『君の声には、心がない』と告げられた僕が、感情を音でしか語れない“音響の魔女”と出逢い、世界で一番エモいボイスドラマを作るまで【ボイスドラマ】【G’sこえけん】
☆ほしい
第1話
N:プロの声優になる。幼い頃からの夢だった。養成所のオーディションに特待生で合格し、卒業を間近に控えた今、僕はその夢が、ただの夢で終わるかもしれないという現実に直面している。
SE:養成所の廊下を歩く足音。周囲の生徒たちの楽しそうな話し声が遠くに聞こえる。
N:講師に言われた言葉が、耳の奥で何度も再生される。『君の声には、心がない』。滑舌も、発声も、技術は誰より上だと褒められる。でも、肝心の心が、ない。
SE:ため息。カバンから鍵を取り出し、アパートのドアを開ける音。
N:今日も今日とて、ダメ出しの嵐。重い体を引きずって、古びたアパートの一室に帰り着く。夢を掴むために上京してきたこの部屋も、今ではただの独房みたいだ。
SE:PCの起動音。マウスのクリック音。
N:気晴らしに、ネットでインディーズのボイスドラマでも漁ってみるか。有名な作品は聴き尽くした。もっとこう、荒削りでも魂が震えるような、そんな声が聴きたい。そんな都合のいいもの、あるわけ……。
SE:クリック音。再生が始まる。
SE:(ここからバイノーラル推奨) 静かで、優しい雨音。しとしとと地面を濡らす音。遠くで雷が微かに鳴る。軒先から滴り落ちる水滴の、一つ一つの音がクリアに聞こえる。やがて、小さな傘に雨粒が当たる、ぽつ、ぽつ、という柔らかい音。誰かが歩いている。濡れた落ち葉を踏む、くしゃり、という湿った音。その足取りは、少し寂しげで、でもどこか温かい。
N:声は、ない。セリフも、ナレーションも一切ない。ただ、音だけ。なのに……なんだ、これ。雨の日の、あの独特の匂いまでしてきそうだ。傘をさして歩く少女の、少し俯いた横顔が見えるような気さえする。寂しさ、安らぎ、微かな期待。全部、この音の中に詰まってる。
SE:マウスのクリック音。再生を止める。
N:……心が、ある。この音には、俺の声にないものが、全部ある。
SE:キーボードを叩く音。
N:作者の名前は……『音姫』。個人で活動しているフォーリーアーティスト、か。フォーリーアーティストっていうのは、映画やドラマの効果音を、様々な道具を使って生で作り出す職人のことだ。足音から衣擦れの音、剣戟の音まで。まさか、個人のボイスドラマで……いや、これはボイスドラマじゃない。サウンドスケープ、音の風景画だ。
SE:再びクリック音。別の作品を再生する。
SE:(バイノーラル) 夏の夕暮れ。ひぐらしの鳴き声。風鈴の涼やかな音。縁側が軋む音。氷の入ったグラスが置かれる、カラン、という音。麦茶が注がれる音。誰かが団扇でゆっくりと風を送る音。
N:すごい……。情景が、感情が、ダイレクトに脳に流れ込んでくる。この『音姫』って人、天才だ。俺は、この人に会ってみたい。どうすれば、こんな音を創れるのか、知りたい。
SE:キーボードの高速タイピング音。
N:SNSを駆使して、数時間。奇跡的に、彼女がたまに機材を借りに来るという、都心から少し離れた小さなリハーサルスタジオの情報を突き止めた。保証はない。でも、行くしかない。俺は、心が震える音の正体を、確かめずにはいられなかった。
SE:場面転換。電車の走行音。駅から歩く足音。蝉の声。
N:数日後。俺は、汗だくになりながら、目的のスタジオの前に立っていた。古い雑居ビルの地下。本当にこんな場所に……。
SE:重い鉄の扉を開ける、軋んだ音。
N:中は薄暗く、ひんやりとしている。防音壁に囲まれた廊下の先に、一つの部屋のドアが少しだけ開いていた。
SE:ドアの隙間から、様々な音が漏れ聞こえてくる。砂利の上を歩く音、水の跳ねる音、布が擦れる音。
N:間違いない。この中に『音姫』がいる。
SE:ゆっくりとドアに近づく足音。
N:(息を飲む)
詩織:(小声で、何かに集中している)……違う。もっと、こう……切ない感じの……足音……。
N:聞こえてきたのは、少女のか細い声だった。俺は、意を決してドアをノックした。
SE:コン、コン。ノックの音。
SE:中の物音が、ぴたりと止まる。
N:あの……すみません。
SE:ゆっくりとドアが開く音。
N:そこに立っていたのは、小柄な女の子だった。大きなヘッドフォンで隠れそうな小さな顔。長い前髪の隙間から覗く大きな瞳が、怯えたように俺を見ている。
詩織:……あ……あの……な、なんでしょうか……。
N:声が、小さい。ネットで聴いた、あの雄弁な音の世界を創り出した人物とは、とても思えない。
海翔:あ、えっと……突然すみません。俺、瀬野海翔って言います。あの、『音姫』さん、ですか?
