第4話 あかいかみ、あかいけもの

 土煙がようやく落ち着いた頃、森に再び静けさが戻っていた。先ほどまでの陰鬱さはまるで嘘のように消え去り、木々の隙間から差し込む陽光が、葉を透かして地面を照らしていた。


 カイウスはまだ膝をついたまま、目の前の少女を見上げていた。


 年の頃は、十八ほどか。

 女性としては珍しく、カイウスよりも頭ひとつ分ほど背が高い。すらりと伸びた手足にはしなやかな線もありつつ、引き締まった体躯は飾らずとも目を引いた。

 凛とした目元が何よりも印象に残った。頬に差す朱と少し陽に焼けた肌の色が、誰もが振り向くだろう野花のような純朴な可憐さを一層際立たせている。

 腰まで届く深紅の髪が、風に揺られてふわりと舞う。糸のような髪は陽に透け、だが不思議と森の緑に埋もれずにその輪郭を保ち、まるでこの森に宿る妖精を思わせた。

 

 彼女は一瞬、足を止めて躊躇ったが、やがてゆっくりとカイウスへと歩み寄ってくる。

 足取りに、怯えか威圧はない。ただ、「どう声をかければいいのか分からない」――そんな素朴な戸惑いが、仕草に滲んでいた。

 

「……あの、大丈夫、ですか? お怪我、痛くないですか?」


 声は澄んでいて、やわらかな水音のようだった。

 よく通るのにどこか控えめで、言葉の端々に相手の痛みを慮る配慮が滲んでいる。

 

 カイウスはわずかに遅れて頷いた。


「……あ、ああ。なんとか、な」


 地面に転がっていた剣を手繰り寄せ、杖のようにして立ち上がる。全身の筋肉が鈍く痛み、軋みを上げた。

 だが、それ以上に胸を占めていたのは――先ほどの出来事の現実味のなさだった。


 ――あの巨狼を、この少女が一撃で退けた。

 しかも、素手で。武器すら、使わずに。

 

 少女は前髪を指で払うと、小さく息を吐いた。安堵のため息か緊張の残滓なのかは、判断がつかない。

 ふとこちらを伺うような視線に、かすかな怯えも混じっていたのをカイウスは見逃さなかった。


「……名前を、聞いてもいいか?」


 カイウスの問いに、少女は小さく「あっ」と息を呑む。

 一瞬、迷うように目を伏せたがすぐに顔を上げた。そして視線を合わせたまま、ゆっくりと名乗る。


「……リア。リア・フリーディス、といいます」


 やや緊張した声。だが恐れているわけではない。

 人と話すことに慣れていないだけで、言葉の奥には礼節を尽くそうとする、真っ直ぐな誠実さがあった。


「リア、か。いい名前だな。……助けてくれて、ありがとう。命拾いしたよ」


 カイウスの言葉に、リアの唇がわずかに持ち上がる。


「いえ。……その……間に合って、よかったです」


「良かったどころの騒ぎじゃない。もし君が来てくれなかったら、俺は今頃、あの化け物の胃袋の中だ」


 冗談めかして言うと、リアは少しだけ目を見開き――上目遣いに、おずおずと尋ねてきた。

 

「……あの……私のこと、怖くないんですか?」


「え? 怖い?」


 カイウスはきょとんとした顔で問い返す。


「だって……その、さっきのこと、とか……」


「あぁ、あの化け物を素手で殴り飛ばしたこと?」


「……はい」


 リアの声がわずかに沈む。力を見せてしまったことへの後悔。そして、カイウスがそれを畏怖するのではという恐れが垣間見える。


 だが、カイウスはふっと笑った。


「助けてくれた恩人を、怖がる理由なんてないさ。……どちからと言えば、あの狼にこそ度肝を抜かれたよ」


「……っ」


 リアは言葉を失ったようにカイウスを見つめた。その目に安堵の色が混じり始める。

 

「改めて、礼を言わせてほしい。俺はカイウス。カイウス・ヴァンデルだ。流れの傭兵をやっている。いまは近くのノルヴィア村の依頼で、森の異変について調べていた。まさか、あんな化け物に出会すとは思わなかったが……」


