第15話「舞台の外」

 正面玄関の自動ドアは、夜になると呼吸のように静かに閉じる。

 私が外に出たのは、二十三時を少し回った頃だった。風は乾いて、街路樹の葉の重なりが薄いビニール袋みたいに擦れた。タクシーの列は短く、ベンチには人影がひとつ。街灯の光が、誰かの肩に四角い窓の形を落としている。


 ――外でお会いしましょう。

 電話の声は、誰にも似ていなかった。似せようとすれば、いくらでも似せられる台詞だったのに、似せなかった。私はそのことに、わずかな期待を抱いていた。舞台を続けたい者は、似せる。終わらせたい者は、似せない。


 足音を半歩だけ速めて、私はベンチへ向かった。

 そこにいたのは、配達用のコートを羽織った女性だった。フードの縁から覗く頬は、冬でもないのに白い。足元に置かれた保冷バッグは空らしく、形を保つための紙が入っているだけだ。

 「こんばんは」私は言った。

 「こんばんは」

 声は普通だった。普通であることに、私は救われた。普通は、舞台の最良の終幕だ。


 「あなたが“外”か」

 「外は、いつもここにあります」

 彼女は目を細め、ホテルの灯を眺めた。ロビーの照明がガラスに十枚ほど重なって、彼女の瞳にも重なっていた。

 「名前を」

 「要りますか」

 「今は、要らない」

 私はベンチの反対側に腰を下ろした。距離は一人分と少し。背中に自動ドアの気配。ホテルの内と外をつなぐ呼吸の音が、一定に続いている。


 「黒を置いたのは、あなたか」

「黒を“持つと安心だ”と言ったのは、別の人です」

 曖昧ではない、ただの事実の口調だった。

 「あなたは何をした」

 「白を拾って、置き直しました」

 「どこに」

 「誰かの左胸に」

 私は彼女の手元を見た。素手。指先にインクの筋が一本。黒ではなく、青。


 「副支配人は、観客だと言った」

 「観客は、どこにでもいます」

 「あなたは観客か」

 彼女は少し考えてから、ゆっくり首を振った。

 「私は客です。観るだけの人ではありません。泊まるし、食べるし、眠るし、怒るし、泣く」

 「怒ったのか」

 「怒りました」

 「なぜ」

 「“安心です”と、言われたから」

 風が、ほんの少し強くなった。

 「安心は、言葉で渡されると軽くなります。軽い安心は、怖い」

 私は自分の胸の内側に、先ほど拾った白の重みを探した。そこにある。薄い紙が、衣服越しに心拍の波を吸い込んでいるのがわかる。

 「あなたは“黒を握っている人”を見て、何を思った」

 「羨ましかった」

 「羨ましい?」

 「安心が目に見えるから」

 彼女は自分の右手を握って見せた。握るという行為の簡単さ。

 「でも、すぐに冷めました。右手は離せます。離したら、何も残りません。左胸は、離せません。だから、怖いし、長持ちします」


 私はベンチの肘掛けに指を置いた。金属は冷たく、指先の温度を奪う。奪われた温度は、言葉になって戻る。

 「“Another 21:04”と刻んだのは誰だ」

 「知りません」

 「あなたは、何を知っている」

 「このホテルで、礼が行われたこと。拍手ではない、一礼です。――それで、渦が消えたこと」

 彼女はロビーの奥を見た。照明に青い層が混じり、床の光が少し長く伸びている。稔の演出は、観客のいない外からでも、余韻だけが見えるようになっている。

 「礼は、遅くて深い。深いものは、終わりを引き寄せます」

 「あなたは、終わらせたいのか」

 「終わらせたくないなら、今ここにいません」

 曖昧さを捨てる声。その背中に、不器用な決意が透けていた。


 「副支配人が言った“外にもう一人”は、共犯ではない」私は確認した。

