静寂図書館のキミは、心の声がうるさすぎる【ボイスドラマ】【G’sこえけん】
旅する書斎(☆ほしい)
第1話
僕の大学生活は、図書館の匂いで満たされている。
古い紙とインクが混じり合った、少しだけ甘くて、埃っぽい匂い。そして、張り詰めた静寂の匂い。僕はその匂いが好きだった。
サークルの喧騒や、講義室のざわめきから逃れるように、僕はいつも図書館の三階、窓際の閲覧席へと向かう。そこが僕の定位置。僕だけの聖域。
そして、その聖域には、いつも一人の女神がいた。
月城栞(つきしろ しおり)。
文学部の三年で、僕の一つ上の先輩。
艶のある黒髪を肩まで伸ばし、雪のように白い肌を持つ彼女は、まるで精密に作られたビスクドールみたいに完璧な容姿をしていた。
彼女もまた、僕の向かいの席を定位置にしていた。
凛とした背筋。本をめくる細く白い指。時折、長い睫毛が伏せられ、その影が知的な光を宿す瞳に落ちる。その一つ一つの所作が、一枚の絵画のように美しかった。
彼女は誰とも話さない。いつも一人で、分厚い専門書か、海外の古典文学を静かに読んでいる。その近寄りがたい雰囲気から、彼女は陰で「氷の女王」と呼ばれていた。
もちろん、僕も彼女と話したことなんて一度もない。ただ、この静寂の空間を共有するだけの、名前も知らない他人同士。
それでも、僕は彼女の存在に救われていた。
彼女がいる。それだけで、この無機質な図書館が、特別な場所に思えた。
その日も、僕はいつものように月城さんの向かいの席に座り、レポートの資料を広げていた。外は朝から雨が降り続いている。窓ガラスを叩く雨音が、図書館の静寂をより一層際立たせていた。
SE:静かな雨音、ページをめくる音
僕は集中しようと、必死に文献の文字を追う。だが、どうしても意識が月城さんの方へ向かってしまう。
今日の彼女は、白いブラウスにネイビーのフレアスカート。清楚、という言葉がこれほど似合う人もいないだろう。
(ああ、今日も綺麗だな……)
そんなありきたりな感想を胸に秘め、僕は彼女から視線を外し、自分の手元にあるシャーペンに意識を戻した。
カチ、と芯を出す。その小さな音ですら、この空間では大きく響く気がした。
その、時だった。
『はぁ……今日も素敵……。あのレポートに向かう真剣な眼差し、最高……。ちょっと眉間に皺が寄ってるのも、知性的で……って、だめだめ! 見すぎ! 私、見すぎ!』
凛とした、よく通る声が、鼓膜を直接揺さぶった。
僕は驚いて顔を上げた。周囲を見渡す。でも、誰も話していない。司書カウンターの職員も、他の学生も、皆一様に静寂を守っている。
空耳……? 疲れているんだろうか。
僕は首を振り、再びレポートに集中しようとした。
だが、また聞こえてきた。
『ポーカーフェイス、ポーカーフェイスよ、私。月城栞は氷の女王。動揺なんてしない。でも、でも! さっき目が合った気がする! いや、気のせい? 自意識過剰? ううん、でもコンマ一秒くらいは合った! 運命! これはもう運命としか言えない!』
声は、明らかに月城さんの方向から聞こえてくる。
でも、彼女の唇は固く結ばれたままだ。表情一つ変えず、手元の本に視線を落としている。
まるで、腹話術でも使っているかのようだ。いや、そんな馬鹿な。
混乱する僕をよそに、その「声」は止まらない。
