其十八

​「どうぞ」

​環世は、襖の前に立ち、ノックをして合図をした。すぐに返事が返ってきたので、「失礼します。布団とお膳を片付けに伺いました」と言って部屋に入っていった。

​万代は、朝の時と同じように、窓際の椅子で海を見つめている。これから、自分の展示会に出かけるのか、浴衣ではなく、到着した時と同じ和服を着ていた。緩やかなウェーブのかかった、白髪交じりの髪は肩まで伸びていて、表情は見えない。

​環世は「それでは」と断り、シーツを取り外し、布団の片付けを開始した。畳んだ布団を押し入れにしまい終わると、浴衣を新しいものに取り替えた。卓の方を見ると、納豆やみそ汁は残しているようだった。

​膳を部屋の外に運び出し、その後、机を丁寧に拭き、持ってきた替えの湯呑みや、お茶請けの煎餅を漆の盆の上に置いた。要望があれば、漬物や甘味も提供するが、万代が「お茶請けは煎餅が良い」とのことらしいので、そうした。

​「お茶はいかがいたしましょうか?よろしければ、今お淹れいたしますが」

​環世がそう聞くと、万代は初めて環世の方に顔を向けた。しばらく黙り込んでから、細くつり上がった目尻と、眉間にシワを寄せた薄い眉毛で、口ひげに少し息をかけるように言った。

​「あんた、海は好きか?」

​環世はいきなりの質問であったが、答えないわけにはいかないので、「そうですね」と思案顔で、少し間を取ってから、「海はここに勤め始めてから、初めて見ました。見れてよかったなとは思っています。見る日によって表情を変えるので、それは見ていて面白いです」と答えた。

​母が好きだったからということは明言せずに、今思っていることを素直に伝えることにした。あえて万代に逆に聞き返すようなことはしなかったのは、彼が積極的なコミュニケーションを取りたいのかはわからなかったし、しばらくは彼の発言に注意を向け、会話の癖を探った方が良いと判断したからだった。

​万代はそれを聞いている間、彼女を見つめ、その後も何も言わなかったが、すぐに顔を再び海に向け、「そうか」とだけ言った。そして、彼女が片付けがすべて終わり、出ていこうとした時、「このあと、私は出かけるから、部屋はそのあと掃除しておいてくれ。布団は、夕食のあと、風呂にでも入っている時に敷いといてくれればいいし、荷物は付き人が持つから見送りは要らない」と告げた。

​「かしこまりました。そのようにさせてもらいます。それでは行ってらっしゃいませ。また、お戻りになって必要があればお声掛けください」

​彼女は万代に言われた言葉をそのまま受け取り、そう言って部屋から出た。

​そのあと、見送りの時も、昨日までの様子だと玄関の外までの見送りは要らないということだろうと思ったので、ロビーの端で会釈する程度にとどめたが、それだと女将や他の仲居が気をもむので、事前に女将には「万代様のご要望で、ここでお見送りします」とだけ伝えていた。

​そして、万代は環世に気づいたか気づかぬかわからないまま、付き人を先頭にして、旅館前に止めてあるリンカーンに、この時も不機嫌そうに乗り込み、美術館へ出ていった。女将は万代の要望だとは聞いていも少し、不安そうだった。対応の解釈の是非の答えはわからなかったが、それでも、昨日よりは、幾分足取りは軽そうだった。


万代が出ていった後、部屋を掃除していると、手伝う素振りで、丸山が様子を見にやって来た。

「調子はどうかな、このあとも上手くやれそうかい?何か言われなかったか。」

「いえ、それにまだ、対応を始めたばかりですので、どうとも言えませんね。出来る限りはさせてもらいますが。」

「そうだな、あの手の気難しい客は、とりあえず言う事聞いといたほうがいいな。俺なんて昔、ロビーの目の前で土下座させられたこと何度もあったよ」

「まぁ、丸山さんでもそんなご経験が?ご苦労なさって今の丸山さんがあるのですね。貴重なお話が聞けた気がします。」

「なぁに、まわりも運が悪かったとは言うけどね。金持ちやプライドの高い客は気をつけてもなる時はなるからな、世間を騒がしてる風雲児たちじゃどうなるかわからんよ。東條も危なかったらすぐに教えてくれ。変わりに土下座くらいならしてやるから」

「まぁ、それは頼りになること。」

丸山が、どんなつもりでどこまで本気で言っているのかはわからなかったが、それを聞いて環世も少しだけ緊張が取れたような気がした。

一緒に万代の部屋の掃除を終わらせ、掃除道具を環世の変わりに持つと、ほつれたおくれ毛をかきあげる彼女に、丸山は「それじゃ頑張って」と言って肩を叩いて出ていった。丸山を見送ると、彼女は、そっと肩を払って窓に目を向けた。

昼下がり、窓に見える西の海を眺めてみると、遠くに一艘の貨物船が、地平線をなぞるように煙を吐きながら走っていた。その上を渡り鳥たちが、その重たい身体を笑うように飛んでいる。

吹き抜ける潮風に、環世の先ほどかきあげたほつれ髪が垂れ下がり、その薄い唇をくすぐった。

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そぞろごと〜月を食べる海〜 にとらかぼちゃ @nitorakabocha

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