あとがき

はじめまして、そして、最後まで読んでくださった皆さまへ。NoNaMeです。

『死神』という物語は、ずっと心の奥で形にならないまま、気配だけで居座っていたものから生まれました。何年も、言葉にすると壊れてしまいそうで、触れられないでいたもの。書き出してみたら、怖かったのは怪異そのものではなく、名を貼ること、名で世界を固定してしまうことでした。


私は怖がりです。けれど、怖がりであることが、誰かの恐怖に寄り添う入口になるなら、と思いました。血や叫びではなく、音の順番や呼吸の拍、紙の冷たさで、恐怖の輪郭に触りたかった。十で吸い、十で吐く——十一は作らない。最初に自分に課したのは、ただそれだけのリズムでした。心拍のような、その拍が、書いていくあいだの私を何度も助けてくれました。


この物語に「今は」という言葉を何度も置いたのは、逃げたかったからではありません。むしろ、向き合うための合図として必要だったからです。熱いまま掴むと、ものは壊れる。冷えてから渡す。白に戻ってから見る。そうやって順番を整えていかないと、私自身が物語のなかで迷子になってしまう気がしたのです。


書いている間、何度も頭の中、机の上の白紙を眺めました。白は怖い。何も書かれていないのに、何でも書けてしまうから。けれど私は、白の手前に立ち続けることを選びました。白→目→境→名。自分にだけ聞こえる小さな順番。名が最後であるように、何度も言い聞かせました。名を急いで呼べば、そこに座って動かなくなる。人も、出来事も、痛みも。私はその固まりに呑まれたくなかったし、読者の皆さんにも呑まれてほしくなかった。


多田という人物を最初に思いついた時、彼の笑みの温度が決まりませんでした。安堵にも、解放にも、罰にも見える笑い。私自身がいちばん怖かったのは、あの笑いに自分の何かが映ってしまうことでした。誰かを許せない自分、誰かに許されたい自分。そこから目をそらさずにいられたのは、読んでくれる誰かがページの向こうにいる、と信じられたからです。


須藤という記者を歩かせながら、「書くこと」は呪いにも祓いにもなると、何度も思いました。書くことで立ち上がる名がある。書くことで冷える現実がある。記事にする、という選択は、ひょっとしたら作者である自分のわがままなのかもしれません。それでも最後に小説という形を選んだのは、文章や物語が冷やせると信じたからです。小説の上の言葉は、すぐには誰にも触れない。少し遅れて届く。遅れて届くものだけが、救える瞬間があるのだと、今は思います。


物語の途中で、私は何度も読者の顔を思い浮かべました。通勤中の車の中で、休憩時間に、夜のベッドサイドで。ページを閉じたあと、部屋の温度がほんの少し下がって、でも心臓の音は変わらずに戻ってくる——そんな読後を目指しました。“わからないが読めた”という感想は、私にとって、いちばん大切な褒め言葉です。名を貼らずに、手触りだけが残る。その余白に、あなた自身の恐れや祈りが滲んでくれたなら、作者としてこれ以上のことはありません。


東京のガラスと、福岡の水。反射と遅れ。どちらも、私のなかでは大切な風景でした。都市は人を増やし、水は人を沈める。増えることと、沈むこと。そのどちらにも、ひそやかな慰めがある。私は、そこに灯りを置きすぎないように、手元の明るさだけで道を探しました。支えてくれたのは、東堂と澪と柴崎、そして、あなたの視線です。


『死神』は、ここでひとまず終わります。終わり方を決めるのは怖い作業でした。けれど、終わりがあるから、物語は冷えます。冷えた先で、残る音がある。——須藤さん、幹也。その二つの呼びかけが、名にならずに往復する距離を、私は大切にしたい。今は、そこに立っています。


読んでくださって、ありがとうございます。

あなたの拍に、この物語の拍が重なっていたなら、それだけで私は救われます。

また、どこかで。


NoNaMe

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死神 @no_na_me

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