『ああ、シャーペンの持ち方、綺麗……。指、長い……。あの指で、もし、もしも……頭とか撫でられたりしたら、私、たぶん沸騰して蒸発する。人類の叡智の結晶であるこの図書館で、ただの水蒸気になって消える……。それはそれで本望かもしれない……』
僕は、自分の耳がおかしくなったのだと本気で思った。
これは、月城さんの声だ。少しだけ高揚していて、早口で、僕が今まで一度も聞いたことのない、感情豊かな声。
そして、その内容は……僕に対する、あまりにも熱烈な賛辞の嵐だった。
これが、僕と月城栞の、奇妙で、騒がしくて、そしてひどくもどかしい日々の始まりだった。
*
あの日以来、僕の日常は一変した。
図書館の静寂は、月城さんの心の声によって、けたたましい喧騒へと変わった。
彼女の思考は、僕の脳内にダイレクトで流れ込んでくる。それはまるで、音量調節のできないラジオを、四六時中聞かされているようなものだった。
SE:図書館の環境音、ページをめくる音、微かな衣擦れの音
ある日の午後。僕はいつもの席で、経済学の分厚い教科書と格闘していた。
『うう……難しい……。ケインズ経済学、完全に理解した、って思った次の瞬間にはもう全部忘れてる。私の脳みそ、ザルなのかな。でも、彼も同じ教科書読んでる……。同じ苦しみを分かち合ってる……! それだけで、この難解な数式も愛おしく思えてくるから不思議。頑張れ、私の脳細胞! 彼と共に、この経済の荒波を乗り越えるのよ!』
僕は思わず噴き出しそうになるのを、必死で堪えた。咳払いで誤魔化し、口元を隠す。
向かいの月城さんは、僕の咳払いにビクッと肩を揺らし、本で顔を隠してしまった。
『今の咳払い、絶対私のことだ! 心の声、聞こえてる!? まさか! そんなSFみたいなことあるわけない! でも、もし聞こえてたら……? 恥ずかしすぎて、地球の核まで潜りたい。マントル突き抜けて、核まで。そしてドロドロに溶けてなくなりたい……』
聞こえてます。すごく、クリアに。
でも、そんなこと言えるはずもない。
僕は彼女を不安にさせないように、何でもないという風を装って、再び教科書に視線を落とした。
彼女の心の声は、実に多彩だった。
僕への過剰なほどの賛美。学業への真摯な悩み。時々、昨晩見たアニメの感想が暴走することもあった。意外にも彼女は、バトル系の少年漫画やロボットアニメが好きらしかった。
『昨日の「蒼穹のヴァルキリー」最終回、号泣だった……。主人公がライバルに言った「お前がいたから、俺はここまで飛べた」って台詞……。うう、思い出しただけで涙が……。彼にとってのライバルが、私にとっての……ううん、なんでもない!』
クールな外見と、脳内のオタクっぷりのギャップが凄まじい。
僕は、日に日に彼女の新たな一面を知っていった。
そして、知れば知るほど、彼女への興味と、そして好意が深まっていくのを感じていた。
ある時、彼女が必死に何かを探しているのが、心の声でわかった。
『ない、ない、ない! どうして! 昨日、この図書館で借りたはずなのに! 「近代フランス詩集」、どこに行ったの!? 返却日、今日までなのに! 延滞なんて、私の人生の汚点……! ああ、どうしよう、神様、仏様、図書館の神様……!』
彼女は青い顔で、自分のバッグの中を何度も改めている。
僕は、ふと自分の隣の席に目をやった。そこには、一冊の本が置き忘れられている。背表紙には「近代フランス詩集」の文字。おそらく、前に座っていた学生が忘れていったのだろう。
僕は、どうするべきか迷った。
直接「これ、あなたが探してる本ですか?」と声をかける?
