みどりの夏

酒麹マシン

運搬


『首都行き、25時30分発の列車は間もなく到着いたします』

 冷たく冷え切った薄っぺらいベンチに腰掛け、チカチカと点滅する電灯の、『カチカチ』と乾いた微弱な音と、心臓の鼓動に耳を澄ませる。

 もう何十年以上使っているのかすらもわからない年季ものの革ジャンと薄いスウェット、見せかけだけのダメージジーンズでは耐え難い寒気と、開いただけですべての皮が剥げてしまいそうなひび割れ固くなった手。じゃんけんじゃグーしか出せないなぁ、負けちゃうよなぁ、なんて考える余裕もない。

 列車が到着する。耳をつんざく摩擦音、ドアの閉じる音、冬の海岸線からの強い風を受け、軋み揺れる車体。列車というよりかは、木の箱に車輪を付けただけのようなものだな、と思った。消えかかった白熱灯の行き先表示器はじりじりと音を立て、蛾の戯れているさまをコマドリのように映し出していた。私は、何か生き物の終わりを見つめるような目でそれを見た。


 列車。初めての列車である。


 腰の高さと大体同じくらいの大きさのスーツケースを、木の板に乗っけると車体が大きくゆれ、カックン、と頭の付け根が鳴ったような気がした。重たいドアをこじ開けるようにしてスライドさせると、ところどころ座席の破れたボックス席が何個かあった。

 

 幸い、ほかに人はいなかった。


 私は扉から1番遠いボックスの座席に座った。窓から見える港の景色に視線を移す。闇と白の冷たさに慣れた目を温かく照らすオレンジ色のあかり、揺れる水面。いつもは見慣れているのに、なんだかそれは魅力的に映る。不思議だ。


 ドアが開く。帽子を深く被った老紳士が現れる。

 老紳士はそのままドアのすぐ真横にあるボックス、自分から見て斜め隣のボックスの窓際に座った。いつでも視認できるかと言われたらそうでもない。老紳士の席の向かいの席の背が邪魔で、背の曲がった老紳士はすっぽりと隠れてしまっている。

 自分から見て視認できないということは、相手にとってもそれは同じということ。だから、警戒しなくてもいい。

 あと、ボックス席の足元に大きいスーツケースを置いたので、このボックスに座る者はいない。無理やり座ろうとしてきてもあたしはどかない。このスーツケースに危害を加えられることがあるのならどくけど。まぁそんなことはないだろう。そもそも人はほとんどいないのだから、この時間帯は。


 この電車を選んでよかった。

 

 そう心の中で呟いて、トートバッグを膝の上に置いて腕で抱え込む。


『まもなく、Ⅾ駅発、首都行夜行列車●、発車いたします。閉じるドアにご注意ください…』

 

 ガシャン、とドアが閉まる音の何秒後かに列車は発車した。列車の窓から眺める景色はまさに闇に落ちていた。錆びた団地、貧相な港町、商店街の輪郭。そして、地平線のない海。いつも見ている町が、少し高台の位置から見るとこんなにも味わいのあるものだったなんて。思いもしなかった。また、案外これに感動している自分にも静かに驚愕していた。なんだか暖かかいような気持ちになった。30分ほど走ると、街並みは完全に消えた。草原や田畑の中を滑っていく。列車内の電灯に照らされてようやくそれがわかるほどに、暗かった。あぜ道は本当に見分けがつかない。線路沿いにある街灯は大体消えかかったりおぼろげな光を発していた。列車は暗闇の中を走るような形になっていた。この闇にのまれたような空間を、ぶち壊すような勢いで流れる摩擦音とともに走っていく。やがて長いトンネルに差し掛かり、闇の中の闇を反響する摩擦音に思わず目も積むってしまうほどだった。耳をふさぎながら、ふと窓を見る。少しトンネル内でカーブしていた時だった。窓に映るのは当然車内の景色のみ。そこで見たのだ。あの老紳士を。

 

 あいつ、窓越しに私を見ている!

 

 目が合ってしまった。奴の目に感情は無かった。いや、冷静に観察しているのかもしれない、奴はいったい何を目的で見ている?

