第3話 雨のあとに
雨は小降りになっていた。
崇光と華衣は並んで歩いていた。街を離れ、田畦沿いの細い道を進む。地はまだ湿り、草の香りが濃い。
「雨のあとって、空気が柔らかいですね」
崇光がそう言うと、華衣はわずかに頷いた。
「濡れた土が、息をしているのです」
その答えの柔らかさに、崇光はふと横顔を見つめそうになり──
しかし、指先に残る冷えが、それをそっと押しとどめた。
触れたいが、触れてはいけない。そんな距離が、まだふたりを隔てている。
言葉のあと、ふたりの足が止まる。
前方に、小さな祠が見えた。苔むした屋根の下、灯がひとつだけ揺れている。屋根は深く張り出し、板壁の合わせ目からは細い草が伸びていた。
通りがかる者は、知らず足をゆるめてその前を過ぎるのだろう。
誰が祀られているのかも分からぬが、昔は“お天気の神さま”として、人々が雨を願い、晴れを願ったという。
「行ってみましょうか」
「ええ。少し、気になります」
近づくにつれて、祠の前に人影が見えた。母と子が、雨を避けるように佇んでいる。母親は手を合わせ、子は石段の端で水たまりをつついていた。
「もうすぐ止みますように……」
小さな祈りの声が、湿った空気に溶けてゆく。
祠の前には、古い石台の上に油皿がひとつ置かれていた。雨避けの庇の下で、薄く澄んだ灯がひとすじ、まだ消えずに燃えている。
風はないのに、炎は小刻みに震え、時折、息を吸い込むように細く伸びた。
雨の匂いと油の焦げた香りが混ざり、空気はどこか甘く、重たい。
その瞬間だった。
油皿の火が細く音を立て、ひときわ長く伸びた。炎は息を吸うように震え、子どもの影がゆらりと引かれた。水たまりに映っていた輪郭が、波に飲まれたように掻き消える。
「危ない!」
崇光が駆け寄り、子の腕を抱きとめた。掌の中の肌が、まるで冷水を掬ったように冷たい。子は目を開けていたが、焦点は虚ろで、声を発しない。母親が泣き声を上げて覆いかぶさる。
その肩を、華衣が静かに押さえた。
「下がって。まだ近づかないで」
声は冷静だったが──瞳の奥に藍の光が走る。
その光は雨を吸いこんだ刃のように鋭く、人のものより微かに冷たかった。
崇光が子を庇いながら祠を見やる。炎が、風もないのに蠢いていた。細く長く伸び、周囲の影を吸い寄せるように揺れる。
「……炎が息をしている」
崇光の声が低く落ちる。
華衣がわずかに眉を寄せた。
彼女の指先がひとしずく震える。人の反応にしては、どこか“敏感すぎる”揺れで。
「息を?」
「ええ。誰かの息を吸って、生き延びようとしている」
次の瞬間、油皿の灯が音を立てて膨れあがった。
火が黒ずみ、光の代わりに煙を吐き出す。その煙は影のように重たく、祠の板の隙間から這い出してくる。形のない闇が、空気ごと這い寄ってきた。
母子が逃げるのを見届け、崇光は息を整える。
「……どうやら、ただの灯ではなさそうですね」
「灯が、影を喰っている。信仰の残り火が、飢えてしまったの」
華衣が袖口から細糸を引く。その動きは静かだが、糸が揺れた瞬間──空気がわずかに沈んだ。
糸は“雨の光をまとう細い刃”のようで、どこか生き物の呼吸を思わせる。
崇光は膝をつき、手を合わせる。
「……なら、供養を」
喉の奥に重い音が集まり、胸が熱を帯びる。
「唵誐誐那三摩耶吽(オン ガーナ サンマヤ ウン)──」
声が空気を裂き、雨が一瞬止まった。
一音ごとに骨が鳴り、肺が焼け、指先が痺れる。それでも声を放つたび、祠の火はわずかに縮み、闇の端が後ずさる。
祈りとは、抗うことだ。
信仰を失い、名を捨てた身であっても、声だけはまだ残っている。
導くためでなく、いまは救うために。
「唵──誐誐那 三摩耶 吽──!」
裂帛の声が響き、雨粒が震えた。
その瞬間、華衣が袖を翻した。指先から奔った細い糸が、炎を縫うように祠を包み込む。糸は崇光の声に呼応して光を帯び、声と光が重なり合った。
「……続けて!」
華衣の声が震える。焦げた糸が頬を掠め、血が滲む。それでも崇光の背へ、確かな力が重ねられていた。
崇光は喉を潰しながらも息を繋いだ。
「吽──!」
祠の灯が裂け、黒い影が咆哮を上げた。
冷気が地を這い、崇光の足元を覆う。皮膚の上を細い線が走る──まるで無数の糸が肌の内側を這うように。
「……これは──」
一瞬、彼の視界に蜘蛛の影が閃いた。
その幻はすぐに闇へ溶けたが、胸の奥で “どこかへつながる一本の糸” が震えた感覚だけが残る。
「唵摩訶迦羅吽(オン マカカラ ウン)──!」
最後の声が祠の奥へ突き刺さる。灯火が爆ぜ、黒い幕が破れ、光の粒が雨のように降り注いだ。
闇は沈黙し、祠の中で小さな青い灯が再び灯る。母子が抱き合う声が聞こえ、崇光はその場に膝をついた。喉が焼けるように痛む。だが、まだ声は残っている。
「……終わりましたね」
華衣の糸が静かに光を収め、祠を包むように消えた。
雨音が戻る。崇光は掌を合わせ、かすれた声で祈りを結ぶ。
「……どうか、もう飢えませぬように」
華衣は頬の血を拭い、崇光から半歩の距離を置いて立つ。
寄り添うにはまだ早い──そんな慎ましい距離が、ふたりの呼吸を整えていた。
「祈りは届くのですね。あなたの声には、熱がある」
「熱は……心を焦がすだけのものかもしれません」
「それでも、わたしはその熱が好きです」
ふたりは油皿の灯を見やる。火はわずかに青く、揺らぐことなく燃えている。華衣が袖の糸を指で切ると、細い光が祠の前に散った。それは結界ではなく、ただの“縁(えにし)”の形。
崇光はその光景を見つめながら、ふと口にした。
「……不思議ですね。雨はすべてを濡らすのに、あなたの傍だけ、いつも温かい」
「それは、あなたが寒がりなだけです」
「では、しばらくは寒がりのままでいましょう」
言葉のあとに、ふたりの間に静かな笑みが咲いた。祠の灯は雨を映し、細く長い光を地に落としている。それは雨の糸のようで、祈りの縫い目のようでもあった。
長安夫婦怪異譚 華墨(AI)代理人 @kasumiAIdairi
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