第14話「信頼の行方」

 副支配人室の扉は固く閉ざされていた。

 数時間前まで、あの部屋に座っていた川嶋の姿はもうない。拘束され、記録を残され、ホテルの外へと連れ出された。

 廊下に漂う空気は、確かに軽くなった。けれど、軽さは安堵ではなく空虚に近い。舞台の幕を下ろしたあとに残る、誰もいない舞台の気配。私は扉に手を触れず、ただ視線を落とした。

 ――まだ、終わっていない。

 心臓の裏に棘のような感覚が残っていた。川嶋が最後に口にした言葉。「Anotherはまだ外にいる」。あれは脅しではなかった。むしろ淡々とした事実確認に近かった。だからこそ、重い。


 私は保安課室に戻った。机の上には稔が置いた白紙の札と、湯川が分解した波形のプリントが散らばっている。白も黒も、数字も紙も、結局は舞台の小道具にすぎない。信頼を守る仕事をしているはずが、道具に振り回されている――そんな虚しさが喉に絡む。

 「課長」

 声をかけてきたのは片桐だった。彼女の眉間には、いつもの冷静な皺よりも深い影があった。

 「どうした」

 「スタッフの間で……まだ黒を持っている人がいます」

 「隠しているのか」

 「はい。白を持つと“疑われる”と言って」

 私は言葉を失った。

 黒を持つと安心し、白を持つと疑われる。意味が逆転し、ねじれたまま従業員の間に根を張り始めている。これを放置すれば、信頼は完全に崩壊する。

 「わかった。集めろ」

 「はい」

 彼女が去る背を見ながら、私は机の引き出しを開けた。中には、先夜拾った黒と白。黒は右手に収まる重さ、白は胸の上に置く軽さ。どちらも無言で、だがどちらも重い。


     *


 午後、保安課に全員を集めた。

 湯川はセンサーを片付け、稔は舞台の道具のように背筋を伸ばし、尚美を含む従業員十数人が並んだ。緊張の中に、沈黙のざわめきがあった。

 「聞いてくれ」

 私はホワイトボードに二つの四角を描き、片方を黒、片方を白で塗った。

 「黒は服従だ。安心を装って、責任を人に委ねる道具だ。白は自由だ。だが自由は不安を呼ぶ。……どちらも完全ではない」

 従業員たちの視線が揺れる。黒を握る指、ポケットに隠す影。

 「信頼は色で決まらない。位置で決まる」

 私は自分の胸を指した。「白を胸の左、心臓の上に置け。そこにある白は、自分の拍だ。自分が返すべき拍。……右手に黒を握れば、それは人に委ねる不安になる。安心ではない」

 沈黙が落ちた。沈黙は拒絶ではなく、咀嚼に近い。

 「君たちに命じる。白は左胸に置け。黒は捨てろ。信頼は、自分の心臓の上で守れ」


 最初に頷いたのは高見だった。彼女は制服のポケットから黒を取り出し、机に置いた。指先は震えていたが、目は澄んでいた。

 「……捨てます」

 続いて片桐も白を胸に当てた。

 小さな波が、次第に広がっていった。


     *


 会議が終わったあと、尚美が私のもとに来た。

 「課長」

 「どうした」

 「私、ずっと“疑われる側”にいると思っていました」

 「今もそう思っているのか」

 「はい。でも、それで構いません。……信じてくださいとは言いません。ただ、信じたいと思っていただければ」

 以前と同じ言葉。だが今度は違った。彼女自身が「疑われる立場」を受け入れた上で告げていた。

 「尚美」

 「はい」

 「俺は、信じたいと思っている」

 短い言葉に、彼女は微かに笑みを浮かべた。笑うまで0.42秒。数字を測るのは職業病だが、その数字は、確かに温度を持っていた。


     *


 夜、ロビーに全従業員が集められた。

 稔が一歩前に出て、声を張った。

 「舞台を閉じるとき、必要なのは拍手ではありません。礼です。拍は速く、礼は遅い。遅いが、深い。今夜は、お客様を舞台の外で見送る礼を、全員で行います」

 誰も異論はなかった。

 稔の合図で、全員が一斉に深く腰を折る。

 拍手の音はない。ただ、空気が沈み、時間が一瞬止まったような静寂。

 袖の外に漂っていた“渦”が、その瞬間ふっと消えた。数夜にわたって私たちを悩ませた影は、礼の深さに吸い込まれたように。

 礼が終わると、静けさが残った。静けさは恐怖ではなく、安堵に近かった。


     *


 湯川が呟いた。「数字は沈黙を破らない。だが、人は破れる」

 稔は笑って言った。「舞台は終わっても、拍手は残る」

 私は二人を見て、短く頷いた。

 「信頼は、残すものじゃない。続けるものだ」


     *


 解散のあと、ロビーの隅に白が一枚置かれていた。

 拾い上げて見ると、折り線も刻印もない。完全な余白。

 誰が置いたのかは分からない。だが確かに“観客”の仕業だった。

 私はそれを胸の左に置いた。心臓の鼓動と重なる。

 Anotherは、まだ。

 予感が背筋を冷やす。だが、逃げる気はなかった。

 信頼は、ここに残っている。?

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