水脈のある部屋

クフ

水脈のある部屋

 僕の借りた部屋には水脈がある。四畳半の部屋をぐるりと一周している。水平に。


 なぜ水脈なんだろうと、名付けた僕が考える。水脈というのは地下に埋まっているものだ。掘り起こされて、暴かれ漏出し、初めて水脈の存在を推測される。人間が水脈そのもの、水脈全体を見ることはない。フレーゲのいう「空名」に近いようで、遠いものだ。指示するものがよくわからないのに、現実には一応ある。


 そうだ現実としてそこにある。青く光る線の束がゆらゆらと漂っている。触れるとひんやりする。濡れてはいない。手を離すと時計の分針が五つ前に戻る。


 脈というのが、この穏やかな揺れに相当するのだろう。動脈、静脈、血脈、鉱脈、山脈、人脈、文脈。どれも連続的で、ゆるやかな曲線を描いている。光っているのだから光脈としても良いのかもしれないが、光という字はあまりに速い。どうせなら水としたほうが静謐で、おだやかで、方向のわからないその性質によく合っている。


 僕は手を置き続けた。水脈の通る壁に触れ続けた。触れた長さだけ、時計の針が前に戻る。そうして僕の手はどんどん小さくなり、クリームパンのようになって、指がなくなって、ただの丸になった。


 具体的にどこに行きたいという思いはなかった。ただ僕が生まれる前、生まれて存在を破壊することを決める前にまで戻りたかった。


 部屋はなくなった。水脈だけが残り、様々な人間がそのそばを通り過ぎていく。両親、祖父母、知らない人、知らない人、顔だけ何となく知っている人、教科書を読めば顔と名前が一致するかもしれない人。しかし誰もそこに触れない。今まで誰にも気づかれず、触りもしなかったのは奇跡だったのだろう。


 その間に巨大な隕石を見た。シダに覆われた一面緑の世界になった。小さなネズミが通り過ぎ、恐竜が現れる。フタバスズキリュウだったか、そんな名前の首長竜が水面から顔を出すのが見えた。何度か踏み潰されそうになったが、それでも水脈は誰にも触れなかった。


 僕自身が、水脈なんだろうか。


 そんなことを思い始めた。その頃には地球上から生き物が消え去って、延々と雨が降っていた。それから地球が赤く燃えた。隕石が絶え間なく降り注ぎ、炎が吹き上がり、それは地球が地球でなくなるまで続いた。


 地球ができる前、地球はなかった。当たり前のことだ。ここから始めて、水というものについてもう一つの組成を生み出してもいい。意味を作り直してもいい。しかし、まだ僕が生まれたきっかけになる出来事が判明していない。


 僕の周りは暗い。静謐で、おだやかで、方向もわからない。まるで水脈の環のようだ。光よりも速く、光よりも遅く、ゆるやかな曲線を描きながら初めの地点に戻る。


 一体どこで、僕は生まれることを決めたのか?宇宙の生誕まで巻き戻しても、それはわからない。あの強大なエネルギーの中に僕がいるとでもいうのだろうか。いや、そんなわけはない。何せ、僕は今ここにいる。


 水脈の環の中に、僕はいる。


 そうか、と思って、僕は手を離した。

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水脈のある部屋 クフ @hya_kufu

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