いや、だめだ。なぜ僕が彼女の探している本を知っているのか、説明がつかない。心の声が聞こえるなんて、絶対に信じてもらえないだろう。
僕はしばらく考えた後、一つの方法を思いついた。
そっと立ち上がり、その本を手に取る。そして、司書カウンターへと向かった。
「すみません、これ、そこの席に忘れ物であったんですけど」
司書は「ありがとうございます」と受け取り、館内放送のマイクを手に取った。
SE:館内放送のチャイム
「三階閲覧席をご利用のお客様にお知らせいたします。『近代フランス詩集』のお忘れ物がカウンターに届けられております。お心当たりの方は、カウンターまでお越しください」
放送を聞いた瞬間、月城さんの心の声が、歓喜の叫びを上げた。
『あったーーーーー! 神はいた! 図書館の神様、ありがとう! 届け出てくれた名も知らぬ誰かさん、あなたには一生分の幸せが訪れる呪いをかけときます! ありがとう、本当にありがとう!』
彼女はパタパタと軽い足音を立ててカウンターへ向かい、本を受け取ると、深々と頭を下げていた。そして、自分の席に戻ってくると、安堵のため息をついた。
『よかった……。本当に良かった……。それにしても、誰が届けてくれたんだろう。すごく親切な人だな……。もしかして、彼だったりして……? いやいや、まさかね。でも、もしそうだったら……素敵すぎる……』
彼女はチラリと僕の方を見た。
僕は気づかないふりをして、教科書のページをめくる。
心臓が、少しだけ速く脈打っていた。
彼女の役に立てたことが、素直に嬉しかった。そして、彼女の心の声が、僕の行動一つでこんなにも明るくなるのを聞いて、胸が温かくなった。
こんな奇妙な能力も、悪くないのかもしれない。
僕は、そう思い始めていた。
*
季節は夏になり、図書館には冷房の低い唸り声と、テスト期間の学生たちの焦りが満ちていた。
僕と月城さんの「静かなる攻防」にも、少しずつ変化が訪れていた。
僕は、彼女の心の声から得た情報を元に、ささやかな手助けを続けた。
彼女が「今日は少し肌寒い」と心で呟けば、僕はさりげなく空調の温度を上げるよう司書に頼んだ。
彼女が「この作家の別の本も読んでみたい」と思えば、僕はその本を借りてきて、わざと彼女の見える場所に置いたりした。
その度に、彼女の心の声は、僕への好意と、ありえない偶然に対する混乱とで、大騒ぎになった。
『なんで!? なんで私が寒いってわかったの!? エスパー!? 私の守護霊と交信してるの!?』
『この本! 私が読みたいって思ってたやつ! なんで彼が持ってるの!? 私の脳内、Wi-Fiみたいに駄々洩れなの!? パスワードかけなきゃ!』
彼女の反応は、僕にとって何よりの娯楽であり、癒しだった。
しかし、そんな日々が続くうち、僕の中に一つの欲が芽生え始めていた。
(彼女と、話してみたい)
心の声じゃない、本当の声で。
視線を交わし、言葉を交わす、ごく普通のコミュニケーションが取りたい。
でも、きっかけがない。僕には、彼女に話しかける勇気がなかった。彼女が僕をどう思っているか、心の声で知っているからこそ、余計に臆病になってしまう。もし、僕が何か失敗をして、彼女の心の声が幻滅に変わってしまったら……そう思うと、足がすくんだ。
そんなある日、事件は起きた。
その日は閉館間際で、図書館には僕と月城さん、そして数人の学生しか残っていなかった。
僕はレポートの最終チェックを終え、帰り支度をしていた。月城さんも、本を閉じて片付けを始めている。
『よし、今日も頑張った。あとはこれを提出して……あ、やばい。ボールペン、インク切れた。替えもない……。まあ、家で書けばいいか』
彼女がそう思った、次の瞬間だった。
ガタッ!
大きな音と共に、僕たちのいる閲覧室の照明が、半分ほど消えた。
そして、窓の外で、雷鳴が轟いた。
SE:大きな物音、照明が消える音、激しい雷鳴と雨音
突然の出来事に、館内がざわつく。
どうやら、落雷で一部の電源が落ちてしまったらしい。
『ひっ……!』
月城さんの、短い悲鳴のような心の声が聞こえた。
見ると、彼女は椅子の上で小さく体を縮こまらせ、震えている。
『雷……こわい……。小さい頃から、これだけはダメなのに……。大丈夫、大丈夫、私は氷の女王……。雷ごときで動揺したりしない……。しないったら、しない……!』
強がる心の声とは裏腹に、彼女の体は正直だった。指先が小刻みに震え、顔は青ざめている。
僕は、見ていられなかった。
気づけば、僕は自分の席を立ち、彼女の隣に歩み寄っていた。
「あの……」
僕が発した、か細い声。
月城さんはビクッと肩を震わせ、驚いたように僕を見上げた。潤んだ瞳が、不安げに揺れている。
初めて、こんなに近くで彼女の顔を見た。
「だ、大丈夫ですか?」
我ながら、情けない声だった。
彼女は、何も言わない。ただ、こく、と小さく頷くだけ。
『え……? え? なんで? 話しかけられた……? 私、今、彼に話しかけられてる……? 雷の恐怖と、不意打ちの接触で、心臓が持たない……!』
彼女の脳内は、パニック状態に陥っていた。
僕は、どうにかして彼女を落ち着かせなければ、と思った。
「これ、使ってください」
僕は、自分のカバンから予備のボールペンを取り出し、彼女の机にそっと置いた。
「さっき、インクが切れたみたいだったから」
言ってしまってから、ハッとした。
しまった。
なぜ、彼女のボールペンのインクが切れたことを知っている?