詩織:(びくっ、と肩を震わせる)……。
N:彼女は何も言わず、こくりと頷いた。
海翔:俺、あなたの創ったサウンドスケープ、聴きました。『雨宿り』と『縁側』……。すごかったです。ただの音なのに、景色だけじゃなくて、そこにいる人の気持ちまで伝わってきて……。俺、声優を目指してるんですけど、ずっと『心がない』って言われてて。あなたの音には、俺にないものが全部ありました。だから、どうしても一度、お会いしてみたくて。
詩織:…………。
N:彼女は、ただ俯いて、自分のスニーカーのつま先を見つめている。まずい、完全に引かれてる。
海翔:あ、いや、怪しい者じゃないです! 本当に、ただ、ファンというか、どうやってあの音を創ってるのか、少しでもお話が聞ければと……。
詩織:……わたし……はなすの……にがて、で……。
海翔:え?
詩織:だから……おと、で……。
N:そう言って、彼女はスタジオの中を指差した。そこは、宝物のガラクタで埋め尽くされた秘密基地のようだった。様々な大きさの砂箱、水の張られたタライ、壁には無数の衣類や金属片が吊るされている。
海翔:これが……全部、音を出すための道具……。
詩織:……どうぞ。
N:彼女は俺を中に招き入れた。
SE:スタジオの中に入る足音。様々な機材や小道具に囲まれている環境音。
N:彼女は、おもむろにマイクの前に立つと、小さな革袋を手に取った。
詩織:……これが、『雨宿り』の……。
N:そう言うと、彼女は袋をそっと揺らし始めた。
SE:(バイノーラル) ザアァァ……。袋の中から、まるで本物の雨のような音が流れ出す。揺らし方を変えると、雨足が強まったり、弱まったりする。
海翔:これ……小豆か何かですか?
詩織:(こくりと頷く)……録音するマイクと、距離と、振り方で……雨の気持ちが、変わる……。
海翔:雨の、気持ち……。
詩織:……こっちは、雷。薄い鉄板を……こう。
SE:(バイノーラル) ぶるるん、と鉄板が震える音。遠くで鳴る、リアルな雷鳴に聞こえる。
N:彼女は、言葉で説明する代わりに、次々と音を実演してくれた。濡れた雑巾を絞る音は、悲しみに濡れる心の音に。古びたゼンマイ時計の音は、焦燥感に。彼女の手にかかれば、ただのガラクタが、雄弁な感情表現のツールに変わる。
海翔:すごい……。本当に、魔法みたいだ。
詩織:……まほう、じゃ……ない。聴いて、真似して、合わせるだけ……。
海翔:合わせる……。
詩織:……世界は、音でできてるから……。人の心も、きっと……。
N:その時、俺の頭に、一つのアイデアが閃いた。無謀で、突拍子もない、だけど、もしかしたら……。
海翔:あの、音無さん!
詩織:(びくっ)は、はい……。
海翔:俺と、一緒にボイスドラマ、作りませんか?
詩織:…………え?
海翔:音無さんの創る『心のある音』と、俺の『心のない声』。二つが合わさったら、何かすごいものが生まれる気がするんです。俺、あなたの音でなら、きっと、心を込めて演じられる。お願いします!
詩織:で、でも……わたし、人と……その……。
海翔:俺が、あなたの『声』になります。あなたは、俺の『心』になってほしい。
N:彼女は、大きな瞳でじっと俺を見つめていた。その瞳は、驚きと、戸惑いと、そしてほんの少しの好奇心で揺れていた。長い沈黙の後、彼女は、これまでで一番小さな、だけどはっきりとした声で、こう言った。
詩織:…………やって、みる……。
N:こうして、世界で一番奇妙な共同作業が始まった。
SE:場面転換。穏やかなBGMが流れ始める。
N:俺たちは、まず簡単なショートストーリーから作ることにした。俺が書いた拙い台本を、彼女が読んで、必要な音をリストアップしていく。
SE:スタジオの環境音。紙をめくる音。鉛筆で書き込む音。
詩織:(小さな声で)……ここのシーン……主人公、嬉しい……けど、ちょっと不安……。
海翔:ああ。久しぶりに会う友達だからな。
詩織:……なら、足音は……少し速足で、でも、コンクリートじゃなくて、土の上……。靴は、スニーカー……。
海翔:なんで?
詩織:……コンクリートだと、音が硬い。不安な心には、響きすぎる……。土の、柔らかい音が……合う。
N:彼女の感性は、俺の想像を遥かに超えていた。キャラクターの心情を、すべて具体的な音に翻訳していく。
SE:(バイノーラル) 詩織が様々な素材を試す音。布を擦ったり、小物を鳴らしたり。
海翔:(台本を読みながら)「久しぶりだな。元気だったか?」
詩織:……今の声……ちょっと、硬い。もっと、こう……胸のあたりが、ぽかぽかする感じ……。
海翔:ぽかぽか……。
詩織:……(ヘッドフォンを俺の頭にかける)……これ、聴いてみて。
SE:(バイノーラル) ヘッドフォンから、焚き火がぱちぱちと静かに燃える音が聞こえる。
海翔:焚き火……?
詩織:……懐かしくて、あったかい音……。この気持ちで、もう一回……。
海翔:(息を吸って、少し柔らかい声で)「久しぶりだな。元気だったか?」
詩織:…………うん。さっきより、ずっといい。
N:彼女は、まるで調律師のようだった。俺という楽器の、心のチューニングを、音を使って行っていく。彼女の音を聴き、その音に含まれた感情を全身で感じてからセリフを口にすると、不思議と、声に血が通い始めるのがわかった。
SE:録音ブースのマイクの前に立つ海翔。ヘッドフォンをしている。
海翔:「……ずっと、言えなかったんだけどさ。俺、お前のことが――」
SE:ブースの外から、詩織がマイクを通して話す。
詩織:(スピーカー越しの声)……ダメ。
海翔:え……。
詩織:……今の、『好き』の音……嘘の音。
海翔:嘘って……。
詩織:……心が、鳴ってない。ただの、文字の音。
N:核心を突かれて、言葉に詰まる。台本はクライマックス。主人公が、長年の想いを告白する、一番大事なシーン。なのに、何度やっても、彼女からOKが出ない。
海翔:(ため息)……どうすれば、いいんだよ。
詩織:…………。
海翔:『好き』の音って、どんな音なんだよ。教えてくれよ。
詩織:…………わからない。
海翔:は?
詩織:……わたしには、その音……創れない。聴いたこと、ないから……。
N:その言葉に、俺は絶句した。彼女は、恋という感情を知らない。だから、その音を創ることができない。そして俺は、心を込めて『好き』と言えない。俺たちの共同作業は、最大の壁にぶち当たった。
SE:重い沈黙。
N:その日から、作業は完全に停滞した。スタジオには行くものの、二人とも、どうすればいいのかわからない。気まずい時間が、ただ流れていく。
SE:スタジオの静かな環境音。時計の秒針の音だけが響く。
N:そんなある日、彼女が小さな声で呟いた。
詩織:……海翔くんは……あるの?
海翔:え?
詩織:……『好き』って、気持ち。
海翔:……さあな。本気で誰かを好きになったことなんて、ないかもしれない。だから、俺の声も、嘘の音しか出ないのかもな。
詩織:…………。
海翔:……なあ、音無さん。
詩織:……詩織で、いい。
海翔:え?
詩織:……わたしのこと……詩織って、呼んで。
海翔:……詩織。
詩織:……うん。
海翔:……詩織はさ、なんでフォーリーアーティストになったんだ?
詩織:……小さい頃から、人の声が、怖かったから……。
海翔:怖い?
詩織:……みんな、平気で嘘をつく。笑ってるのに、目が笑ってない。優しい言葉なのに、声が冷たい。……でも、音は、嘘をつかない。雨の音も、風の音も、いつも本当のことだけを、教えてくれる。だから……わたしも、本当のことだけを話せる、音の世界に、いたかった。
N:彼女の言葉が、胸に突き刺さる。俺は、声で嘘をつこうとしていた。心を込めずに、それっぽいセリフを言おうとしていた。彼女には、それが見抜かれていたんだ。
海翔:……そっか。
N:俺は、ゆっくりと立ち上がって、彼女の前に立った。
海翔:詩織。
詩織:(顔を上げる)
海翔:俺、あんたの創る音が、好きだ。
詩織:…………え?
海翔:雨の音も、風鈴の音も、焚き火の音も。あんたの音は、全部正直で、優しくて、温かい。聴いてると、心が洗われるみたいなんだ。
詩織:…………。
海翔:あんたと一緒にいると、俺、自分の声が嫌じゃなくなる。あんたが俺の声を聴いて、『今の、いい』って言ってくれると、本当に嬉しいんだ。もっと、いい声、出したいって思う。もっと、あんたに褒めてもらいたいって思う。
N:これは、台本じゃない。俺自身の、本当の言葉だ。
海翔:俺、多分、あんたのことが……。
N:好きだ、と言いかけた時だった。
SE:(バイノーラル) キィン……。
N:澄み切った、ガラスをそっと弾いたような、美しくて、儚い音が、スタジオに響いた。
海翔:……今の音……。
N:音のした方を見ると、詩織が、マイクの前に置いてあった小さなクリスタルの置物を、指でそっと弾いていた。彼女の顔は、耳まで真っ赤になっている。
詩織:…………これが……たぶん……わたしの、『好き』の……おと。
N:その音は、今まで彼女が創ってきたどんな音よりも、シンプルで、不器用で、だけど、何よりも雄弁に、彼女の心を伝えていた。
海翔:……そっか。
N:俺は、彼女の隣に座ると、そっとその手を取った。
海翔:……いい音、だな。
詩織:(こくりと頷く)
SE:(バイノーラル) 二人の、少しだけ速くなった心臓の音が、静かに重なる。
N:俺は、もう一度、録音ブースのマイクの前に立った。ヘッドフォンからは、さっき彼女が創った、あの澄んだ音が、繰り返し流れている。
N:その音を、全身で浴びる。彼女の心を、俺の心に重ねる。
海翔:(優しく、温かく、心の底から)「……ずっと、言えなかったんだけどさ。俺、お前のことが、好きだ」
SE:ブースの外で、詩織が息を飲む音。
N:しばらくして、スピーカーから、震える声が聞こえてきた。
詩織:(スピーカー越しの声、涙声で)…………うん……。今のは……ほんものの、音……。
SE:穏やかで、温かいBGMが流れ始める。
N:俺たちの最初のボイスドラマは、それからすぐに完成した。
SE:完成したボイスドラマが流れる。海翔の心のこもったセリフと、詩織の感情豊かな効果音が、完璧に調和している。
N:俺たちは、スタジオの床に並んで座って、完成した作品を聴いていた。
詩織:……すごい。
海翔:ああ。
詩織:……海翔くんの声……心がある。
海翔:……詩織の音のおかげだよ。
N:彼女は、そっと俺の肩に頭を預けてきた。
詩織:……ねぇ、海翔くん。
海翔:ん?
詩織:……わたしの、次の音……聴いてみたい?
海翔:もちろん。どんな音なんだ?
