話をした。
本や音楽の趣味は驚くほど違っていたのに、食べ物の話だけは盛り上がった。
僕が「アイス」と言えば、彼女は「氷菓」と微笑む。
同じものを指しているのに、呼び方が違うだけで、世界が少し別物になるのが面白かった。
それからの数日間、僕らはほぼ毎日のように顔を合わせた。
遊びというよりは、縁側に座っておしゃべりをしたり、ノートを広げて勉強をしたり。
そんな静かな日々の中、ある日葉月が「川に行かない?」と言った。
川なんて、もう何年も行っていない。少し面倒にも思えたが、なぜか断る気にはならなかった。
川辺は、蝉時雨と水音が交じり合う別世界だった。
石を拾って水切りをすると、陽光を受けた水滴が小さな虹を作っては弾ける。
葉月は裸足になり、浅瀬でぱしゃぱしゃと水を跳ね上げた。
僕も仕方なく応じ、やがて本気の水掛け合戦に変わっていった。
笑い声が、夏空の中で何度も反響した。
その笑顔は、まるで光を含んだ水面のように、網膜に焼き付いた。
帰り道、葉月がふいに言った。
「明日、電車に乗ってショッピングモールに行かない?」
胸の奥で、何かが小さく跳ねる。
「いいよ」と答えながら、気づけば握りこぶしを作っていた。
翌日。
いつもは独りで揺られる電車に、並んで座る誰かがいる。
「電車に乗るの、初めてなの」と葉月は小さく笑った。
「昨日、楽しみすぎて眠れなかったんだ」
その一言が、妙に嬉しかった。僕らの不器用な似通い方を知った気がした。
モールに着くと、彼女は迷うことなく服屋へ向かった。
柔らかな照明の下、ハンガーを滑らせながら生地を確かめる姿は、いつもの葉月とは違い、大人びて見えた。
気がつけば二時間が経ち、時は異様な速さで過ぎていた。
「アイス食べよ」と言えば、「氷菓でしょ」と返る。
僕が「アイス、アイス」と繰り返せば、彼女も負けじと「氷菓、氷菓」と応酬する。
——くだらない。でも、この瞬間が永遠に続けばいいと思った。
帰りの電車で、僕は口をついて出た。
「今度、まつりに行かない?」
「いいよ」
その言葉に、夏の予定が少し輝きを増した。
——まつりの日。
夕焼けの空の下、僕はいつもの服装で待っていた。
現れた葉月は、涼やかな薄青の浴衣をまとい、かすかに髪飾りを揺らしていた。
息が止まる、とはこのことだった。
屋台を見て回るうちに、葉月が言う。
「りんご飴、食べたいな」
「じゃんけんで勝ったらね」
一分後、僕の財布から六百円が消えていたが、飴を頬張る笑顔に代償などなかった。
夜空を割く轟音。
花火がひらき、光の粉が散る。
川面に映る色彩が揺れ、湿った夜風が頬を撫でる。
僕は花火ではなく、その光を映した葉月の瞳を見つめていた。
終盤、花火が少なくなると、瞳の奥がかすかに揺れたように見えた。
帰り道、葉月が小さな声で言う。
「明日、帰るの」
その一言で、胸の奥に鈍い痛みが広がった。
「だから……今夜、一晩中電話してもいい?」
破壊的な可愛さに、言葉もなく頷く。
その夜、馬鹿な話、真面目な話、少し怖い話を交互に繰り返し、気づけば夜が白み始めていた。
だけど別れは容赦なく訪れる。
別れ際、葉月は泣いていた。
僕は笑顔で見送るつもりだったのに、結局こらえきれなかった。
「また会おう」と約束し、走り去る車の軌跡をただ見つめ続けた。
一夏の物語に、静かに句点が打たれた。
セミも車も鳴りを潜めた午後、
僕は空を見上げる。
数日後、葉月から「冬にまた行く」と連絡があった。
嬉しさと、隣の空席の寂しさが、胸の中で混じり合う。
——こんな時は、あれを食べよう。
気分を少しだけ晴らすために。
氷菓。
夏影に溶ける呼び名 @Nisitsukiamane
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます