夏の妖精

音多まご

まつり

『にぃに、これほしい』

 

 いつかの夏祭り。幼い妹がそう指さした先にあったのは、カラフルに光る羽のおもちゃだった。


 ずらりと並ぶ光るおもちゃの中で、最も値が張るものだったから、買うべきか迷った。しかしそんな僕を受けて、妹が小さな口をへの字に曲げ、潤んだ目でこちらを見つめてきたので、僕の中で買わないという選択肢はなくなった。


 中学に上がってから両親が増やしてくれたお小遣いを使って、屋台のおじさんから羽を受け取る。おじさんが微笑ましそうにこちらを見つめていて居心地が悪かったが、僕は買った羽を妹に装着させてやった。


『えへへっ、にぃに、ありがと! ピカピカしてる!』

『どういたしまして。似合ってるな、それ』

『うん! でも、にぃにのお金へっちゃったね。どんまい!』


 さっきのしゅんとした表情は、きっと半分くらいは僕に買わせるための演技だったのだろう。けれど、いたずらな顔を浮かべる妹に対して僕は怒る気になんかなれず、なんなら笑みが零れていた。


 そうだ、この時の妹が、僕にはまるで──




「…………夢、か」

 

 あまりにも懐かしくて、ため息が漏れ出てくる。確かあれは、六年前、妹がまだ僕にべったりだった頃の夏祭りだ。当時の僕は、齢六才だった妹に嫌われたくなくて、とにかく甘やかしていた記憶がある。


 だけど、あの頃の妹はもういない。僕たちの間にはいつも気まずい空気が流れていて、それを改善したいと強く思ってはいるけれど、一歩踏み出すこともできていない。そんな自分がとてつもなく情けない。


 また僕のことを『にぃに』と呼んでくれたら嬉しさのあまり号泣するかも、なんて馬鹿なことを考えながら、ベッドの上から勉強机を見やった。──お、

 ベッドから降りて、机に貼ってあるメモ書きに近づいていく。


 そこに書いてあった文とは、こうだ。


『コーララムネ、ふがし、にんじんを買ってくれば今日はいい日になるでしょう』


「……駄菓子?」


 謎の置き書きは、夏休みに入ってから今回で三回目。メモには必ず、丸っこい文字で一文が添えられている。


 一回目は、朝起きたら部屋から漫画や中学のときの参考書が消えていた。二回目は、なぜかカブトムシを捕りに行かされた。意味不明である。そして今回は、駄菓子を買いに行かされるらしい。──要はパシリだ。


 僕は、このメモのことを勝手に『妖精のいたずら』と呼んでいる。人をパシリにする妖精とは、まったく世も末だ。けれど、最もしっくりくるのがこの言葉だった。


 僕にいたずらをして、困惑させて、でも確かな交流を生んでいる。昔読んだ童話に、そんな妖精が登場した気がするな、と思う。


 午後は暑いので、午前中で終わらせたい。僕は支度をするため、部屋から出た。

 朝ごはんを食べ、身だしなみを整えてから玄関に行くと、後ろから声が掛かった。


「あら? りょう、どこ行くの?」

「……ちょっと、駄菓子屋に?」

「うっふふ、なんでよ。まあ良いわ、途中で倒れないでね」

「分かった。行ってきます」


 笑いながら、お母さんは「行ってらっしゃい」と返してくる。そんなにおかしいだろうか、僕が駄菓子屋に行くことが。……いや、かなりおかしいな。


 家の外は、朝でもやっばり暑い。空を見上げてみると、肌だけではなく髪の毛や眼球までじりじりと焼かれている感覚になる。雲が多めなのが救いだ。


 ここから十五分ほど歩き続ければ到着するわけだが、そのときには汗がだらだら出ているだろう。せめて日傘くらい、持ってくればよかった。


 そんなことを心の中で延々と考えていたら、あっという間に到着した。汗は思ったよりも出ていなかった。


 ここの駄菓子屋は、特別広いわけではないが外と中が完全に隔離されているので、冷房がしっかり効いているのが特徴だ。中はあまりにも天国すぎた。


 コーララムネ、ふがし、にんじん。ぶつぶつ唱えていると、すぐに全部見つかった。最近は値上がりの波が来ているが、それでも駄菓子は安いのでとても助かる。

 ついでにアイスも手に取る。皆さんご存知、スイカバーだ。なんだか、久しぶりに食べたくなったのだ。


 達成感を覚えながらレジへ向かうと──はたと気づく。セルフレジだ。セルフレジに、なっている!

 前回来たのが五年くらい前だから、システムが変わるのも当然だ。僕は感動しながら会計を済ませた。



「うめぇ……つめてぇ……」

 

 外のベンチに座って、アイスをかじる。雲が暗い色になっていた。うだるような暑さに、空間が歪んでいるかのような感覚に囚われるが、セミの鳴き声で現実に連れ戻される。

 まさに夏という感じだ。こうして郷愁に浸ることができるのなら、わざわざ外出する甲斐もある。


 ──そんな僕の穏やかな気分にひびを入れたのは、無邪気な笑い声だった。左側から、二人の少年が走ってくる。


 どうやら目的地は、駄菓子屋の前に鎮座しているガチャガチャだったらしい。

 出てきたカプセルを開けて、二人は残念そうな声を出す。


「えー、オレ、これもう持ってんだけど! 三個目じゃねーか!」

「ぼくも持ってる。シークレット……ほんとにあるの……?」


 可哀想に思えてきて少年たちをじっと見つめていると、目が合った。

 二人は僕をめがけて歩いてくる。目の前まで来ると、元気な方の少年が言った。


「にーちゃん。オレたちの代わりに回してくれ!」

「えぇ……僕が? いいの?」

「おう! 金のことは心配すんな!」

「ぼくが出す」


 それなら、お言葉に甘えるとしよう。


「よし、僕に任せろ少年たち!」


 アイス片手にガチャガチャへ向かう。値段を確認すると、四百円だった。……小学生にはちょっとキツくないか、これ。


 落ち着いた方の少年がコインを入れてから、僕は右手でハンドルを回した。出てきたカプセルは、なんと漆黒だった。


「うおぉ……! これ、もしかして!」

「……シークレット……」

「「エクストラうんこ!!」」

 

 見事に声がハモっていた。僕は笑いを堪えながら、カプセルを手渡した。二人は嬉々とした表情で漆黒のカプセルを開ける。

 中から出てきたのは──首に金色のうんこを乗せたティラノサウルス。


 ……これがシークレットか。まあ、うん。確かに特別感はある。


「良かったな、少年たち」


 二人の目が僕の方を向く。


「にーちゃん、名前は!?」

「椋だよ」

「りょーにーちゃん……ありがとう。ぼく、嬉しい」


 落ち着いた方の少年が、歯を見せて顔を崩した。満面の笑みだ。

 こそばゆい思いになりながら、「僕はそろそろ帰るよ」と言うと、二人がTシャツの裾を掴んできた。


「うっし、りょーアニキ! オレたちはいつもこの辺で遊んでるから、また会おうな!」

「ばいばい、にーちゃん」

「うん。またね、少年たちよ」


 最初は暑くて少し憂鬱だったが、結果的には良い体験をした。溶けそうなスイカバーを、手がベタベタになる前に急いで食べる。


 晴れ渡った僕の気分とは対照的に、一面に広がる空はとても機嫌が悪そうだった。

 というか、もうポツポツと降っているし、雷の音も聞こえる。

 

 急いだ方が良いのだろうが、別に濡れたとしても今日は気ままに過ごせるので、ゆっくり歩くことにした。


 さっきの少年たちを思い出す。僕にもああいう、恐竜やうんこが大好きだった時代がきっとあった。昔の僕は大人からあんな風に見えていたんだな、と苦笑する。


 夏休みに、屋外で元気に遊び回る子どもというのはもう希少なのかもしれない。だから、そんな風景をまた見せてくれた妖精さんには感謝を捧げたい。


 家に着いた頃には、服はびしょ濡れになっていた。雨脚は強まるし空には稲妻も走るしで、典型的な夏の不安定な天気だ。ドアの前で服を絞ると、思った以上の水が地面へと逃げていった。自然に戻れて良かったね。