SE:(バイオーラル) 詩織が、海翔の耳元で、そっとささやく。
詩織:(ささやき声)……(チュッ、というリップ音)……今の、音。
N:俺の声には、もう二度と、『心がない』なんて言わせない。だって、俺の隣には、世界で一番正直な音を奏でてくれる、最高のパートナーがいるんだから。
SE:BGMが最高潮に達し、静かにフェードアウトしていく。
***
N:あの日、詩織の『好き』の音を聴いてから、半年が過ぎた。俺と詩織は、恋人になった。そして、創作上の最高のパートナーになった。
SE:穏やかなアコースティックギターのBGMが流れ始める。キーボードをタイプする音。時々、マウスをクリックする音。
N:俺たちは、二人で作った作品を『オトノハ』というユニット名でネットに公開し続けた。俺の『声』と、詩織の『音』が織りなす物語の葉。そんな意味を込めて、二人で考えた名前だ。
SE:コーヒーを淹れる音。豆を挽く音、お湯が注がれる音。
N:作品は、少しずつ、でも確実に、聴いてくれる人を増やしていった。俺の声には、もう誰も『心がない』なんて言わなくなった。詩織が隣にいてくれるから。彼女の音が、俺の心に色を与えてくれるから。
海翔:(あくびをしながら)ふぁ〜……。できた……。詩織、次の台本、一応できたぞ。
詩織:……ん……。
N:振り返ると、詩織はスタジオの隅にあるソファで、大きなヘッドフォンをつけたまま、猫のように丸まって眠っていた。最近、新しい機材を導入してから、夢中になって音作りをしていたから、疲れているんだろう。
SE:海翔が椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩いてソファに近づく足音。
海翔:(優しい声で)お疲れ、詩織。風邪ひくぞ。
N:俺は、自分の着ていたパーカーをそっと彼女の体にかける。その瞬間、彼女のつけていたヘッドフォンから、微かに音が漏れていることに気づいた。
SE:ヘッドフォンから漏れ聞こえる、穏やかで優しい波の音。鳥のさえずり。
N:なんだろう、この音。気になって、俺はそっと彼女のヘッドフォンを自分の耳にあててみた。
SE:(ここからバイノーラル推奨) 視界が閉ざされ、耳に広がるのは完璧な朝の海岸の音。寄せては返す、穏やかな波。遠くでカモメが鳴いている。砂浜を裸足で歩く、二人の足音。一つは少し大きく、もう一つは少し小さい。楽しそうな、小さな笑い声が聞こえる。
N:それは、俺と詩織の音だった。まだ行ったことのない、未来のどこかの海岸を、二人で散歩している音。彼女は、こんな夢を見ていたのか。
海翔:(微笑みながら、ささやくように)……いい音、だな。
詩織:(寝言のように)……かいとくん……。
N:その寝言に、心臓が跳ねる。俺は、彼女の寝顔を見つめながら、この幸せがずっと続けばいいと、心の底から願った。
SE:場面転換。BGMが切り替わり、少しアップテンポで明るい曲になる。
N:数日後のことだった。いつものように二人でスタジオにいると、俺のスマホが珍しく知らない番号からの着信を告げた。
SE:スマホの着信音。
海翔:はい、瀬野です。……え? あ、はい……はい!
N:電話の相手は、とあるアニメーション制作会社の音響監督を名乗る人物だった。
海翔:……ええ、『オトノハ』の瀬野です。はい、そうです。音無と二人で……。え、本当ですか!?
N:信じられない話だった。俺たちの作品を聴いた監督が、今度制作するテレビアニメの中で使われる、劇中ボイスドラマの制作を『オトノハ』に依頼したい、と言うのだ。
海翔:(興奮気味に)はい! ぜひ、やらせていただきたいです! ありがとうございます!
SE:通話を切る音。
海翔:やった……やったぞ、詩織!
詩織:(ヘッドフォンを外しながら)……? どうしたの……?
海翔:仕事だ! プロの仕事のオファーが来た! アニメの劇中ボイスドラマだって! 俺たちの音と声が、テレビで流れるんだ!
詩織:……え……? しごと……?
N:俺の興奮とは裏腹に、詩織の顔はみるみるうちに青ざめていった。大きな瞳が不安そうに揺れている。
詩織:……ぷろ……の……しごと……。しらない、ひと……と……?
海翔:ああ! 来週、制作会社で打ち合わせがあるそうだ。監督さん、俺たちの作品、すごく気に入ってくれたみたいで……。
詩織:……むり……。
海翔:え?
詩織:……わたし……しらないひとと、はなせない……。め、も……みれない……。
海翔:だ、大丈夫だよ! 俺が一緒にいるじゃないか。それに、話すのが苦手だってことは、事前に伝えておくし。詩織は、無理に話さなくたっていい。音で語ればいいんだ。いつものようにな。
詩織:でも……迷惑、かけちゃう……。海翔くんの、せっかくの、チャンスなのに……。
N:彼女は俯いて、ぎゅっと自分の服の裾を握りしめている。その指先が、小さく震えていた。俺は、彼女の前にしゃがみこんで、その顔を覗き込んだ。
海翔:迷惑なんかじゃない。これは、俺一人のチャンスじゃない。『オトノハ』へのオファーだ。詩織がいないと、始まらないんだよ。俺一人じゃ、心のない声しか出せない、ただの瀬野海翔に戻っちまう。
詩織:…………。
海翔:詩織の音が必要なんだ。俺は、詩織の創る音と一緒じゃないと、どこにも行けない。
N:俺は、震える彼女の手を、そっと両手で包み込んだ。
海翔:一緒に行こう。俺が、詩織の盾になる。だから、何も心配するな。
詩織:……かいと、くん……。
N:彼女の瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。それは、不安の涙であり、同時に、俺の言葉を信じようとしてくれている、決意の涙のようにも見えた。
詩織:(小さな声で)…………うん。
SE:場面転換。BGMが少し緊張感のあるものに変わる。
N:そして、打ち合わせ当日。俺たちは、都心にある、大きくて綺麗なオフィスの前に立っていた。
SE:都会の喧騒。車の走行音、人々の話し声。
海翔:ここか……。すごいな。
N:隣の詩織を見ると、完全に固まっていた。顔は真っ白で、呼吸も浅い。
海翔:詩織、大丈夫か? ほら、深呼吸。吸ってー、吐いてー。
詩織:(か細く、震える呼吸)すー……はー……。
海翔:よし、行こう。手、繋いでてやるから。
N:俺たちは、固く手を繋いで、自動ドアの向こう側へと足を踏み入れた。
SE:自動ドアが開く音。静かで空調の効いたオフィスの環境音。受付の女性の声。
N:案内された会議室には、すでに三人の男性が座っていた。中心にいる、人の良さそうな笑顔の四十代くらいの男性が、今回の音響監督、サイトウさんだった。
サイトウ:やあ、君たちが『オトノハ』の瀬野くんと、音無さんだね。お待ちしてました。
海翔:(緊張しながら)は、初めまして! 瀬野海翔です! こちら、音無詩織です。本日はよろしくお願いいたします!
N:俺は深々と頭を下げる。隣で詩織も、小さな頭をこくんと下げたが、一言も発することはできない。
サイトウ:いやあ、君たちの作品、聴かせてもらったよ。素晴らしいね! 特に音無さんのフォーリーアート。ただの効果音じゃない、あれはもう一つのセリフだ。情景だけじゃなく、キャラクターの感情の機微まで、雄弁に語りかけてくる。
詩織:(びくっ、と肩を震わせる)
サイトウ:それで、今回お願いしたいのは、作中でヒロインが聴いている架空のボイスドラマなんだが……。
N:打ち合わせは、主に俺とサイトウ監督の間で進んでいった。詩織は、時々俺の服の袖を掴んだり、手元の資料に視線を落としたりするだけで、完全に沈黙を守っている。
サイトウ:(資料をめくりながら)……それで、このシーンのヒロインの心情なんだが、ここは少し複雑でね。悲しみと、安堵と、未来への微かな希望が入り混じったような……。音無さんなら、どんな音で表現するかな?
N:突然、話を振られて、詩織の体が硬直する。俺は慌てて助け舟を出した。
海翔:あ、えっと、彼女は少し人見知りで……。ですが、今いただいたイメージは、しっかりインプットしているはずです。持ち帰って、二人で最高の音を創ってきます。
サイト織:ああ、いや、ごめんごめん。プレッシャーをかけるつもりはなかったんだ。ただ、君の才能に惚れ込んでいるもんだから、ついね。
N:サイトウ監督は笑っていたが、隣に座っていたプロデューサーらしき男性の表情は、少し曇っていた。コミュニケーションが取れないアーティストとの仕事に、懸念を感じているのがありありとわかった。
N:打ち合わせが終わり、俺たちは制作会社を後にした。解放感から、俺は大きく息を吐く。
SE:再び都会の喧騒。
海翔:はー、緊張したなー。でも、なんとかなりそうだ。サイトウ監督、すごくいい人だったし。
詩織:…………ごめん、なさい。
海翔:え?