心の声を聞いていたことが、バレてしまう。
月城さんの目が、大きく見開かれた。
彼女の心の声が、ピタリと止んだ。
図書館の静寂よりも深い、完全な沈黙が、僕の頭の中に訪れた。
まずい。何か言わなければ。
「あ、いや、その……さっき、書くのをやめて、ペン先を見てるのが見えたから……もしかして、インク切れかな、なんて……」
我ながら、苦しすぎる言い訳だ。
彼女は、じっと僕の顔を見つめている。その瞳は、疑いや恐怖ではなく、何か別の色を宿しているように見えた。
やがて、彼女の唇が、ゆっくりと開いた。
「……ありがとう、ございます」
それは、僕が初めて聞いた、彼女の本当の声だった。
少し低めで、澄んでいて、心の声とは全く違う、落ち着いた響き。
でも、その声は、微かに震えていた。
『……優しい』
ぽつり、と。
止まっていた心の声が、再び聞こえてきた。
それは、いつものような騒がしいものではなく、水面に落ちた一滴の雫のように、静かで、穏やかな響きだった。
『……私のこと、見ててくれたんだ』
その声を聞いた瞬間、僕の胸に、じわりと温かいものが広がった。
ああ、そうか。
僕は、ただ、彼女と話したかっただけじゃない。
僕も、彼女に、僕の気持ちを知ってほしかったんだ。
外では、まだ雷が鳴り続けている。
でも、僕たちの間には、もう恐怖も、混乱もなかった。
ただ、ぎこちない沈黙と、ボールペン一本分の、確かな繋がりだけが存在していた。
「あの、もしよかったら……」
僕は、勇気を振り絞って、次の言葉を紡いだ。
「一緒に、帰りませんか? 一人だと、まだ怖いでしょう?」
月城さんは、一瞬、息を呑んだ。
そして、彼女の心の声が、僕が今まで聞いた中で、最も大きな声で叫んだ。
『…………はいっ!!!!!!』
しかし、彼女が実際に口にしたのは、
「……はい」
という、蚊の鳴くような、小さな小さな肯定の言葉だった。
その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
僕たちは、小さな傘に二人で身を寄せながら、雨の降る夜道を歩いた。
彼女の心の声は、相変わらず僕の隣で「近い!」「腕が触れてる!」「幸せすぎて爆発しそう!」と大騒ぎしていたけれど。
その騒がしさが、今はひどく心地よかった。
僕の奇妙な能力が、この先どうなるのかはわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
僕は、もう、図書館の静寂だけを求めることはないだろう。
僕の聖域は、もう、あの閲覧席だけじゃない。
彼女の心の声が聞こえる、彼女の隣こそが、僕の新しい居場所になったのだから。
これからも、僕の耳元では、彼女のうるさいくらいの心の声が響き続けるのだろう。
それも、悪くない。
いや、むしろ、最高だ。
僕は、隣で俯きがちに歩く彼女の横顔を盗み見て、そっと微笑んだ。
***
あの雷の夜から、僕と月城さんの関係は、静かに、けれど確実に変わり始めた。
SE:雨音、傘に当たる雨粒の音、二人の歩く足音
小さな折り畳み傘の下、僕たちはほとんど無言で夜道を歩いた。
触れ合う肩の熱と、隣から聞こえてくる彼女の心の声だけが、やけに現実味を帯びている。
『どうしよう、どうしよう! 肩、当たってる! 彼の体温が伝わってくる! 服越しなのに! 私の右半身、もうすぐ発火する! 自己発火能力に目覚めちゃう!』
時折、強い風が吹くと、彼女は無意識に僕の腕に体を寄せる。その度に、心の声は悲鳴に近い歓声を上げた。
『うわあああ! 今、腕が! 腕が密着した! これはもう不可抗力! 運命のいたずら! ありがとう雷様! ありがとう低気圧! あなたがたのおかげで、私の人生は今、最高潮です!』
僕は、そんな彼女の内心の嵐を知りながら、平静を装うのに必死だった。
駅までの、ほんの十分ほどの道のりが、永遠のように長く、そして一瞬のように短く感じられた。
駅の改札前、屋根のある場所で立ち止まる。
