47.残響
掲載の朝は、静かだった。
駅売店の平台に置かれた見本誌は、私の視界に反射を返さない。ただの紙の束。だが、胸の内では先に音がした。「カサ」という薄い擦過音が、半拍遅れて骨へ落ちる。
編集部。
東堂はいつもどおり煙草を唇に咥え、火はつけない。視線だけで「止め」の位置を作る。
澪は画面の見出しをもう一度だけ削り、右端の「死神」を一文字ぶん薄めて置き直した。
柴崎は献本用の封筒に宛名を書き、差出人を「編集部」だけにする。「名は貼らない」と独り言みたいに言って、赤ペンを閉じた。
「外の反応は」
東堂が問う。
「朝いちで数本。メールで“わからないが、読めた”という感想がいくつか」
私は言う。「賛否より、温度が低い。冷えている」
「それでいい」
柴崎が頷く。「読者に座らせない」
私は自席に戻り、見本誌を一冊だけ机に置いた。ページをめくらない。めくると名が立ち上がる気がしたからだ。
胸の奥で拍を揃える。十で吸い、十で吐く。十一は作らない。
——須藤さん。
耳の縁でやわらかい呼びかけが立つ。
——幹也。
拍の正確な声が、間を置かず重なる。
返事を作らない。紙の余白に一行、鉛筆で置く。
——掲載/座りなし。
二行目は打たない。
午前が淡く終わり、昼の手前。
編集部の電話が先に鳴り、半拍遅れて受話器が軽くなった。
東堂の声に似た、現実の東堂の声が短く笑う。「売れてるぞ、須藤。売れ方の温度が、いい」
「ありがとうございます」
私は礼を言い、受話器を置いた。笑っていない。鏡は返さない。白は静かだ。
午後、通り雨。
雨脚が小さくなった頃、編集部のドアが控えめに開いて、澪が顔を出した。
「——少し、歩きませんか」
傘を一本。二人で駅前のアーケードを抜ける。ガラスの庇は、いまの私に何も返さない。足もとのタイルは濡れて、半拍遅れて靴底に音を置く。
公園に入る。ベンチは空いていて、雨上がりの匂いだけが残っている。
「掲載、おめでとうございます」
澪は言って、それ以上は言わなかった。
私は頷き、呼吸の拍だけを確かめる。十、十。十一は作らない。
そこへ、風が先に来た。
葉の表面が裏返り、枝が一枚、空気の継ぎ目を越える音。
そして——
「……須藤さん」
やわらかい声が、真正面から落ちてきた。
私は顔を上げない。白を見る。白→目→境→名。名の手前で止める。
「読ませていただきました」
息にひっかかりがある。拍が合わない。
——人の多田だ。
「ありがとう、ございます。僕を名で呼ばない書き方で、今は、助かっています」
胸の内側が、一瞬だけ温かくなる。半拍遅れて、冷えが戻る。
返事は作らない。舌の根でことばを折る。
「——幹也」
別の声が、間を置かず重なる。
拍は正確で、温度がない。
集合のほうだ。
「幹也、返事をするな。順番を失うな」
澪が横で、何も見ない位置に視線を置く。「聞こえています」
私は頷かない。頷かないことで止める。
「須藤さん」
人の声がわずかに笑った。笑いは薄い。座らない。
「——今はね」
それだけで、風が少し変わった。
アーケードの端で、誰かが傘をたたむ音が先にして、半拍遅れて子どもの笑い声が消える。
私は胸の紙へ見えない点を一つ置く。
——ありがとう。今はね。
声にはしない。紙の上だけに置く。
「戻りましょうか」
澪が言う。
「ええ」
私は立ち上がる。座面が濡れていない場所を選んで座っていた。縁を踏まない。
編集部までの道、私たちはほとんど話さなかった。沈黙は膜のように歩調を揃え、半拍遅れて街の音を通した。
夜。
見本誌の在庫状況を確認し、最低限の返信だけ返して、私は早めに帰途についた。
マンションのエレベーターは小さく軋み、階数表示の赤い光が先に目を打つ。扉が開く。
廊下の端、以前、封筒が滑り出たポストの前で足が止まった。
投函物はない。投げ込まれる気配も、ない。
私は鍵を回す。先に手応え、半拍遅れてラッチが外れる音。
部屋は片付いている。
机の上、掲載誌が一冊、表紙を下にして置いてある。反射は返らない。
胸の内側に白紙を置き、椅子に腰を下ろした。
——書くか、黙るか。
東堂の言ったとおりだ。けれど、今夜はどちらでもない。置くだけにする。
照明を落とす。
暗闇は来ない。白の裏が広がる。
——須藤さん。
近すぎず、遠すぎない場所から、やわらかな声。
——幹也。
拍だけの声が、間を置かず重なる。
私は返事を作らない。
代わりに、机上のメモに鉛筆を触れさせ、一行だけ置く。
——見届ける。今は、ここまで。
二行目は打たない。
ペン先は冷え、紙は白い。
窓のガラスは私を返さない。
それでも、世界は薄く続いている。半拍遅れて、脈の音が私へ戻ってくる。
呼吸は十で吸い、十で吐く。十一は作らない。
笑っていない。
名は、座らない。
音だけが、白の裏で残響になった。
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