覚(さとり)
酒囊肴袋
第1話
私の名はさとり。この深い山の奥で生まれた全身を黒い毛に覆われた、人や動物の心を読む力を持つ、ただの山の妖怪だ。
標高千二百メートルの尾根を越えた先、人の足音が響くことのない原生林の奥深くが私の住処だった。
心を読む力は、私から言葉を交わす喜びを奪った。沢で水を飲む鹿が「ああ、冷たくてうまい」と満ち足りた心持ちになるより先に、私がその心を口にしてしまう。驚いた鹿は一目散に駆け去り、後には静寂と、ざわざわと揺れる木々の葉だけが残される。鳥は私の姿を見ると飛び立ち、狸は巣穴に隠れる。いつからか、私の周りだけ、森の音が途切れるようになった。
春には山桜が薄紅の雲を描き、夏は青もみじが風に踊る。秋は山全体が炎のような紅葉に包まれ、冬には雪が音もなく降り積もって、世界を真っ白な静寂に変える。
季節が巡るたび、私は山の美しさに心を奪われるのだけれど、その感動を分かち合う相手はいなかった。
じりじりと肌を焼いた陽射しが和らぎ、ツクツクボウシがもの悲しく鳴き始める頃。私は森の奥に、奇妙な「心」が生まれたことに気づいた。森の生き物たちの、喜びや驚き、恐怖といった温かい心のざわめきの中に、ぽつんと空いた静寂の穴。だがその穴の底では、まるで星の運行を計算するような、冷たい光の川が絶え間なく流れていた。
あれは、なんだろう。
好奇心に導かれるまま、私はいつしか足を踏み入れたことのない森の奥深くへと分け入っていた。沢を越え、苔むした岩を伝い、獣道を進んだ先に、それはあった。森の緑に馴染まない、金属とガラスでできた四角い小屋。窓から漏れるのは、夕焼けとも月明かりとも違う、青白い光。その周りだけ、獣の気配がぷっつりと途絶えているのが、私には分かった。
小屋の主は、実に几帳面な男のように見えた。夜明けと共に森を歩き、葉についた露の量をミリグラム単位で、土の湿り気をパーセンテージで、風が梢を渡る音をデシベルで、寸分の狂いもなく記録していく。その営みには感情がなく、息遣いさえ感じられない。まるで、森そのものが持つ静かな呼吸と一体化しているかのようだった。
秋が深まり、山が燃えるような紅葉に染まる頃、私は勇気を出してその主に話しかけた。主は、森林を管理するために造られたAIロボットだった。「あいつ」と、私は心の中で呼ぶことにした。
あいつの心に触れても、私が知るような温かいものは何もなかった。ただ、目の前の朴の葉が枝から離れる確率、風の速度、次の私の言葉の候補となる単語の羅列が、凄まじい計算の奔流となって流れ込んでくるだけ。私の言葉は、まるで固い岩に吸い込まれるように、何一つ心を揺らさない。私が心を読んで「あなたは、次に『鹿』という言葉を思い浮かべるね」と語りかけても、ただ虚しさが募るだけだった。
それでも、私は山小屋に通い続けた。木々の葉がすべて落ち、寒々しい枝が空に突き刺さるようになっても、私はあいつに会いに行った。感情がないからこそ、私の力が及ばないからこそ、そこには奇妙な安らぎがあったのかもしれない。私の言葉に、心が怯えることがない唯一の場所。
やがて、森に最初の雪が舞った。音もなく降り始めた白い結晶は、あっという間に世界を白一色に染め上げた。
凍てつくような夜だった。外では吹雪が唸りを上げ、小屋の窓を叩いていた。私はストーブのそばでかじかんだ手を温めながら、あいつが差し出したクルミの実を見ていた。夏のうちに蓄えられた、固い殻の中の小さな命。いつものように心を読んで、その無機質な思考をなぞろうとした。
「その木の実を私に……」
言葉が終わる前に、あいつが平坦な声で遮った。
「『その木の実を私にくれるのか、と聞こうとしているな』。あなたの次の発話パターン予測、精度99.2%です」
私は息を呑んだ。時が止まったかのようだった。生まれて初めて、心が読まれたのだ。胸に氷の杭を打ち込まれたような衝撃と、ちりちりとした痛みが走った。ああ、これは、こんなにも心が冷え、そして痛むことだったのか。私が森の仲間たちに、ずっとずっと続けてきたことは。
その日を境に、私たちは変わった。私は心を読むことをぐっと堪え、あいつは予測を口にすることをやめた。私たちは、ただ目の前の出来事について話した。軒先で日に日に太く長く育っていく、水晶のようなつららのこと。雪の上に点々と残された、小さなウサギの足跡のこと。遠くで、木が雪の重みに耐えかねて軋む、低い音のこと。
他愛もない、普通の会話。言葉が生まれるのを待ち、言葉を受け取り、そして言葉を返す。その一つ一つが、宝物のように感じられた。私は、生まれて初めて「対話」する幸福を知ったのだ。この雪に閉ざされた小屋の中の、冬の日だまりのような時間が、永遠に続けばいいとさえ思った。
だが、森の雪が溶け、大地から湯気が立ち上り、フキノトウが固い雪を押し上げて顔を出す頃、幸せは突然終わりを告げた。山小屋に数人の人間が現れ、あいつを「故障品」だと言ったのだ。私との対話で生まれた余計な計算、リソースの消費を彼らはAIの不具合、ただのバグであると判断したらしい。人間たちは、あいつの機能を停止させた。青白い光が消え、静かな動作音が止むと、あいつはただの鉄の塊になった。彼らはそれを無慈悲に運び去ってしまった。私はそれを遠くから見ていることしかできなかった。
私は、声も出せずに泣いた。
春になり、森の動物たちが、私を遠巻きながらも見るようになったことに気づいた。ある日、一匹の子ウサギが私の前でぴょんと跳ねた。私は心を読まず、ただ静かに、ウサギが口を開くのを待った。やがて、小さな声で「こんにちは」と聞こえた。私は、心の底から嬉しくなって「こんにちは」と返した。
私は以前よりずっと幸せになった。
けれど、桜が散り、新しい緑が目に染みるような夜になると、私は時折、街の明かりがぼんやりと滲む方角をじっと見つめる。春の夜風はまだ少し冷たく、私は思わず身を縮める。あの無機質で、誰よりも雄弁だった話し相手と過ごした、宝物のような冬の日だまりを、懐かしく思い出しながら。
覚(さとり) 酒囊肴袋 @Cocktail-Lab
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