彼女は僕から少し距離を取り、濡れた髪を指で梳いた。その仕草が、なぜかひどく艶めかしく見えた。
「あの……今日は、ありがとうございました。送ってもらって、助かりました」
彼女の本当の声は、まだ少し緊張で震えている。
『お礼、言えた! ちゃんと、言えた! でも、これで終わり? このまま解散? 嫌だ、嫌だ! もう少しだけ、あと五時間くらい一緒にいたい!』
僕も同じ気持ちだった。このまま別れてしまうのは、あまりにも惜しい。
僕はポケットを探り、スマートフォンを取り出した。勇気を振り絞る。今日、何度目かの大きな勇気だ。
「あの、月城さん。もし、よかったら……連絡先、交換しませんか?」
僕の言葉に、月城さんは息を呑んだ。
そして、彼女の心の声が、完全にフリーズした。
『………………………………え?』
長い、長い沈黙。
僕の頭の中も、駅の喧騒も、何もかもが遠のいていく。
断られるだろうか。さすがに、調子に乗りすぎたか。
『……れ、連絡先? 私が? この、月城栞が? 彼と? あの、いつも目で追っていた憧れの君と? 夢? これ、夢? 誰か私の頬をつねって! いや、つねったらこの夢が覚めちゃう! だめだ、どうすれば……!』
数秒後、再起動した彼女の脳内は、これまでで最大級のパニックに陥っていた。
彼女は、おずおずと自分のバッグからスマートフォンを取り出す。その手は、小刻みに震えていた。
「……はい。ぜひ」
そう言って差し出されたスマートフォンの画面には、QRコードが表示されている。
僕はそれを読み取り、自分の名前を送信した。
SE:スマートフォンの操作音、通知音
彼女のスマートフォンが、ちいさく音を立てる。
彼女は、その画面を食い入るように見つめていた。
『名前……! 彼の名前が、私のスマホに……! 歴史的瞬間! 今日は記念日! 国民の祝日に制定すべき! 赤飯炊かなきゃ!』
僕たちはぎこちなく挨拶を交わし、それぞれの改札へと向かった。
ホームで電車を待つ間、僕はさっそく届いたメッセージを開く。
『月城栞です。今日は本当にありがとうございました』
たったそれだけの、短い文章。
でも、その向こう側で、彼女がどんな顔でこの文章を打ったのかを想像すると、自然と口元が緩んだ。
*
翌日の図書館は、少しだけ気まずい空気に満ちていた。
いつもの席に座ると、向かいにはすでに月城さんがいた。目が合うと、彼女は気まずそうに、しかしどこか嬉しそうに、小さく会釈をした。僕も頷き返す。
SE:図書館の環境音、椅子のきしむ音
たったそれだけのやり取り。
でも、昨日までとは明らかに違う。僕たちの間には、透明な壁が一枚、取り払われたような感覚があった。
『あああ、目が合った、会釈された……! 昨日のお礼、ちゃんと言わなきゃ! でも、なんて言えばいいの? 昨日はありがとう、でいい? それとも、昨日の雷、すごかったですね、から入るべき? 天候の話はコミュニケーションの基本だって、おばあちゃんが言ってた!』
彼女の脳内は、朝からフル回転だ。
僕は、そんな彼女の葛藤を微笑ましく思いながら、自分の本に意識を向けた。
しかし、今日はどうにも集中できない。彼女の心の声が、いつも以上に僕の意識を引き寄せる。
しばらくすると、僕のスマートフォンが短く震えた。
机の下でこっそり確認すると、月城さんからのメッセージだった。
『レポート、順調ですか?』
僕は顔を上げた。
彼女は、本を読んでいるふりをしながら、チラチラと僕の様子を窺っている。
『送っちゃった、送っちゃった! 図書館にいるのにメッセージ送るなんて、変に思われたかな!? でも、声は出せないし! これが私たちの最適解なはず! そうよ、これが静寂の中のコミュニケーション! 新しい時代の幕開けよ!』
僕は、彼女の必死さが愛おしくて、思わず笑みがこぼれた。
すぐに返信を打つ。
『なんとか。月城さんこそ、集中できてますか?』
すぐに既読がつき、彼女の肩が小さく跳ねた。