 だいたいの水気がなくなってから家の中へ入ると──なんと妹の茉莉まつりが、玄関で体育座りをしていた。手にはタオルが握られている。


 僕は驚きながら、彼女に尋ねた。


「ま、茉莉。どうした、待っててくれたのか?」

「別に待ってないけど。これで体拭いて、シャワー浴びてきて。……お兄ちゃん、風邪ひきやすいでしょ」


 実にそっけない態度だが、僕を心配してくれているのは分かる。その証拠に、彼女の顔には翳りが見えた。


「分かった。ちょっくら浴びてくるよ」

「……うん」

 

 僕を不安げに見つめる茉莉に、明るい表情で返してやった。この程度で風邪なんてひかないから安心してほしい。


 部屋に荷物を置いてからシャワーを浴びようと思ったが、先に浴びろと圧をかけられているようだったので、バッグは脱衣所に置いておくことにする。


 シャワーを浴び、着替えてから涼しいリビングに移動すると、身体がポカポカしているのをよく感じた。扇風機の風が気持ちいい。

 ひとしきり涼んだら、バッグを持って部屋に向かった。中身は無事なようだ。なくなっているはずもないのだが。


 買ってきた駄菓子を机に並べてみる。大小さまざまな三つをメモの近くに置くと、少し異様な風景になった。こうしておけば、明日の朝には消えているだろう。


 お昼ご飯というにはまだ早いので、どうやって時間を潰そうか。とりあえず髪を乾かすべきか悩んでいると、ドアがノックされた。


 両親は仕事に行っているはずなので、向こうにいるのは茉莉しかありえない。彼女が僕の部屋を訪ねるなんて、珍しいこともあるものだ。


「入っていいよ」


 そう言うと、ゆっくりした足取りで茉莉が入ってきた。

 彼女は俯きながら、開口一番にこう切り出した。


「ごめんね、お兄ちゃん」


 ──このときの僕は、きっと間抜けな面をしていたに違いない。謝られる理由が分からなくて、ただ申し訳なさそうにしている茉莉の顔を凝視することしかできなかった。


「な、なんで謝るんだよ。別に、なにも悪いことしてないだろ。むしろ謝るべきなのは、びしょ濡れで帰ってきた僕だと思うけど」

「した。悪いこと、した」


 茉莉は僕に近づいてくる。その顔は、僕と同じで困惑が混じっているように見える。


「ねぇ、気づいてるでしょ。分からなかった、なんてことはないはず。なんで怒らないの、とぼけなくていいから」

「どういう──」

「私が、あのメモ書いてるって」


 部屋中に静寂が広がる。今にも泣き出しそうな愛しい妹に、僕はどう反応するのが正解なのだろう。

 もちろん、気づいていた。気づかないはずがない。筆跡は完全に茉莉のものだし、メモの紙にも見覚えがあった。


 でも、迷惑だなんて一度も思わなかった。昔のようにまた仲良くしたいと思いながらもどうすればいいのか分からなかった僕に、茉莉の方から歩み寄ってくれた。だから、僕は──


「嬉しかった」

「……え?」

「そう、嬉しかったんだ。初めは驚いたけど、可愛い妹にいたずらされて怒るような兄じゃないよ、僕は。とりあえず茉莉、顔を上げて」


 ずっと俯いたままだった彼女を促すと、しぶしぶこちらを向いてくれた。その目は潤んでいるようだった。


「嬉しいって、なんで。なんで怒らないの。意味わかんない、ふつう迷惑でしょ」

「迷惑なんかじゃないよ。その……茉莉と遊んでるみたいな感じで、楽しかったし」

「ほ、ほんとに……? 無理して言ってないよね……?」


 どう言えば信じてくれるのだろうか、この妹は。


「えーと……お兄ちゃんの言うこと、信じられない? 僕ってそんなに信用ないのかなぁ」

「そ、そういうわけじゃない……! お兄ちゃんはずっと、頼れるお兄ちゃん、だから……」


 僕がおどけて言ってみせると、茉莉は慌てたように否定する。どうしよう、僕の妹が可愛すぎる。

 かなり久々に頭を撫でてやると、特に手を振り払ったり機嫌を悪くしたりせず、すんなり受け入れてくれた。


「あのね……私の話、聞いてほしいんだけど」

「うん」


 もちろん、なんでも聞くつもりだ。頭に乗せていた手を離し、彼女に向き合う。


「お兄ちゃん、去年とか一昨年は受験勉強で忙しそうで、なんか話しかけづらくて……ほんとはもっと、遊んだりしたかったんだけど、そんな勇気なかったから」


 確かに、会話がめっきり減ったのはその頃だった。


「でも、今年は受験が終わって大学生になったから、いっぱい話したいって思っていろいろ考えてたんだけど、そうしてたら夏休みになってて……もっと早く、こうやって腹を割って話したかったのに」

