バリカタ

藤沢INQ

せからしか

 午前十時、東京・環七沿いにある小さな自働車整備工場〈ツバメモータース〉は、今日も鉄と油の匂いで満ちていた。


 シャッターは半分だけ開き、差し込む夏の日差しが散らかった工具と金属片を照らす。工場内ではエンジンの唸りとラジオから流れる演歌が入り混じっていた。


「おいコラ、姉ちゃんよォ。昨日直してもらった足回り、また鳴いてんぞ。ボッタクリか、この店は? おぉん? 聞いてんのかテメェ?!」


 入口でタバコを咥えたまま怒鳴り込んできたその男は、顔の半分が龍の刺青で覆われている。普通の整備工場なら即出禁だが、この店ではただの一般客だった。


 リフトの下から這い出してきた多町みぞれは、後ろで雑に束ねた長めの黒髪をひと撫でし、油染みのついたツナギの袖で額を拭った。鼻筋には煤と汗の筋が走り、やや幼さの残るその顔には、これでもかと吊り上げられた片眉と、眉間の深い皺が刻まれていた。


「は? なん言いよっとね。せからしか。どーせまた壊したっちゃろ。うちが組んだとこにケチつけると? 足回りより、あんたの頭んネジ締めた方がよかごたぁ」


 スパナを片手に詰め寄ると、そのまま油まみれの手で相手の胸ぐらを掴みかかる。オーナーが「まあまあ」と間に割って入り、二人を引き離した。


 しかし、ここではそれが日常だった。なにせ客の九割がDQN、半グレ、ヤクザ。残りの一割は、たまたま入ってきた運の悪い一般人である。


「まあまあ、じゃねえよ。ナメてんのかテメーら!?」


 怒声と同時に、客はオーナーの胸を押し飛ばした。よろけたオーナーの肩が、工具棚にぶつかって鈍い音を立てる。


 みぞれは、考えるより先に動いていた。持っていたスパナが、ためらいなく客の膝小僧に叩きつけられる。金属と骨がぶつかる、嫌な鈍音。空気が一瞬止まった。


「――ッあああああああッ!」


 膝を押さえて転がり回る客。みぞれはスパナを肩に担ぎ、冷え切った目で見下ろしていた。


「ネジも人も、締めるときは容赦せんとよ。うちの師匠、突き飛ばすアホはこん店にいらん」


 呻き声をかき消すように素振りを繰り返す。その音に怯えたのか、客は何も言わず、足を引きずりながら車に乗り込み、走り去っていった。


 シャッターが揺れる音だけが、しばらく工場内に残っていた。工具棚にもたれかかったオーナーがため息をつきながら、苦笑いを浮かべる。


「……やりすぎだぞ、みぞれ。また客がいなくなるだろ」

「減って困る客やったら、最初から来とらんばい。あいつもどうせまた来るっちゃ」


 悪びれる様子もなく、みぞれは肩をすくめると、手元のスパナを軽く回して工具箱に放り込んだ。そして、何事もなかったかのように次の車のボンネットを開け、覗き込む。


 工場内には、再びエンジンの低い唸りと金属の音が戻ってきた。


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