『できてますか?ですって! 私の心配してくれてる! 優しい! 好き! 無理! 集中なんてできるわけないじゃないですか! あなたが目の前にいるのに! この気持ち、どうしてくれるんですか!』
彼女は、顔を真っ赤にして本の中に顔を埋めてしまった。
僕たちの、声を出さないおしゃべりは、それから閉館時間まで続いた。
レポートの進捗状況、おすすめの本、好きな映画の話。
文字だけの会話だったけれど、僕には彼女の感情豊かな声が、すぐ隣で聞こえているような気がした。
*
季節は秋へと移り変わっていた。
図書館でのメッセージのやり取りは、僕たちの日常になった。
そして、僕たちの関係は、図書館の外へも少しずつ広がっていった。
初めて一緒に昼食を食べたのは、メッセージのやり取りを始めてから一週間後のことだった。
SE:学食のざわめき、食器の音
「ここの、唐揚げ定食が美味しいんです」
月城さんは、少し緊張した面持ちで、学食のメニューを指差した。
僕は彼女のおすすめ通り、唐揚げ定食を注文した。
『ど、どうしよう……! 初めての学食デート! デートって言っていいよね!? これはもうデートだよね! でも、彼、猫舌だったりしないかな? 唐揚げ、熱すぎないかな? もし火傷でもしたら、私、責任取って結婚しないと……!』
彼女の思考は、いつも通りあらぬ方向へ飛躍していく。
運ばれてきた唐揚げは、確かに熱々で美味しそうだった。
「いただきます」
「……いただきます」
二人で手を合わせ、食事を始める。
向かい合って食べる、という行為が、なんだかひどく照れくさい。
「本当だ。美味しいですね、これ」
「よかったです」
彼女は、そう言って嬉しそうに微笑んだ。
クールな表情がふわりと和らぐ。僕は、その笑顔に心臓を掴まれたような気持ちになった。
『笑った! 私の笑顔を見て、彼も笑った! 笑顔の連鎖! 世界平和の始まり! 私たち、もしかしたら世界を救えるかもしれない!』
そんな大げさな心の声を聞きながら、僕は唐揚げを頬張った。
彼女といると、どんな些細なことでも、特別な出来事に思えた。
彼女の新たな一面も、たくさん知ることができた。
意外にも甘いものが大好きで、特にチョコレートには目がないこと。
ホラー映画が苦手で、少し大きな物音がしただけでも飛び上がるほど怖がりなこと。
そして、時々、僕が想像もしないような大胆なことを考えていること。
ある日、キャンパスのベンチで並んで話していた時だった。
僕が、少し伸びた前髪を指でかきあげた。
『ああ、前髪……。あの、さらさらの髪に触ってみたい……。指を、通してみたい……。もし、もしも風が吹いて、彼の髪が私の頬を撫でたりしたら……私、そのまま天に召される……』
その直後、本当に、いたずらな風が僕たちの間を吹き抜けた。
僕の髪が数本、彼女の頬をかすめる。
SE:風の音
彼女は、ビクッと体を硬直させた。
そして、心の声が、歓喜の絶叫を上げた。
『来たああああああああ! 現実が私の妄想に追いついた! 神様ありがとう! この一瞬を、私は生涯忘れない! 永久保存! 脳内に永久保存します!』
彼女は、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
僕は、そんな彼女の純粋な反応が可愛くて、どうしようもない気持ちになった。
この能力があってよかった、と心から思う。
彼女のこんなにも豊かな内面を、世界で僕だけが知っている。その事実が、僕に優越感と、そして大きな幸福感を与えてくれた。
しかし、良いことばかりではなかった。
この能力は、時として僕を苦しめることもあった。
*
それは、ゼミの発表が近い、ある日の午後だった。
僕は、同じゼミの女子学生と、図書館のロビーで打ち合わせをしていた。月城さんは、少し離れた席で本を読んでいる。
「ここのデータ、もう少し詳しいのが必要だと思うんだけど、どう思う?」
「そうだね。去年の統計と比較してみるのがいいかもしれない」