 思えば奇妙だった、この列車に乗るとき、私以外の乗客は合わせて3人ほど、そしてこの車両は6両編成だ。あの老紳士は一体なぜ私と同じ両を選んだのだろう。いや、それは私の勘違いで、もしかするとほかにもいるのか?それはない。この時間帯に駅へよりつく身なりのちゃんとした人間なんてそうそういないはずなんだ。これはこの土地に住んでわかったことでもあり、ちゃんと調べたから確かなんだ。 

 まさか、あの老紳士、この「秘密」を知っているというのか?

 

 私はスーツケースを見ようと思ったが、かえってこれでこのスーツケースに何かあるとは思わせていけないと咄嗟に考えた。そして見た目はさながら窓の景色を見続けているように思わせるため、窓枠に頬杖をついた。


 ばれたら終わりなんだ。これは、あたしにしかできない使命。

 母さんのために、何としてでも隠さなくてはならない!

 

 この、母さんの遺体の入ったスーツケースと、一千万の入ったトートバッグ、そして母さん夢は絶対に守り抜いて見せる!


 

 ――――――――――――――――――――


 今から13年前に母のもとに生まれてからは、ずっとこの港町で母とともに暮らしてきた。昔は栄えていたみたいだけど、今から数十年前の政策でいろいろあってから首都に多くの人口が流出して、以来それ以外の都市や自治体はみんな緩やかに死につつある。そんな中、母さんは私を妊娠してからこの町へ引っ越してきたらしい。いまだにそんな母さんを不気味に感じ、悪評を口にする近所の人々は多い。


 また、あの人は日ごろから殺人を繰り返していた。


 毎晩母さんは血なまぐさい香りをまとって帰ってきた。幼かったころ、私はその匂いの正体について知ることはなかった。「魚屋が遅くまでやっててよかった」と、明かりのともらぬ薄暗い玄関でパンプスを脱ぎながら、そうこぼしているのをよく聞いていた。ここでいう「魚屋」とは、当時通っていた幼稚園の隣にある魚屋のことであるが、ただ当時、幼心にそこの前を通った時とは違う、どす黒く吸ってはならないような空気をはらんだにおいがした。だが小さかった私は素直に母さんの言うことを信じた。今思い返せばそれは母さんの善意だったと思う。平然と人を殺しておきながらも、あたしには絶対にそれをさせないという気持ちだったのだろう。


 私が母の殺人に初めて気が付いたのは、小学二年生のころ。元来積極的に他人と会話を持つ性格でないあたしは、それが億劫で仕方なかったゆえ周りになじめず、いつも一人でいたところをいじめっ子の標的とされてしまっていた。だから少しでもみなと合わせ、目立たぬようにしようと、みなと同じようになろうとした。


 運動会が近づくと、持ち物のアナウンスがされた。その項目の中にティッシュがあった。

 

 チャンスだと思った。

 

 女子の間ではにおい付きのキャラクターティッシュが流行っていたので、それを用意して自分も同じような子供だとクラスメイト達にアピールし、安心させればよいのだとひらめいた。そうすれば、ちぎられた給食袋、上履きをふくための雑巾にされたハンカチ、首ひもを引きちぎられた校帽らの悲しみは自分の中では無かったことになる。あたしは救われるんだ、と確信した。

 いじめのことを隠してそれを母にねだった。

 「お母さん、あたしね、ぴりきゅあのティッシュほしいの。」すると、返事が返ってきた。


「あなたはそうやって、『みんな』と一緒になる事にたいして、本当に価値を感じているのかしら?」


 図星だった。突如、あたしの体でダーツをされているような緊張感が走った。

 母さんは手櫛で髪を整えながらはっきりと、あたしの目を見つめてそう言ってきた。母は普段私を見ない。普段から派手なコーディネートをして女帝のような雰囲気をしていたけど、いつもあたしが目を見るとどこか申し訳なさそうに、その目を隠すよう前髪を振り落として隠していたものだった。けど、この目は、自分の信念に自信があるという目だった。

 初めて母さんの目を見つめた瞬間だった。その目は美しかった。長いまつげに大きな瞳。黒々とした瞳は、影のような黒さがあった。まるで誰もの心の中に潜む影の色のような、隙間があればすかさず吸い込まれてしまいそうな静かな覇気をはらんでいた。