「……カイウス、さん……」


 リアは小さく頷き、唇にそっとその名をのせた。

 まるで確かめるように。初めて口にしたその名が、彼女の胸の奥で少しずつ形を持ちはじめる。


「……ところで君は、どうしてこんなところに居るんだ?」


 突然のカイウスの問いに、リアが一瞬息を呑む。やがて小さく呼吸を整えると答えた。


「その……近くに家があって。一人で、暮らしています」

 

「こんな森の中に? 危なくないのか?」


 リアの身体がわずかに固まった。だがすぐに表情を整え、視線をそらしながら呟く。


「……慣れてるんです。ずっと、ここで暮らしてるので」


「……なるほど。まぁそういう事もあるか」

 

 言葉に嘘はなかったが、どこか言い淀むような響きもある。

 しかし、カイウスはそれ以上追及しなかった。

 目の前の少女が自分を助けたのは、きっと見返りではなく純粋な善意によるものだ。ならば――その気持ちに報いるべきは疑いではなく、信頼だろう。


 沈黙がふと流れる。

 やがて俯きがちだったリアが意を決したように顔を上げる。


「あ、あの……! よ、よかったら、うちに来ませんか?」


 その瞳には、それまでとは違う色が宿っていた。

 

「そ、その……怪我もされていますし! 手当ても……簡単なものならできます。それと、もし……ご、ご飯とかも、食べていかれるなら……」


 言いながら、リアは少しだけ目を逸らす。

 照れ隠しのようにも見えるし、単純に誘った後の段取りが想像できていないようにも見えた。きっと彼女にとって、「誰かを家に招く」という行為は、とても大きな一歩だったのだろう。


 カイウスはその思いを正面から受け止め、軽く笑った。

 

「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ。実を言えば、もう脚が棒で。こう見えて、今にも倒れそうなんだ」

 

 そう言って、わざとらしく脚をぷるぷると震わせてみせる。

 リアは目を丸くし、それから――ほんの少しだけ、息を漏らすように笑った。初めて見せた、心からの笑顔だった。


「……じゃあ、ついてきてください。こっちです」


 そう言ってリアが指さした森の奥。その先に続く獣道は、木漏れ日と小鳥の囀りに包まれ、静かに二人を迎えていた。

 カイウスは背に剣を収め、そっと歩き出す。足元に広がる草の感触が、いまは少しだけ心地よく感じられた。

 

***


 森の奥へと続く獣道を、カイウスはリアの背を追い歩いていた。

 枝葉の天蓋から差し込む光は薄暗く、けれどリアの足取りに迷いはなかった。まるで地図の上をなぞるように正確で、ここが彼女にとってどれだけ馴染み深いのかが伝わってくる。


 やがて、木々の合間にふと視界が開ける。

 そこに現れたのは、森と溶け合うように佇む、小さな木造の家だった。


 傾いた屋根には苔が厚く広がり、壁板の一部にはひびが走っていた。だが、決して荒れ果てた廃屋ではない。

 戸口にはきちんと積まれた薪。窓辺には小さな鉢植えに季節の花が揺れている。質素ではあるが、丁寧な“暮らし”が息づいていた。


「……ここです。ご、ごめんなさい……お誘いしておいて、あまり綺麗な家じゃなくて……」


 リアが振り返ると、気まずげに小さく頭を下げる。その声音には不器用な誠実さが浮かんでいる。


「いや、十分すぎるよ。野宿ばかりの身には、こういう自然に囲まれた場所の方が、むしろ落ち着く。それに……休める場所を貸してもらえるだけで、ありがたいさ」

 

 冗談めかして笑うと、リアはわずかに口元を緩めた。そしてそっと木戸に手をかけ、カイウスを中へと招き入れる。


 家の中は、外観の印象よりもずっと温もりがあった。

 低い天井と、わずかに軋む床。中央には石造りの炉があり、赤く残る火種が静かに揺れている。壁際には簡素な棚や寝台が並び、梁からは干された薬草が丁寧に吊るされていた。窓辺には素焼きの器や、手作りと思しき小物が並んでいる。