 「ええ。相手です」

 「あなたは、その相手か」

 「今は」

 彼女は息を吐いた。冷たい息は白くならない。季節のせいだ。

 「相手は、役です。役は、降りられます」

 「降りるのか」

 「はい。――舞台の外で」


 沈黙が、二人の間に落ちた。

 私は、彼女に黒を持たせることも、白を持たせることもできた。けれど、それは仕事ではない。保安課長の仕事は、道具を配ることではなく、道具の位置を決めることだ。

 「ここに、白がある」私は胸の内側を指した。「これは、俺のだ。君のは君が決める」

 彼女は笑わなかった。ただ小さくうなずき、保冷バッグから折りたたんだレシートを一枚取り出した。

 「今日のお届け先。“コルテシア東京・裏口”」

 「何を運んだ」

 「空気です」

 彼女はレシートを半分に折った。折り目は真ん中からわずかに左へ寄る。

 「もう届けません」

 レシートをゴミ箱に入れ、それから両手を膝に置いた。右は軽く握られ、左は開かれている。

 「失礼します」

 彼女は立ち上がり、私に会釈をした。角度は正確に、深すぎず浅すぎず。

 「ありがとうございました」

 彼女の足音は、舞台の袖より軽かった。外の地面は、拍を持たない。ただの地面だ。


     *


 ロビーに戻ると、稔が照明の緞帳を閉めるような手つきでカーテンを揃えていた。

 「課長」

 「外は、普通だった」

 「それがいちばん難しい」

 彼は笑い、ポケットに白を戻した。胸の左に。

 「終幕の礼、きれいだったぞ」

 「礼は、稽古をすればするほど、余白が増えます」

 「余白は怖い」

 「だから、舞台を残すんです。終わっても、残るものを」

 私は頷いた。残るもの。残したいもの。――ホテルが毎朝用意する“いつも通り”は、舞台が終わったあとに残る唯一の装置だ。


 控室では、湯川が最後のログを書き出していた。電源の落ちたセンサーは机の端で静かに横たわり、波形のプリントは束ねられている。

 「教授」

 「終わったか」

 「終わった」

 「数字は、静かだった」

 「静かな数字は、見やすい」

 彼は笑わなかった。笑わないときの湯川は、よく話す。

 「声の重ねは、まだ完全に解けない。だが、解く必要はないのかもしれない」

 「必要ない?」

 「合図は、もう舞台から降りた。残っているのは、選び方の跡だ」

 彼はペン先で自分の胸を軽く突いた。「位置の問題だ。――君が言った通りだよ」

 「珍しいな、教授が同意するのは」

 「科学は、正しさよりも、次に進むことを選ぶ」

 私は笑って、彼の肩を軽く叩いた。

 「次に進もう」


     *


 朝の準備が始まる直前、従業員が自発的にロビーに集まった。稔が呼んだわけでも、私が命じたわけでもない。

 「昨日と同じ礼を、もう一度だけ」

 誰かが言い、誰も反対しなかった。

 礼は、昨日より少し浅く、昨日より少し早かった。拍に戻ろうとする身体の自然。

 私は横顔を見回した。尚美は、視線を床に落とさない。床に落とす礼もあるが、今朝は違う。前を見る礼。これから客を迎える礼。

 礼が終わったとき、彼女は私のほうを見た。

 「課長」

 「なんだ」

 「香りを、もう少しだけ戻します」

 「どのくらい」

 「昨日より、0.2」

 「丁度いい」

 数字は、礼儀正しく人間に仕えるときだけ、美しい。


     *


 午前九時。

 ロビーの時計の秒針が十二を越える瞬間、私はポケットから白を取り出し、改めて左胸に置き直した。

 稔はカウンターの端でスタッフカードを整え、湯川は借用した器材の返却リストをチェックしている。

 誰も、黒を持っていない。

 ――本当に?