 恐ろしいのか、感動しているのかわからない気持ちになったあたしは、ただ謝ることしかできなかった。

「ご、ごめんなさい」しかし母さんは淡々と続けた。

「人間は皆暗闇の中に生きているの。だからみんな不安で不安で仕方ないの。集団は、「みんながなるべき姿」を設定して、無自覚にそれを着せ、『普通』を着こなすことが出来ているのを見て安心したいだけ……。『普通』に乗っ取られてる人間たちは、暗闇から目を逸らして、他人の姿を想像する。他人の生き様や結末を決めつけ、格下だと思えば安心するし、自分よりもっと偉大だと思えば自分の幸福を委ねる。」

 齢8歳の子供に理解するのはとてつもなく複雑な哲学だったが、自己否定でピリリと充満したあたしの体はじんわりと透き通って行くのを感じた。

 あたしは茫然と、共感と動揺が混じってかっ開かれた瞳孔で薄暗い空間の中で光る母さんの、美しく潤んだ瞳に吸い込まれていった。

 ぽつり、と浮かんだ疑問を掌で持ってくるように母さんに尋ねた。

「じゃ、じゃあさ、どうしてみんなはそんに『普通』が好きなの?」するとすんなりと答えが返ってくる。

「答えは簡単よ。みんな、自分と同じような姿をした他人を見て安心したいの。そうね、全ては、自分の世界の中に、敵を作らないようにしたいだけの生存本能に過ぎない。だから、普通なんて、『みんな』なんて、本当はくだらないものなの。あなたは、強くなって、『普通』なんて気にせず生きていけばいいの。」

「『強く』、なる……」

 『普通』から逸れることの恐怖が、この身に深くしみ込んだあたしは恐怖に支配されていた。それから逃げるため、みなと同じようにふるまいたかったが、それはあたしが本当に選びたかった道じゃない。それに気が付かせてくれた。墨汁で染まり切った半紙に一滴の水滴が白い花を咲かせるような希望の言葉だった。だけど、その道を選べば完全に孤独になってしまう。その恐怖が今度は頭のてっぺんからあたしの芯に降り注いできた。新たな恐怖が襲う中、あたしは震えながら母さんに助けを求めた。

「母さん、あたし、どうやって、生きていけばいい?どうすれば、幸せになれるの?」

 母さんは、その恐怖に共感するような優しいまなざしをしながら、腕を広げてきた。

「自分が死ぬとき後悔するかしないかで考えて生きればいいのよ。そうしたら、自分が本当に欲しいものがわかってくるから。」

 そう言って、母さんはあたしを抱きしめた。初めての抱擁だ。母さんの体温は冷たかったが、あたしはとても嬉しかった。まるで、冷水の染み込んだ丸まったティッシュのような心が、中心から乾かされていくような不思議な温かさを感じながら、少しまどろんだ。まどろみの中でも母さんの言葉ははっきりと聞こえていた。母さんの話したことは冷たかったけど、暖かかった。

「いい、緑。幸せは光。幸せになるということは誰かを照らすための光を眺める事じゃない。自分で暗闇の中に尽きることなく光る光源を見つけ、限りなくそれに近づくことよ。そして一度それになると決めたなら、自分の全てを光で照らされる覚悟を持ちなさい。」

 母さんが話してきた言葉は、あたしが求めていた言葉だった。あたしは間違えていなかったんだって、あたしは生きていてもいいんだって、あたし自身を認めることができた。

「強くなりなさい。緑。違和感を感じながら他人に合わせるなんていう、無駄なあがきに人生を使わないで。」

 母さんは語気を強めた声で言い聞かせ、それが体の芯に刻み込むようにあたしの心臓のあたりを的確に揺らすような位置に手を添えて背骨周りの肉から振動を掌で与え、ぶるぶると体の内側を震わせた。あたしは思わず目を見開く。その時、目尻に溜まった涙がつぅ、とほおをなぞって、母さんの肩に落ちた。母さんは何も言わずにあたしの背中をさすってくれた。

 そして耳元で小さくつぶやいた。

 

「15番、16番、21番、22番」


 