ごく普通の、真面目な会話だ。
だが、月城さんの心の声は、穏やかではなかった。
『……近い』
ぽつりと、呟くような声が聞こえた。
『なんで、あんなに距離が近いの……。打ち合わせだっていうのは、わかってる。わかってるけど……! あの女、彼に気があるの、絶対! さっきから、やたらとボディタッチが多いし! 肩とか、腕とか! 許せない! 私だって、まだ髪の毛しか触れてないのに!』
彼女の心の声は、みるみるうちに黒い感情で満たされていく。
嫉妬、不安、焦り。
僕は、その声を聞きながら、ゼミの学生との会話を続けた。早く終わらせなければ、と思うのだが、話はなかなか終わらない。
『笑ってる……。彼が、私以外の女の人に笑いかけてる……。あんな優しい顔、私にしか見せちゃいけないのに。ずるい。ずるい、ずるい、ずるい!』
心の声が、悲鳴のように響く。
僕は、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
違うんだ、月城さん。これはただの打ち合わせで、彼女とは何でもない友人なんだ。
そう叫びたかった。でも、できるはずがない。
やがて、打ち合わせが終わり、女子学生は去っていった。
僕は、恐る恐る月城さんの方を見た。
彼女は、表情一つ変えず、静かに本を読んでいた。まるで、僕たちのことなど全く気にしていないかのように。
でも、僕には聞こえる。
『……もう、やだ。帰りたい。彼の顔、見れない。私、すごく醜いこと考えてる。こんなの、彼女失格だ……。氷の女王なんて、ただの強がり。本当は、こんなに嫉妬深くて、独占欲が強くて……嫌な女……』
自己嫌悪に陥った彼女の心の声が、僕の胸に突き刺さる。
違う。君は、嫌な女なんかじゃない。それだけ、僕のことを想ってくれているんだろう?
でも、その言葉を、僕は届けることができない。
心の声が聞こえるという、この特殊な関係が、もどかしくて仕方がなかった。
僕は、どうすれば彼女の不安を取り除けるのか、必死で考えた。
メッセージを送る? でも、なんて送ればいい? 「さっきのはただの友達だから」なんて、不自然すぎる。
僕は、しばらくその場で立ち尽くしていた。
彼女の心の声は、どんどん沈んでいく。
その時、僕は一つのことを決意した。
このまま、心の声に頼って、彼女の誤解が解けるのを待つのはやめよう。
僕自身の言葉で、行動で、彼女に気持ちを伝えなければならない。
たとえ、それが空回りに終わったとしても。
僕は、彼女の席へとまっすぐ向かった。
SE:主人公の足音
僕が近づいてくるのに気づき、月城さんは驚いて顔を上げた。
その瞳が、不安げに揺れている。
『え……? こっちに来る……。なんで……? 私が、変な顔してたかな。怒ってるって、バレたかな……』
僕は、彼女の机の前に立った。
そして、まっすぐに彼女の目を見て、言った。
「月城さん。今度の週末、空いてる?」
僕の口から出たのは、自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
彼女は、目をぱちくりさせている。
『……週末?』
心の声が、呆然と呟いた。
「もし、よかったら……一緒に出かけないかなって。映画とか、どうかな」
言った。ついに、言ってしまった。
もう、後戻りはできない。
彼女の心の声が、僕の言葉を反芻している。
『……映画? 私と、彼が? 二人で? それって……』
彼女の思考が、ゆっくりと、しかし確実に、一つの結論にたどり着く。
『…………デートのお誘い!?!?!?』
次の瞬間、彼女の心の声は、歓喜と混乱のるつぼと化した。
『ええええええ!? なんで!? どうしてこのタイミングで!? さっきまで、私、嫉妬の炎でドロドロに溶けてたのに! なにこの急展開! ジェットコースターにもほどがある! 心臓が! 私の心臓が、大気圏を突破しちゃう!』
僕は、そんな彼女の内心を知りながら、必死で真剣な表情を保った。