「……僕と同じこと思ってたんだね。ごめん、僕からいくべきだったのに。兄失格だ」

「ううん、それは別にいい。そこで申し訳なく思わないで。お互い様でしょ。──そう、それで……直接話すのは無理そうだったから、とりあえず文通みたいなのをしてみようって思って。一方的なものだけど」


 茉莉の口はまだ止まらない。


「でも、こんなんでほんとにいいのかなって思って……思い始めたら止まらなくて……まともに話しかけることもできない自分が嫌になってたら、ちょうど今日、ゲリラ豪雨きたでしょ」


 ピークはもう過ぎたが、今も外では遠くで雷が鳴っている。


「お兄ちゃん、傘持ってなさそうだと思ったけど、それなら私のせいで雨に濡れることになるから、さすがにもう怒られるかなって覚悟して待ってたのに、怒らなかった……!」

「雨に打たれたのは確かにちょっと嫌だったけど、それ以上に今日は楽しかったから」

「……やっぱり優しいね、お兄ちゃんって。話さない間に変わっちゃってるかもって、怖かった、私」


 僕は、昔と変わっていないのだろうか。自覚はなかったが、茉莉を安心させることができたのなら良かったと思う。


「逆に茉莉は変わったよな。昔はあんなに僕にべたべたしてたのに……」

「こ、子どもなんてそんなもんでしょ! 思い出さないでくれる?」


 不満そうにしている彼女は、なかなかからかいがいがある。しかし、これで機嫌を損ねられてしまっても困るので、ほどほどにしておく。


「そうだ、あのカブトムシ、私の部屋でちゃんと飼ってるから。今朝もゼリーあげといた」

「それは良かった。死なせないでくれよ……?」

「そりゃあ、大切にするに決まってる」


 そういえば、茉莉は昔から虫が好きだった。彼女は彼女で、変わっているようで変わっていない。


「この駄菓子も、ちゃんと食べてくれよ」


 僕は机を指さして言う。

 

「もちろん。あ、でも……にんじんは一人じゃ多いから、一緒に食べてくれる?」

「じゃあ、今日のおやつにでもしよう」

「うん……!」


 控えめにはにかむ茉莉は最高に可愛い。守りたい、この笑顔。


「そ、それと……勉強教えて。数学難しくて」


 恥ずかしそうに、小声で告げる彼女。中学に上がって急に出てきた数学に戸惑うのも無理はない。中学の内容くらいは上手に教えられるはずだ。


「それじゃあ、おやつの後にやろう。……お兄ちゃんはスパルタだぞ?」

「ふふっ、受けて立つ!」


 僕に向かってドヤ顔をする茉莉なんて、いつぶりだろう。

 ひどく面白いもののように見えて、思わず吹き出してしまった。


「なんで笑うの。……まぁいいや、リビング戻るね」

「了解。来てくれてありがとうな、茉莉」

「……うん、来てあげてどういたしまして。意気地無しのお兄ちゃんっ」


 そう言っていたずらに笑う彼女は、夢で見たあのときの表情とよく似ていた。

 僕にとって茉莉は、きっと今も昔も──妖精みたいな存在だ。


 たぶん僕は、変わっていないのではない。ただ、僕たち兄妹の時間が数年間停止していたせいで、昔と同じ接し方しかできていないだけだ。でも、今日この時から動き出した。


 この夏休みに、彼女と何をしようか。とりあえずは、あの夏祭りに誘ってみよう。お祭り好きの茉莉は、きっと喜んでくれるだろう。

 今日のおやつのときには、エクストラうんこの話もしてやろう。どんな反応をしてくれるか楽しみだ。


 そうやって、僕たち兄妹は思い出の埋め合わせをしていく。そして、埋め終わったら今度は積み重ねていけばいい。そんな、単純な話なのだ。

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夏の妖精 音多まご @nacknn10

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