 運動会は中止になった。


 その前日の晩、あたしをいじめていたクラスメイト達が、全員頭を何かで勝ち割られていたそうだ。犯人はいまだ見つからないため、登校してすぐに学校が休みになった。クラスメイト達が友達の残酷な死に涙を流したり、震えている中、あたしは教室の片隅で、あることを危惧していた。

 あの時、母さんがつぶやいた出席番号の人間が全員死んだからだ。

 「まさか」と、心の中で何度もぐるぐると回る疑念に、言い聞かせるように何度も、「そんなわけない」とたたき込んだ。

 柔らかく傾いた日差しが、古びた団地の薄っぺらいドアを照らす。あたしは心臓をバクバクとさせながらゆっくりとドアノブをひねった。

 とたんに流れてくる、むわっと部屋中に充満した生暖かい空気と、鉄のにおい。

 今後一瞬たりとも忘れることのない母さんへの畏怖の根源を感覚で刷り込まれた瞬間だった。

「まさか、そんなわけ……。」と、今度はそのセリフを口に出してしまった。母がいるのかもしれないのに、と、背中を丸めて口を掌で押し込み、ドアを閉め、玄関にしゃがみ込む。

 このまま、静かに自室へいき、ベッドにこもって目をつぶっていればいいと思った。背中を丸め、そろりそろりと床に足を滑らせる。音は靴下と床の木同士がこすれる音しかなかった。それを保とうとするも、しゃくりあげてくる呼吸がそれを邪魔してくる。

 幸い、シャワーの音がそれをかき消したので、ばれることはなく、あたしは自室に入ることが出来た。そして、ランドセルを置いて、ベッドメイキングを知らない年頃らしさ全開のぐちゃぐちゃになった布団をつかみ、滑り込む。足元に硬く、金属のような感触がした。ブラウン管のようなノイズの入った薄暗い布団の中の視界で、顔から手のひら2つ分ほど離れた先に丸い棒のようなものを見つける。それを手にし、布団から出る。

 明かりの下で明らかになったそれは、鍬だった。あの、農耕器具の鍬だったが、先端から柄を持つ自分の手に赤い液体が伝い、先端には風呂場の排水溝のごみのような毛玉と石鹸が固まったような何かがくっついていた。だがこの状況でそれを血のような液体が垂れる、『毛玉と石鹸の塊』と分析する馬鹿がどこにいよう。

 肉片だ。きっと、頭を勝ち割った時に、一緒に毛髪と頭皮が抉れた状態のまま母さんはここにしまったんだ。

 ひゅ、と息を一段と吸い込み、血を吸い込んだ敷き布団の上に尻もちをつく。鍬はカーペットの上に倒れた。それは振動を与えただけで、音はさほど立たなかった。しかしその微々たる振動は、呼吸をさらに荒げる一因となった。

 見つかりたくない!なのに、どうして落ち着かないんだよ!

 徐々に大きく開こうとしてくる肋骨の動きにさらに動揺し、冷や汗がだらだらと流れてくる。尽きることのない息苦しさ。過呼吸だ。過呼吸で意識を失いそうになっていると、いつの間にか部屋に来た母さんが袋を口に近づけてくる。

 そこからの記憶はほぼ無い。使っていたあの袋に吐いてしまったこと、そしてその中に、吐瀉物と似たような色合いの、別の何かが入っていたこと。そして、母さんが血で汚れたあたしの布団の中でともに寝転がり、隣で寝かしつけてくれたことだけは覚えている。

 翌朝目が覚めたころ、あれは夢だったんじゃないかと本気で思いそうになるほど部屋で起きた「惨事」の形跡は跡形もなく消えていたのだった。

 


 母さんは強くて怖い。でも大好き。真実を手に入れるため、孤独に戦い続けている母さんの一部であることに誇りを持っていた。何も持たないあたし、「普通」という、安っぽい盾でひたすら自分を守るしかなかったあたしを、母さんはあたしを導き、敵を排除してくれたんだ。これ以上の愛があるだろうか。

 母さんが導き出した真実は、「普通」に頼ってのうのうと生きる奴らの生み出した港に落ちてる腐った魚の死骸のような価値観よりも輝いていた。対してあたしは未熟で、視界の全てが霧に包まれてている。あたしは母さんの教えに導かれてただ前へと進むことしかできない。母さんの視界は人なんてただの質感でしかないほどに霞むほど、冴えていた。それが、母さんが平気で人を殺せた理由。それでもあたしを大切に愛してくれた母さんが心の底から誇らしかった!