「……あの、少しだけ待っててください。今、お茶を淹れますので」


「ありがとう。何から何まで、すまないな」


 リアは静かに頷くと、茶器を取り出し水を注ぎ始めた。手つきはややぎこちないが、長年の習慣が刻まれている。


 カイウスは入口近くの腰掛けに荷を下ろすと、壁に剣を立てかけた。その途端、全身にどっと疲労が押し寄せる。緊張がほどけ、ようやく「生き延びた」ことを実感できた。


「……どうぞ。そ、粗茶ですが……」

 

 言葉と共に湯気を立てる木椀が差し出された。

 礼を言い鼻を近づけると、薬草の香りが淡く立ちのぼる。ほのかに甘く、体の芯をほぐしてくれるような香りだった。


「……リアは、ずっとここに一人で暮らしてるのか?」


 そう問いかけると、リアの手がわずかに止まった。だがまたすぐに動き出し、炉の前に戻って薪を焚べながらゆっくりと答える。


「……はい。十二のときから、もう六年ほどになります。その前は祖父と二人で暮らしていました。祖父が亡くなってからは、ずっと一人です」


 声には、拭いきれない寂しさが宿っていた。

その揺らぎが、彼女の過ごしてきた孤独な歳月をありありと語っている。

 

「そうか……お爺さんは、どんな人だったんだ?」


「優しい人でした。すこし無口でしたけど、いつも側にいてくれて……森のことも、薬草のことも、全部教えてくれました。わたしにとって、とても大切な人です」


 少し遠くを見つめながら語るその言葉には、深い想いが込められていた。今もなお胸の奥に息づく大きな敬意が、しみじみと伝わってくる。

 

「でも、六年も一人で暮らすのは、その……寂しくはないのか? 村で暮らすことは、考えなかったのか?」


 カイウスの問いかけに、リアはふっと視線を落とした。


「大丈夫です……慣れているんです、この暮らしに」


 即答だった。

 ――けれど、どこか言葉を選ぶような硬さがあった。まるで「そう言うしかない」理由を、押し隠すように。

 

 ぱち、と炉の薪が小さく弾ける音がする。

 窓の外では夕陽が森の影を長く引き伸ばし、家の中にも静かな夜の気配が忍び込んでいた。


「……聞いてばかりですまない。もうひとつだけ、いいか?」


 カイウスの声に、リアは小さく頷いた。


「はい……なんでしょう」

 

「決して、怖がってるわけじゃないんだ。だが、……さっきの狼。君はあの巨体を、素手で殴り飛ばしてた。それも、顎をへこませるほどの力で」


 リアは黙ったまま、薪の火を見つめている。カイウスは言葉を選びながら続ける。


「君は、俺を助けてくれた。それに、こうして休む場所まで与えてくれてる。その事実は変わらないし、本当に心から感謝してる。……でも。悪気はないんだが、あの力は……どう考えても、普通じゃない」


 そう言葉を切ったとき、炉の灯に照らされて揺れるリアの赤髪が、ふと目に留まった。


 赤い髪。人の域を超えた力。村を離れ、森でひとり生きる少女。

 

 カイウスの脳裏に、ある風景がよぎった。

 ノルヴィア村の外れに立つ、いのりの大樹たいじゅ。朽ち果てたむくろのように真っ二つに割け、オルドとエルンは、それを――一匹の"赤いケモノ"の仕業と言っていた。


「……赤獣せきじゅうって言葉は、聞いたことあるか?」


 その一言が、リアの瞳に影を走らせる。心臓を掴まれたような、ほんの一瞬の動揺だった。


「……。……あります。子どもの頃、よく耳にしました」

 

「……どんなふうに?」

 