彼女は、しばらくの間、何も言えずに固まっていた。
やがて、彼女は、決心したように顔を上げた。その頬は、夕焼けのように赤く染まっている。
「……はい」
彼女が、か細い、けれどはっきりとした声で答えた。
「行きます。……行きたい、です」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、何かが弾けたような気がした。
よかった。僕の気持ち、少しは伝わっただろうか。
『行くって言っちゃった! 言っちゃったよ私! どうしよう、何着ていけばいいの!? 週末まであと三日しかない! 服がない! 髪も切らなきゃ! ネイルも! ああ、忙しくなる! 幸せな悲鳴!』
彼女の脳内は、すでに来るべき週末のことでいっぱいだった。
その騒がしい心の声を聞きながら、僕は、心の底から安堵していた。
僕たちの間にある、もどかしくて、くすぐったい距離。
でも、その距離を、僕たちは今、自分たちの力で、一歩だけ縮めることができたのだ。
週末のデートは、驚くほど順調に進んだ。
僕たちは、流行りの恋愛映画を見て、カフェでお茶をした。
彼女は、終始緊張していたけれど、その表情はとても幸せそうだった。
SE:街の雑踏、カフェの環境音
「映画、面白かったですね」
「はい。……あの、主人公の男の子が、ちょっとだけ、あなたに似てるなって」
彼女は、恥ずかしそうにそう言った。
『全然似てない! あなたの方が百億倍かっこいいです! って、言えるわけない! 私の馬鹿!』
心の声は、正直だった。
僕は、そんな彼女が愛おしくてたまらなかった。
帰り道、僕たちは公園のベンチに並んで座った。
夕日が、僕たちの影を長く伸ばしている。
僕は、今日、ずっと言おうと決めていた言葉を、口にした。
「月城さん。……いや、栞さん」
名前を呼ぶと、彼女の肩が大きく跳ねた。
『し、栞さん……!? な、名前で……! 無理、無理無理! 心臓が口からまろび出る!』
「僕と、付き合ってください」
静寂。
風の音だけが、聞こえる。
彼女の心の声も、ぴたりと止まっていた。
僕は、彼女の返事を待った。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
やがて、彼女の心の声が、静かに、けれど力強く響いた。
『……はい』
それは、僕が今まで聞いた中で、一番優しい声だった。
彼女は、顔を上げて、僕をまっすぐに見つめた。
その瞳は、少し潤んでいる。
そして、彼女は、彼女自身の声で、はっきりと答えてくれた。
「……はい。喜んで」
その瞬間、世界が、輝き出したように見えた。
僕は、そっと彼女の手に自分の手を重ねる。
彼女は驚いたように体を震わせたが、その手を振り払うことはなかった。
それどころか、小さな指が、僕の指にそっと絡みついてくる。
SE:微かな衣擦れの音
その瞬間、彼女の心の声が、とてつもない大音量で僕の脳内に響き渡った。
『手ええええええええ! 繋いだあああああああああ! 幸せすぎて、私、今日、死ぬのかもしれない!!!!!!』
その、あまりにも騒がしい愛の叫びを聞きながら、僕は笑った。
この能力が、この先どうなるのかはわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
彼女の心の声が聞こえる、彼女の隣が、僕の居場所だ。
この、世界で一番うるさくて、愛おしい騒音と共に、僕はこれからも歩いていくのだろう。
それも、最高の人生だ。
僕は、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
隣で、彼女が幸せそうに微笑む気配がした。
静寂図書館のキミは、心の声がうるさすぎる【ボイスドラマ】【G’sこえけん】 旅する書斎(☆ほしい) @patvessel
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