 けれど母さんは、血生臭い服を脱ぎ、シャワーの下でよく「何も、手に入らなかった」と呟いていた。頭を垂れる水流と共に、その苦悩までも流していたような、あの濁った瞳が忘れられない。母さんは死者から金や財産を獲得してきているけど、母さんが本当に欲しかったのは、名前のつかない何かだった。あたしはその「何か」にたどり着いて、幸せそうにする母さんを見てみたかった。母さんならきっと、到達できると信じていた。そしてあたしは母さんを支えるつもりだった。母さんが死に際に後悔するようなことがあれば、こんなに孤独に、キズを癒す間もなく戦ってきたと言うのに、その願いが叶わなかったら、それはどんなに惨めで悲惨な最期なんだろう。母さんの最期に見る景色が、孤独と虚無だけに食いつぶされたものになるのはとても耐えられなかった。だから、母さんが少しでも羽を休ませられるように快適な環境を作ること、そして愛されているあたしがそばにいると証明してあげた。



 それなのに、母さんは死んでしまった。



朝目を覚ますと、部屋の床に母さんが倒れていた。冷たく、硬直した指先の隙間には一枚の手紙が挟まっていた。

母さんはきっと、生きたかった。幸せを掴みたかった。でも、暗闇の中で手を伸ばした光が母さんの全てを照らすことはなかった。

 最後の夜、母さんはいつも以上にやつれていた。つまり、そういうことだ。


「母さん、苦しいままで死んだ……?」

あたしは血の気の引き切った母さんに問いかけるように呟いた。

 死んだらどうなる?

 意識は?止まったまま、母さんは止まったのを自覚するのか?

 いや、睡眠は軽い「死」だと聞いたことがある…私は睡眠とは違って、意識が完全になくなって、もう目を覚さないこと……。

 じゃ、無…?無って何?

 というか、あたしたちが生まれたことって何かが有ると言えるのだろうか?

 物を認識しているだけで、あたしたち人間じゃない…全知全能の存在から見れば、あたしたちは最初から存在なんてなかったのかもしれないし…ああもう、意味わからない!

 

幸せになることに、意味はあるの?


違う! !


母さんなら言う。「意味はある、生きているなら掴め」と!

母さんから目を逸らすことは、真実を捨てること。そんなの耐えられない。

馬鹿、あたしの馬鹿……。


母さん、お願い。「母さんが間違ってた」って言ってよ。そうじゃなきゃ、あたしは……真実を追って生きていけない……。


……スッキリしないよ。


あたしは母さんの手紙を開いた。遺書、と受け取っていいんだろうか。


「緑へ。まずは、こんな母親で、ごめんなさい。そして、私を愛してくれてありがとう。私はあなたが私に向ける、その幼気な眼差しに勝る輝きはないと、思うほどにあなたを愛していました。あなたが大人になるその前にさってしまってごめんなさい。あなたが幸福を手にできることを心の底から願っています。そして、先行きが不安になっている中、申し訳ないのですが、お願いがあるのです。首都に行って、私の遺体をスーツケースに詰めて、私の部屋の隅にある金庫から1000万のはいったトートバッグをこの手紙と共に入っている名刺に書かれている男の元へ届けて欲しいのです。あなたならきっとできる。お願いしますよ。 青木鮮――あなたの母より」

手紙を毛玉に塗れたカーペットの上に置き、手紙の封筒から名刺を取り出す。

 そこには、真っ白な面に住所、『植人研究者 木漏光』と書かれていた名刺が入っていた。

 