「……村を恐れさせた、赤い化け物。森の奥に棲み……木を割り、土を裂き、飢饉をもたらし、村の人を傷つける。……ノルヴィアに招いてはならない、厄災です」


 まるで呪文のような口ぶりだった。他人事のような語り方。それでも奥にある、静かな諦念は隠しきれなかった。


「……もしかして、君がその赤獣せきじゅうなのか?」


 カイウスの問いかけに責める色はない。

 やがてリアは小さく唇を噛むと、そしてゆっくりと頷いた。

 

「……はい。そう、呼ばれています。六年前……いのりの大樹たいじゅを裂いてしまったあの晩から、ずっと」

 

 その告白に、言い訳は一片もなかった。ただ溢れ出た後悔と自責の念が、瞳を濡らし揺らしている。


「……わたし、本当に悪気はなかったんです。でも、わたしのせいで、あれから村が不作に苦しんで、たくさんの人を……きっと傷つけてしまって……。いまさら、どんな顔で村に行けばいいのか、わたし……分からなくて……!」


 震える声音。胸の奥に積もり重なっていた言葉が、堰を切るようにこぼれ落ちていく。

 

 カイウスは、その独白をただ静かに受け止めていた。

 思えば出会って以来、彼女の目はいつも何かに怯えていた。最初は、年頃の少女ゆえに大人の男に警戒しているのだと思っていた。

 けれど――今はっきりと分かる。

 彼女は“嫌われること”を恐れていたのだ。自分が、村に忌まれた赤獣せきじゅうと知られることを。


 カイウスはゆっくりと立ち上がり、リアの傍へ歩み寄った。震える肩に手を伸ばしかけ――しかし、迷うように止める。

 代わりに、まっすぐに言葉を紡いだ。

 

「……分かった。もう大丈夫。言いたくないこともあるだろうから、全部は聞かない。でも……一つだけ言っておく」

 

 リアが恐る恐る顔を上げる。目元には"拒絶されるかもしれない"という不安がはっきりと浮かんでいる。


「君は、俺の命を救ってくれた。理由も、何の見返りもなく。いまの俺にとっては、それが全てだ。……過去がどうであれ、俺は――」


 一拍置き、カイウスは言葉を結ぶ。


「――俺は、"いま"のリアを、信じるよ」

 

 その言葉に一抹の迷いもなかった。ただ目の前の少女そのものを受け止めようとする、誠実さだけが浮かんでいる。


「……いまのわたしを、ですか……?」


 掠れるほどの声で、リアが問い返す。


「ああ。会って間もないが、君が理由もなく悪事を働く人間には、とても見えない。きっと何か事情があったんだろうし、話したくなければ話さなくてもいい。でも……俺にとって君は、少なくとも村の厄災でも、赤獣せきじゅうなんかでもない。恩を報いるべき……命の恩人だ。赤い髪が、特徴的なね」


 その言葉を聞いたリアが、サッと顔を伏せた。焚き火の揺らめきの中で、赤い髪がさらりと揺れる。その隙間から、ひと粒の涙がぽたりと落ちるのが見えた。


 カイウスは、その涙に触れなかった。

 あえて視線を逸らし、自然な仕草で木椀を手に取ると、何事もなかったかのように一口啜った。薬草の香りがふわりと広がり、口内にほのかな甘みと、それを包む穏やかな苦味が残る。


「……おぉ、うまいな。薬草茶は苦手なんだけど、これは何杯でもいけそうだ」


 リアがそっと顔を上げた。頬にはまだ涙が残っていたが、その口元に柔らかな笑みが灯る。


「……祖父が、蜂蜜を少し入れるのが好きで。甘い方が疲れが取れるって、教えてくれました」


 声は震えていたが、言葉には小さな誇りが宿っていた。


「祖父も、よく褒めてくれたんですよ? ……"リアの薬草茶は格別だ"って。数少ない、私の自慢なんです」


 そう言ったあと、リアはふわりと笑った。


 窓の外では、森がゆっくりと夜の色を纏い始めていた。

 紫の薄明が帷のように降り、外界と切り離されたこの小さな家にも、穏やかな時間が訪れていた。

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でこぼこ放浪譚 ー流離の傭兵、寂しがり家な少女と共に世界を巡るー @SORA_penguin

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