星の標を辿って

火属性のおむらいす

第1話

夢から覚めると、日は既に落ちていた。いけない、少し遅刻したかしら、と空を見れば、細い三日月と目が合う。早くおいで、と言うように優しい風が吹いた。浮き立つ気持ちを抑えつつ夜闇と同じ色をした服に袖を通す。埃被った鏡を覗いて髪を軽く整えたら、準備は完了。ベッドの傍に立てかけてあった古い箒を手に取って、窓を開ける。夜の涼やかな香りが部屋いっぱいに広がった。月の明かりに目を細めながらお気に入りの靴を履き、箒にまたがる。

「いってきます」

部屋に向かって小さくそう呟くと、星の光目掛けてふわりと飛び上がった。

最近は夜になっても地上が明るいままだから、飛んでいるとまるで星々を見下ろしているような気持ちになる。そうやって本物を隠してしまうくらいの強い光を浴びているのも好きだけれど、やっぱり少し刺激が強すぎると感じてしまう時もある。くらくらしてきた頭を軽く押さえつつ、足元の星の明かりが少ない方へと箒を向けた。

数十分もすれば足元はすっかり暗くなって、代わりに頭上に光が増えてきた。どうやら海の上に来たらしい。潮の香りのする風が長い髪を揺らした。穏やかな水面がぼんやりと月の光を反射している。辺りを見回すと船はどこにも浮かんでいなくて、夜の静謐さだけが辺りを満たしていた。きっとこの辺りには人が居ないのだろう。そう判断して、少しずつ箒を海面に近づける。波は変わらず穏やかだ。ふと少し遠くで鯨が潮を吹くのが見えて、そちらに箒を向けてみる。しかし鯨の気配は波に紛れてすぐに分からなくなってしまって、見つけることはできなかった。諦めてもう一度高く飛び上がる。その時ふいに後ろから声をかけられた。

「こんにちは、魔女さん。良い夜ですね」

カンテラの灯りがふわふわ揺れて、隣に並ぶ。髪の短い、若い魔女がぎこちなく微笑んでいた。

「あら、こんにちは。見かけない顔ね。」

若い魔女は恥ずかしそうに頬をかくと、頷いて言った。

「ええ、まだ魔女見習いなんです。私。箒で飛ぶのもまだ慣れなくて。」

よくよく見れば箒も服もまだ真新しく、手に力が入っている。どうやら彼女の言葉に嘘は無いらしい。思わず緩い笑いが漏れた。

「そのようね。なら教えてあげるわ、見習いさん。魔女は普通、カンテラは使わないのよ。」

「えっ!?で、でも、明かりも使わずにどうやって空を飛ぶんですか...?」

軽く笑って、空を指さす。若い魔女がカンテラの灯りを消すと同時に、輝きを潜めていたそれらが一気に浮かび上がった。

「そんなもの使わなくても、空がいつだって私たちの旅路を照らしてくれるわ。」

はっとして空を見上げる彼女に、笑って言う。

「それとね、魔女は志して成るものじゃないわ。ただ自分の心のままに、気まぐれに空を旅しているのなら、貴方だって立派な魔女よ。」

「自由に...」

「そう、忘れないで。私たちは夜闇に生きる旅人なのよ。誰も私たちを縛るものはいないし、縛ることは出来ない。」

若い魔女は少し考え込むと、何処か納得したように頷いた。その表情は心なしか、先程までより晴れ晴れとしている。

「わたし、魔女のこと勘違いしてました。そうですよね、もっと自由になってもいいんだ」

その視線は紛うことなくこちらを向いている。どうやらもう夜闇に慣れてきたらしい。きっと彼女もまた、良い魔女になるのだろう。同じ方を向いていた箒の先を少しだけずらして微笑む。

「それじゃあ、この辺りで。貴方の旅路が良いものになる事を祈っているわ、魔女さん。」

若い魔女は頭を下げると、元気よく笑った。

「ありがとうございました!そちらもどうか良い旅を!」

ふわりと風が吹いて、スカートの裾が揺れる。いつの間にか潮の香りは消えていて、代わりに風に呼応するように葉の擦れる音が聞こえてきた。どうやら森の近くに来たらしい。ふと思い出して、若い魔女の背に言葉をなげかけた。

「そうそう、魔女っていちいち人の顔を覚えたりしないのよね。」

それだけ言うと再び前を向き、変わりゆく景色に心を委ねる。こうやって誰かと言葉を交わすのも、たまには悪くない。そんなことを考えながら、空を見上げた。

月はまだ昇ったばかりで、夜が明けるまではまだまだ時間がありそうだ。それまではこの、永く愛おしい旅の時間を楽しんでいよう。気まぐれで、自由で、楽しい魔女の旅を。

「さぁ、次はどんな景色が見られるかしら」

まるで笑うように、視界の端で星が流れた。

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