詩織:……わたし……なんにも、しゃべれなくて……。きっと、こまらせてた……。
海翔:そんなことないって。言っただろ、無理に話さなくていいって。
詩織:でも……海翔くんが、わたしのぶんまで、がんばってくれて……。わたしのせいで……このはなし、なくなっちゃったら……。
N:彼女の声は、今にも消えてしまいそうなくらい、か弱かった。見ると、大きな瞳にじわりと涙が滲んでいる。俺は、まずい、と思った。彼女を無理にプロの世界に連れ出して、傷つけてしまったのかもしれない。
海翔:……ちょっと、休んでいこうか。
SE:場面転換。公園の環境音。子供たちの遊ぶ声、鳥のさえずり。
N:俺たちは、近くの公園のベンチに座っていた。詩織は、膝を抱えて俯いたままだ。
海翔:……詩織。
詩織:…………。
海翔:俺さ、今日、打ち合わせですごく嬉しいことがあったんだ。
詩織:(少し顔を上げる)
海翔:サイトウ監督が、詩織の音を『もう一つのセリフだ』って言ってくれたこと。
詩織:…………!
海翔:だろ? 俺も、ずっとそう思ってた。詩織の音は、どんな言葉よりも雄弁に、心を伝えてくれるって。だから、詩織は言葉で話す必要なんてないんだよ。
詩織:でも……しごとは……。
海翔:仕事だって同じだ。詩織は、詩織のやり方で心を伝えればいい。世界で一番すごい『音』っていう言葉を持ってるんだから。
N:俺は、詩織の頭を優しく撫でた。
海翔:次の打ち合わせまでにさ、作戦を立てようぜ。詩織だけの、最高のプレゼンの方法を。
詩織:……ぷれぜん……?
海翔:ああ。言葉を使わない、音だけのプレゼンだ。
SE:場面転換。穏やかで、前向きなBGMが流れ始める。
N:その日から、俺たちの特訓が始まった。俺は、打ち合わせで想定される質問をリストアップし、詩織は、それに対する『答え』を、音で創っていく。
SE:スタジオの環境音。海翔が紙に何かを書き込む音。詩織が様々な機材を操作し、録音する音。
海翔:よし、次。「この作品に対する意気込みを聞かせてください」
詩織:……ん。
SE:詩織がタブレットを操作する音。
SE:(バイノーラル) 静寂の中から、一つの小さな芽が土を押し上げて顔を出す、生命力に溢れた音。やがて、それがぐんぐんと成長し、大輪の花を咲かせるまでの音。最後には、希望に満ちたファンファーレのような、光り輝く音が響き渡る。
海翔:……すげえ。完璧じゃんか。これなら、百の言葉より伝わる。
詩織:(少し得意げに)ふふん。
N:彼女の顔に、久しぶりに笑顔が戻った。俺たちは、夜遅くまで、たくさんの『音の言葉』を創り続けた。それは、まるで秘密の暗号を作っているようで、すごく楽しかった。
SE:場面転換。再び、会議室の環境音。
N:そして、一週間後の打ち合わせ。前回と同じメンバーが、俺たちを待っていた。
サイトウ:やあ、二人とも、待ってたよ。それで、前回の件、イメージは掴めたかな?