 心のどこかで、そう問いが浮かぶ。疑いは、職務の代謝であり、信頼の裏打ちでもある。

 許そう。問いが浮かぶことを。問いを残したまま働くことを。


 そのとき、フロントのベルが一度だけ鳴った。

 初めて来る客の音。

 私は歩き出し、胸の左の白の上から、そっと右手を重ねた。右手の“握る”は捨て、重ねるほうへ変換する。

 「いらっしゃいませ。ホテル・コルテシア東京へようこそ」

 言葉は、何も特別ではない。だが、今朝のそれは、確かに舞台の外で発された。

 客の視線が、ほんの少しだけ柔らいだ。

 それだけでいい。

 それだけで、充分だ。


     *


 昼過ぎ、川嶋の机が片づけられた。

 引き出しの底から、小さなメモが一枚出てきた。誰の字とも知れない、細い鉛筆。

 ――舞台は、観客の数だけ、外にある。

 私はメモを折り、封筒に入れ、誰にも渡さなかった。

 外にある舞台は、外に任せればいい。こちらの仕事は、こちらに残る。

 “守る”と“閉じる”の違いを、私はようやく体で理解した気がした。守るのは拍で、閉じるのは礼だ。


     *


 夜。

 私は裏口ではなく、正面玄関に立った。

 二十一時四分。

 内線は鳴らず、表示は灯らない。

 風が、胸の前を一拍だけ撫でていった。

 私はポケットから白を出して、ガラスの外側――ホテルの敷地と歩道の境目に、そっと置いた。

 拾う者がいれば拾えばいい。拾わなければ、朝、私が拾う。

 白は道具であり、位置だ。

 位置は、選べる。


 背後で足音。

 尚美だった。

 「課長」

 「どうした」

 「拾いますか」

 「いや。――今夜は置いておく」

 彼女はうなずき、私の隣に立った。

 「私も、置いておきます」

 「何を」

 「疑われる役を」

 私は彼女を見た。

 「役は、降りられる」

 「降ります。――舞台の外で」

 彼女の目は笑ってはいなかったが、穏やかだった。

 私たちはしばらく、並んで夜の通りを見た。

 通りは、相変わらず通りだった。拍を持たない。ただの通り。

 それで、いい。


     *


 稔はロビーに戻り、スタッフと小さな稽古を始めた。礼ではない、声の出だしの稽古。「いらっしゃいませ」を口の中で転がし、母音の長さを整える。誰も客はいない。舞台は閉じている。けれど、声は残る。

 湯川は控室で、最後の書類にサインをし、「数字は棚に戻す」と言って鍵をかけた。鍵は、音を立てずに閉まった。

 私はフロントに戻り、未処理の報告書に日付を記入する。日付は絶対だ。今日が今日であることを確定する合図。

 ペン先が紙を離れた瞬間、私は短く息を吐いた。

 終わった。

 ――終わった、と言えるのは、次を始める用意があるときだけだ。


     *


 深夜の巡回。

 廊下の端の観葉植物の葉が、均等に水を吸って瑞々しい。ハウスキーピングの手当は完全だ。エレベーターホールの鏡は、端に拭き残しがない。高見の仕事だ。物置の内線の受話器は、いつも通りの角度で正しく収まっている。片桐が気にする「線」が一本も出ていない。

 私は一度だけ扉の陰に立ち、0.9秒、目を閉じた。

 開けたとき、何も変わっていなかった。

 変わっていないことに、胸の左が、静かにうなずいた。


     *


 明け方。

 私は正面玄関の外に置いた白を拾い、埃を払って、フロントの抽斗に収めた。

 余白は無傷。折り線も、刻印も、ない。

 白の角に指を当てる。角は柔らかく、紙の繊維がほんの少しだけ指に移った。

 それを、私は胸の左に戻した。

 左胸の内側――心臓の上。

 そこが、白の居場所だ。


 ロビーの時計が、七時を告げる。

 香りは、昨日より0.2濃い。

 私は、開きかけの扉に向き直った。

 “いらっしゃいませ”。

 客の最初の一歩に、こちらの最初の一歩を重ねる。

 舞台は閉じたが、ホテルは続く。

 続くもののために、私たちはいる。

 信頼は、続けるものだ。


     *


 その日の最初の客が、笑った。

 笑いは0.4秒。

 数字を数えたあと、私は数えるのをやめた。

 数えなくても、拍はそこにあった。

 拍がある限り、舞台の外でも、私たちは立てる。


 そして、ロビーの片隅に――

 白が一枚、静かに置かれていた。


(完)

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毎日22時更新『マスカレード・トラスト』 湊 マチ @minatomachi

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