花絵 ユウキ

 兄ちゃんは最近、中学生になるためのジュケンというやつに夢中で、僕の世話をあまりしなくなった。


 だからこの日は、わざと大泣きしてやった。


 そのおかげで、兄ちゃんと久しぶりに公園に遊びに行くという目的を達成した。


 家から歩いて三分くらい。

 針は動いているけど鐘が壊れた時計塔と、ブランコと、滑り台がある小さな公園に来ていた。


 夏だけど、夕方だから、もう涼しい。

 

 遊ぶのは、三十分だけ、という約束だった。

 時計塔を指さした兄ちゃんに『長い針が六のところになったら帰るからな』と念を押された。


 だけどそんな約束守るつもりはない。

 長い針が六に重なったって、駄々をこねてやる。



「兄ちゃん、なんかうるさいね」


「なにが」


「虫みたいな音」



 僕はブランコに乗って、兄ちゃんに背中を押されながら揺れていた。


 ついさっき夕立が上がったばかりで、目の前の地面の窪みに水溜まりがある。

 僕はブランコに揺られながら、その水溜まりの上を通過する度に、なんとか水面を蹴れないかと足を伸ばしていた。



「虫? あー、ひぐらしだな」


「ふぅん。なんで鳴いてんの」


「兄ちゃんに聞かれてもな。そういう虫だからじゃねーの」



 ジュケン、なんて偉そうなことをしているわりに、ひぐらしとかいう虫がなんで鳴いているのか、答えられないのか。

 兄ちゃんのくせに、僕の質問に答えないなんて。兄ちゃんの分際で。


 鉄臭いチェーンを握る手のひらがじっとり汗ばんでくる。親指をチェーンの輪にひっかけ、爪を押し当てた。


 そのとき僕の背中を押す兄ちゃんの手が強くなった。

 ブランコの勢いが増す。

 水溜まりに足が届きそうで届かないのが、もどかしい。

 


「兄ちゃんってアタマ悪いね」


「は? お前よりは悪くねーし」


「嘘だ。アタマ悪いから、父ちゃんがギャクタイするんだよね」



 僕は知っている。

 兄ちゃんが、父ちゃんに嫌われていることを。だから、兄ちゃんは、父ちゃんに椅子で背中を殴られているし、髪を掴まれて地面に押し付けられている。兄ちゃんが、悪い子だから。


 同じクラスのサトシはうちに来なくなった。ママに、うちには近づいてはいけないと言われたらしい。


 僕は一人ぼっちだった。

 兄ちゃんが出来損ないなせいで、父ちゃんがギャクタイになって、僕はみんなから避けられる。

 兄ちゃんのせいで、僕には友だちがいない。



「……お父さんは……そんなんじゃねーよ。そういう悪口言うな」



 兄ちゃんは、僕の背中を押すのをやめた。

 ブランコが勢いを失っていく。


「三十分経ったぞ」後ろで小さく言った兄ちゃんの声に、時計塔を見上げると、長い針が八に重なっていた。



「針が六になったら帰るんじゃなかったの。自分で言ったのに忘れたんだ、やっぱりアタマ悪いね」


「うるせーよ。帰るぞ」



 僕はブランコから降りて、蹴れなかった水溜まりに向かって大きく飛び跳ねた。

 そして、力の限り、水面を両足で踏みつけた。


 泥が混ざった水が舞う。


 汚い水なのに、夕日に照らされて――泥の宝石みたいに見えた。


 泥水が、僕のズボンや、靴下や、靴を汚くしていく。僕はその汚れを広げるように、何度も、何度も水溜まりを踏みつけた。

 


「おい、なにしてんだよやめろ、汚れるだろ!」


「うるさい! うるさい! 兄ちゃんのくせに! 命令するな! 僕は母ちゃんの顔を知らない! 僕は可哀想なんだ!」



 僕は水溜まりの上にお尻から着地し、地面を殴った。気づいたら、泣いていた。


 兄ちゃんはずるい。

 母ちゃんは、僕が生まれてすぐに死んだ。兄ちゃんは、五歳まで母ちゃんとの思い出がある。僕にはない。だから、兄ちゃんはずるい。僕は可哀想。僕は寂しいんだ。


 寂しいんだ。



「……帰るぞ。今日のウーバー、ハンバーガーがいいんだろ。昨日約束、したもんな」



 兄ちゃんが水溜まりに膝をついた。

 ベージュのズボンはあっという間に泥水を吸い込んでいく。汚くなっていく。僕の気持ちが、兄ちゃんのズボンに広がっていくみたいに。


 兄ちゃんは僕を抱きしめた。そして、僕の背中を、黙ってトントンと叩いていた。

 兄ちゃんの肩に、僕の鼻水がべったりとこびりついた。


 僕は大声で泣いた。

 ひぐらしよりも、なによりも、大きな声で泣いた。

 


 時計塔の長針が、十を指していた。


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花絵 ユウキ @hanae_yuki

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