海翔:はい。今日は、まず彼女から、この作品に対する想いを聴いていただいてもよろしいでしょうか。
N:サイトウ監督も、隣のプロデューサーも、少し驚いた顔をしている。俺は、詩織に目配せをした。詩織は、こくりと頷くと、震える手で、テーブルの上にタブレットを置いた。
詩織:……(深呼吸する息遣い)
N:彼女は、再生ボタンを押した。
SE:スピーカーから、詩織が創った『意気込みの音』が流れ出す。生命力に溢れ、希望に満ちたそのサウンドスケープが、静かな会議室を満たしていく。
N:聴いている三人の表情が、驚きから、感嘆へと変わっていくのがわかった。
サイトウ:……これは……。
N:音が終わると、詩織は次のファイルを再生した。それは、複雑なヒロインの心情を表現した音だった。
SE:(バイノーラル) 割れたガラスが、光の中でゆっくりと修復されていく音。その周りを、悲しげな雨音と、温かい陽の光の音が同時に包み込んでいる。最後に、小さな鈴の音が、チリン、と未来への希望を奏でる。
サイトウ:……すごい。すごいよ、音無さん。僕が頭の中で描いていたイメージ、そのものだ。いや、それ以上だ。
プロデューサー:……言葉は、いらないな。君が、この作品をどれだけ深く理解し、愛そうとしてくれているか、この音だけで十分に伝わったよ。
N:詩織は、顔を上げて、驚いたように二人を見ていた。彼女の瞳が、嬉しそうに潤んでいる。
海翔:(ささやくように)やったな、詩織。
詩織:(小さく頷く)……うん。
N:その日を境に、すべてが順調に進み始めた。詩織は、打ち合わせで言葉を発することはなかったけれど、彼女のタブレットから流れる『音』が、誰よりも雄弁に、彼女の才能と情熱を伝えてくれた。
SE:場面転換。数ヶ月の時間が経過するような、モンタージュ的な音楽。
SE:スタジオでの録音風景。海翔のセリフと、詩織が創る効果音が重なり合う。
SE:ミキシングルームでの作業風景。サイトウ監督と笑いながら話す海翔。その隣で、真剣な表情で音をチェックする詩織。
N:そして、俺たちが担当したアニメの、放送日。
SE:テレビから流れるアニメの音声。
N:俺たちは、いつものスタジオで、床に並んで座って、その瞬間を待っていた。
海翔:……緊張するな。
詩織:……うん。どきどき、する。
N:やがて、俺たちが作った劇中ボイスドラマのシーンが始まった。テレビのスピーカーから流れてくるのは、紛れもなく、俺の声と、詩織の音だった。
テレビ音声・海翔:「……君がいたから、俺は前に進めたんだ」
テレビ音声・SE:詩織の創った、温かくて優しい効果音が、海翔のセリフを包み込む。
N:それは、完璧なハーモニーだった。俺たちの半年間が、すべて、この数分間の音に凝縮されている。
N:物語が終わり、エンドロールが流れ始めた。
SE:アニメのエンディングテーマが流れる。
N:声優キャストの名前が流れていく。そして……。
海翔:……あ。
N:『劇中ボイスドラマ制作 オトノハ』
『CAST 瀬野 海翔』
『Foley Artist 音無 詩織』
N:テレビ画面に映し出された、俺たちの名前。それを見た瞬間、隣から、くすん、と鼻をすする音が聞こえた。
海翔:詩織?
N:見ると、彼女は、大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。
詩織:(涙声で)……うれしい……。わたしの、おとが……わたしの、なまえが……。
海翔:ああ。俺たちの名前だ。
N:俺は、彼女の肩をそっと抱き寄せた。彼女は、俺の胸に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。それは、悲しい涙じゃない。嬉しくて、温かくて、心の底から溢れ出した、幸せの音だった。
N:しばらくして、泣き疲れたのか、詩織が顔を上げた。目は真っ赤だけど、その表情は、今まで見た中で一番、晴れやかだった。
詩織:……ねぇ、海翔くん。
海翔:ん?
詩織:……わたしの、いまの、心の音……わかる?
海翔:ああ。わかるよ。
N:俺は、彼女の涙を指でそっと拭うと、その唇に、優しくキスをした。
SE:(バイノーラル) 優しいリップ音。
海翔:……こんな音だろ?
詩織:(幸せそうに笑って)……うん。だいせいかい。
N:俺の声には、心がある。詩織の音には、言葉がある。二人一緒なら、きっと、どんな物語だって紡いでいける。俺たちの『オトノハ』は、まだ芽吹いたばかりだ。
詩織:……海翔くん。
海翔:なんだ?
詩織:(耳元で、ささやくように)……だいすき。
N:その声は、もう、音を必要としないくらい、たくさんの感情で満たされていた。
SE:幸せなBGMが最高潮に達し、静かにフェードアウトしていく。
『君の声には、心がない』と告げられた僕が、感情を音でしか語れない“音響の魔女”と出逢い、世界で一番エモいボイスドラマを作るまで【ボイスドラマ】【G’sこえけん】 ☆ほしい @patvessel
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