「『植人』って、何……?」

 ――――――――――――――――――――――――


 老紳士が、窓越しに見つめてくるその顔を少しも歪めずに話す。


「死は恐るべきものだろうか」


「…あたしに言ってる?」

 声色に警戒を乗せて返事をする。

「ああ、君だ。君はとても若そうだが」

「13です」

「13、まだ人生始まったばかりだが、随分と貫禄がある」

「ま、並の人生送ってるつもりないんで」

 すると老紳士はこちらの方へ歩いきて、隣のボックスの1番近い席に座り、足を通路側に出してあたしの方を向いた。

「ほっほっほ。ところで…先ほどの答えを聞きたいのじゃが」

 老紳士の声のトーンが一層低くなる。あたしは頬杖をついたまま、顔だけを老紳士へと向けた。

「『死は恐るべきものだろうか』か、恐れたところで何ができるわけでもない。みんな平等に死ぬんだから、意味無いと思うけどね」

「わしも、若い頃はそう思っておった。じゃがこうして長く生き、自分の限界を知ると、自分がどれだけちっぽけで弱い存在なのか、自覚してくるのだ。故に、自分にとって何が成し遂げられるのか、ということが非常に夢のない話になってくる。そうすると、淡々と生きなくてはならない。そして、徐々に迫る死が怖くなってくる。」

「でもあんた、ここら辺じゃ珍しいんじゃないか?そんなにめかし込んで、金持ってそうだけどね…満たされないものなんだ」

「当たり前じゃ。満たすのはものを持ってしても難しいものなのだからな。私たちは空虚だ。何を満たそうとしても意味はないのじゃよ。」

「…そうか」

「わしは老いて、そのうち死ぬじゃろう。だがわしは死後何が起きるかわからんし、目を背けようと思う。死の直前に恐怖したくないからな。そこで若者よ、死とはなんだと思う?」

「わからないけど、意識の連続じゃないかな。言うなれば、カメラの録画ボタンを忘れちゃった時みたいな。録画ボタンを押し忘れちゃったら何にも残らず、ただ画面の中で景色が動くだけ…それを見るだけさ。おっと、お爺さんにはわからなかったかな……」

 片眉を上げて顎を上げる。

「ほう、では、最初から最後まで何も起きてはいないと言うことか」

 老紳士は白けることもせず、相変わらずしゃがれた低い声で答える。

「なんだ、わかるんじゃないか。カメラのこと。そうだね。だから、あたしは死後の世界なんてないとも思ってる。生きてる間なんてただの景色さ。でも始まりはある。カメラを起動して構えることが人間の誕生だとすれば、人間が死に抱く恐怖心は、録画を忘れたと気がつき後悔する気持ちに近いのかもな…。」

「ほう…?理解が進んでおるな。関心じゃ。君が老いて死ぬ頃には、君にとって死は支配でなく、解放となるだろう。」

「解放も何もあるか、死は終わりだよ」

「…そうじゃった。いかん、年寄りの悪い癖なんじゃ。自分が抱いていた死の観念を大衆に紛れさせたくなる。未練があるからかのう…」

「未練?」

「未練じゃ。そうじゃ、君、行き先は?」

「首都」

「首都か。まあ混乱しとる所じゃが、君ならきっと乗り越えられる。そんな君に頼がある。」

 老紳士は席を立ち、あたしに封筒を渡してきた。

「なに、これは…手紙?」

「ちと用があってのう。急遽それを渡せなくなった。これを渡したかったんじゃ。他の車両に、良さげな人間がいなかった。」

「わかりました。」

「ありがとう若者よ。それじゃあわしはここでお暇しよう。」

 老紳士は揺れる車内に臆することなく他両へと続くドアの前まで歩いていく。あたしはその様子を慎重に、最後まで見届けた。

「手紙の中身は見ないように。首都に到着してから見るのじゃ。」

 着いたところで老紳士は上から降り注ぐような威圧を含んだ声で忠告した。

「わ、わかった。それじゃ」

「おう」

そう言い残し、老人は重たいドアをいとも簡単に開けた。


 直後、激震。

 列車は自由落下に晒された。車内のものが全て浮いていく。あたしは必死にスーツケースを座席に足で踏んづけて固定し、自分は上の網棚に捕まった。回転しそうなほどに車体が急激な傾斜を作る、そこからは洗濯機の中で急速に洗われている洗濯物のようにとにかく壁に打ち付けられながら、メチャクチャに転がり回され、車両が完全に「縦」になると、あたしは車両の下側に背中から勢いよく落ち、カアアァアアアン!という甲高い金属音と後頭部に撃ち込まれた爆発的な衝撃が全身を揺らしたのを最後に、あたしの感覚は全て途切れた。

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みどりの夏 酒麹マシン @aiaim25

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